11月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
1852年11月4日は、カミッロ・カヴール(1810-61)がサルディーニャ王国(1720-1861)の第9代首相に就任した日です(第9代在任1852-59,第11代在任1860-61)。
19世紀、イタリア各地では、リソルジメント(Risorgimento。”再興””復興”が原義)と呼ばれる外国支配からの解放と国家統一が盛んでした(ウィーン会議の当事国オーストリアより北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを奪われていました)。一方、地中海第2の島サルデーニャ(サルディニア。コルシカ島からすぐ南に位置)では、サヴォイア家の王国、サルディーニャ王国がありました。1849年にのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-78)がサルデーニャ王として即位し(位1849-61)、王国の近代化だけでなくサルディーニャ王国によるイタリアのリソルジメント達成、つまり対オーストリアおよびイタリアの統一政策を重視していきました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、これらの諸政策を自由主義者のカミッロ・カヴールに託し、陽の当たった1852年11月4日、サルディーニャ王国の首相に任命しました。
カヴールはトリノ出身で、自由主義思想とリソルジメントへの野望を持つ人物であり、1847年には『リソルジメント』誌を創刊して、先代のカルロ・アルベルト王(王位1831-49)の時代から受け継がれている立憲体制の必要と、オーストリアへの報復、そしてサルデーニャのサヴォイア家を軸とするイタリア統一を主張していました。実は第一次イタリア・オーストリア戦争(1848.3-49.3)で戦った父、カルロ前王が、会談したジュゼッペ・マッツィーニ(1805-72。イタリア統一を掲げて”青年イタリア“を組織。1849年2月、ウィーン体制を支持するローマ教皇がローマを離れている間に半年間”ローマ共和国“を建設)とサルデーニャの統率をめぐって意見が合わなかったことをヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は悔やんでおりました。彼は、マッツィーニのように暴力と民衆蜂起でなりたつリソルジメントは限界があり、彼の共和主義思想は空想的であると批判、列強と手を組んでサルデーニャの国際的地位を高めてこそ、リソルジメントが実現できると考えていたのです。
ヨーロッパでは、この時期、東方問題(オスマン帝国領土に関わる外交問題)に揺れ動いていました。1853年、黒海でクリミア戦争(1853-56)が勃発、ロシアはトルコと戦い、トルコにはイギリス・フランスが援助しました。この情勢下でサルデーニャは、同じくオーストリアと敵対する、第二帝政となったフランス・ナポレオン3世(位1852-70)に接近、遂に列強同士の戦争に参戦することになりました(1855)。サルディーニャは英仏トルコの連合国側につき、ロシア相手に戦いました。終戦後、パリ会議(1858)においてサルデーニャの国際的地位が高まり、フランスの後援によって、対オーストリア戦争への準備が整いました。またマッツィーニと並ぶもう一人のリソルジメント主導者で、亡命していたジュゼッペ・ガリバルディ(1807-82)が1854年に帰国、クリミア戦争に参戦するサルデーニャを見たとき、共和主義からのリソルジメントは非現実的だとし、サルデーニャによるイタリア統一を考えるようになりました。一方マッツィーニは、1853年ミラノ、1857年ジェノヴァで革命運動を指導していました。
フィレンツェ市があるトスカナ地方など中部イタリアでは、同地方の諸邦がサルデーニャへの合併を希望し始めていました。そこでカヴールはナポレオン3世との関係を維持しながら、1858年、プロンビエールの密約を交わしました。カヴールはサヴォイア家の中部イタリア併合承認の代償として、サヴォイア(サヴォイ)と港市ニース(ガリバルディの出身地)を割譲して、フランスはサルデーニャの対オーストリア戦争の支援を約束しました。
プロンビエール密約を知ったオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(位1848-1916)は、サルデーニャが仕掛ける前に開戦に踏みきり、1859年4月、遂に第2次イタリア・オーストリア戦争が勃発しました(イタリア統一戦争。1859.4-59.7)。この戦争には、ガリバルディも参加し、活躍しました。パダノ・ヴェネタ平野に位置するソルフェリーノでの激戦で、フランスの援助を受けたサルデーニャが勝ちを収め、その後も連勝を重ねて、中部イタリアとその以北の諸邦の合併の気運が上昇していきました。
ところが、予期せぬ出来事が起こります。フランス・ナポレオン3世は、南接するイタリアが合併・統一によって強大化していく姿を脅威に感じ始めたのです。ついにフランスはサルデーニャを見捨てて、同年7月、ヴィラフランカの講和をオーストリアと締結することになり、統一戦争は中途で挫折し、プロンビエール密約の締結内容も流れてしまいました。これに失望したガリバルディは、サルデーニャから離反しましたが、フランスはヴィラフランカの講和で、オーストリアからロンバルディアをサルディーニャ王国に割譲させる取り決めを行いました。
イタリア統一戦争の結果、サルディーニャにおけるイタリア全土の統一は、北イタリアのロンバルディア併合のみとなりました。しかも北イタリアにはまだヴェツィアが残っていました。1860年、カヴールはサヴォイとニース割譲の代償として、サルディーニャの中部イタリア合併を実現させるため、同地の住民投票を行ってこれを決定し、3月、ナポレオン3世の合意をようやく取り付けたのです(中部イタリア併合)。
一方南イタリアでは、1815年のスペイン・ブルボン王朝の王政復古によって、ナポリ王国(1282-1815)がナポレオン支配から解放され、その後シチリア王国と合邦、両シチリア王国の復活が実現しました(1815-60)。サルデーニャは今度、南イタリア併合を目指し、ガリバルディを利用します。1860年5月、カヴールの要請を受けたガリバルディは、自ら組織した義勇軍、”千人隊(赤シャツ隊)”を率いて、ジェノヴァからシチリアに向けて出発しました。シチリア上陸後は住民に支援され、同島占領後(9月)、本土に上陸、南イタリアを征服しました。半島内ではローマ教皇領が残っていましたが、いまだフランス軍が軍隊を残していました。カヴールはガリバルディが、かつてマッツィーニとローマ共和国を立ち上げ、共和主義政権をおこすことに危惧の念を抱いていました。このため、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世自らガリバルディと会見することになり(1860.10.26)、会談の結果、ガリバルディはリソルジメントの完成という大義に変わりはないことで意見が一致、再びサルデーニャによるイタリア統一を志し、同年占領した南イタリアをサルデーニャに献上したのです。これで南イタリア併合も完成しました。
こうして、形式的ではありますが、リソルジメントは達成されました。1861年2月、トリノでイタリアの代表が国会を召集、3月、遂にサヴォイア家によるイタリア王国が誕生、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代イタリア国王となり(位1861-78)、カヴールはイタリア王国首相に就任(在任1861.3.13-1861.6.6)、1720年以来サルデーニャ王国の首都だったトリノを都に置きました(のち、フィレンツェ→ローマに遷都)。
しかし、カヴールはとうとう力尽きて、就任直後にマラリアにかかり、1861年6月6日、没しました。カヴールはまさにイタリア統一のために命を捧げた英雄となりました。カヴールはマッツィーニ、ガリバルディとならび、イタリア統一の三傑と呼ばれたのです。
引用文献『世界史の目 第96話』より
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