11月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
1620年11月8日は、三十年戦争(1618-48)初期の戦闘、ビーラー・ホラの戦いが勃発した日です。
神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝で、オーストリア・ハプスブルク家のフェルディナント2世(位1619-37)は、イエズス会の教育を受けてオーストリアでの反宗教改革を推進した熱心なカトリック信者で、ハプスブルク家領から新教徒を一掃する方針をうちたてました。神聖ローマ皇帝として即位する2年前にベーメン(ボヘミア。チェコ北部)の王に就きましたが(ベーメン王位1617-27)、熱狂的カトリック信者がベーメン王になったため、ベーメンのプロテスタント貴族・傭兵軍といった新教徒が、フェルディナント擁立の翌1618年、フェルディナント廃位と、新教徒であるプファルツ(ファルツ)選帝侯フリードリヒ5世(侯位1610-1623)即位の宣言を行い、ハプスブルク家に対して武装蜂起をおこしました。これが三十年戦争の勃発です。翌1619年ベーメン新教派はプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王フリードリヒ(冬王。王位1619-1620)として擁立しました。
ハプスブルク家は、新教徒のこれらの宣言を無視して本格的に新教徒弾圧を開始しました。元々新教徒出身だったベーメンの軍人ヴァレンシュタイン(ワレンシュタイン。1583-1634)は、ハプスブルク家に仕えたことでカトリックに改宗し、皇帝を支持して軍を結成しました。陽の当たった1620年11月8日、スペイン・神聖ローマ帝国連合軍として進軍したハプスブルク軍は、プラハ西郊外にある丘・ビーラー・ホラ(白山)で新教徒貴族・傭兵軍と激突しました。短時間で新教軍は壊滅し、ハプスブルク軍の圧勝となりました。これがビーラー・ホラの戦い(白山の戦い)です。戦死を免れた新教軍は、処刑・国外追放・私権没収など厳しい処罰を受けました。ベーメン王フリードリヒは廃位させられ、オランダへ亡命することになりました。ベーメンはカトリック改宗を余儀なくされ、ハプスブルク家からの独立を完全に奪われたのです。
実はベーメンの新教派が簡単に敗れたのは理由がありました。ベーメン反乱が行われる以前から、旧教徒はリガを、新教徒はウニオンをそれぞれ同盟組織として結成し対立していました。ウニオンには、ベーメンやプファルツ以外にもザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯といった新教派が属していました。しかし、国体護持のためザクセンやブランデンブルクがベーメンを見捨ててハプスブルク家を支援したという事情があったため、盟主ハプスブルク家率いる旧教同盟リガが圧倒的に勝利を収めることができたのです。
1619年に神聖ローマ皇帝として即位したフェルディナント2世は、本格的に新教徒弾圧を企図しようとしましたが、ベーメンの反乱を決着したはずが、他の新教国を刺激させたことで、予想外の展開を迎えます。短期で終わるはずが、領土的野心から多くのヨーロッパ諸国が介入・参戦し、戦況規模が拡大した長期の戦争となっていったのです。旧教徒側は皇帝軍として結成され、新教徒側は新教国や新教諸侯、また新教都市の軍が結集されていきました。
こうした新たなヨーロッパ情勢が築かれていく中、ハプスブルク家も大きな転機を迎えます。同じカトリック国であるものの、敵国でもあります隣国フランスが動いたのです。当時のフランス(ブルボン家)はルイ13世(正義王。位1610-43)の治世でしたが、1624年、ルイ13世の宰相に有能な政治家リシュリュー(1585-1642)が選出され、その後彼の建議によってオランダ・イギリス・スウェーデン・デンマークといった新教国と同盟が結ばれました。カトリック国であるフランスが、カトリックのハプスブルク家に対抗する、命がけの同盟結成でありました。かくして、旧教側にはスペインを擁するハプスブルク家(神聖ローマ皇帝側)が中心となり、新教側には新教国デンマーク、スウェーデン、オランダ、イギリス、そして、カトリックですが反ハプスブルクということでフランスがバックアップし、ドイツを舞台に大規模な戦争と発展していきます。
当初はオーストリア対ベーメンだった単純なビーラー・ホラの戦いが、列国の介入によってヨーロッパ諸国を巻き込む悲惨な三十年戦争の時代へと変貌を遂げていくのでした。
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