11月20日は何に陽(ひ)が当たったか?

1910年11月20日は、メキシコ革命が勃発した日です。1867年のメキシコからご紹介致します。
1867年のメキシコ。フランス第二帝政(1852-70)・ナポレオン3世(位1852-70)の敢行したメキシコ傀儡帝政(メキシコ第二帝政。1864-67)に対して抵抗を続け、ついに帝政を倒してフランスを撤退させ、メキシコ大統領に再任したベニート・ファレス(1806-72。大統領任1861-63,67-72)は自由主義改革者で、メキシコ近代化を目指してさまざまな民主改革を進めていきましたが、1872年に惜しまれつつ病没し、セバスチャン・レルド・デ・テハダ大統領(任1872-76)の政権となりました。
ファレス政権時代、フランスの干渉や革命運動に参加し活躍した、ポルフィリオ・ディアス(1830-1915)という元軍人がおりました。彼は打倒ファレスを掲げ、1867年のメキシコ大統領選挙戦でファレスと争うも敗北、二度目(1871.6)の選挙戦にも再出馬しましたがこれも敗北しました。結果的にはこの直後に武装蜂起という手段に出ましたがこれも失敗、逮捕され収監されました。ファレスは1872年に没し、政権がテハダに移ると、ディアスは特赦で釈放者となり、1876年の大統領選挙で三度目の出馬を試みました。しかし結果はテハダの再選となりました。ディアスは前回同様に武装蜂起に出てテハダ政権を打倒、テハダはアメリカへ亡命しました(1876)。
1876年11月、ディアスは自ら大統領選挙のやり直しを実施して、自ら再出馬して勝利を収め、自身初の大統領のイスを勝ち取ることに成功しました(ディアス大統領就任。任1876-80,1884-1911)。途中、軍人マヌエル・ゴンザレス(1833-93)に大統領の座を明け渡した時期もありましたが(任1880-84)、結果的には1911年までの長期にわたる強権統治を現出しました。これは、憲法改正によって大統領任期の延長を可能にした結果でした。この点ではファレスの民主化とはかけ離れた、強力な専制政治でした。
ディアス大統領はメキシコ近代化に取り組むため、まず数十人の有識者の力を借りました。彼らは行政を科学でもって成功に導くことをディアスに助言、ロス・シエンティフィコス(Los Científicos。スペイン語で”科学者たち”の意味)と呼ばれました。彼らの助言による計画をもとに、鉱山開発、 鉄道網拡大、そして蒸気機関の導入などが行われ、産業発展が促されました。またディアスは積極的にアメリカなどの外資も導入して殖産興業につとめ、農産品関連の通商自由化に取り組んで市場の活性をはかり、社会と財政の安定に努めました。このディアスの資本主義政策で労働供給は増加、首都メキシコ・シティの経済は活性化しました。しかしながら、こうした産業発展と経済活性化を招く反面、貧富の格差がいっきに拡大、ディアス政権批判の火種の1つとなっていきました。
ディアスは土地政策にも着手しました。メキシコは17世紀以降、これまでのエンコミエンダ制(スペイン国王がアメリカ大陸支配を行っていた時代、征服地の先住民をキリスト教に改宗させることを条件に、国王が大陸植民者に、征服地の統治を委託する制度。先住民は賦役労働を課される)に代わって、大土地農園制度のアシエンダ制が主流となっていきました。これは、大土地所有者がメキシコ先住民やメスティーソ(白人と先住民の混血)出身の農業労働者に労働力を依存して経営を行う大農園制度でした。ゆえに、メキシコの農村地帯はアシエンダ制度によって長く守られていたのです。近代化の妨げになるかと思われた旧来のアシエンダ制に対し、ディアスは理解を深め、地主勢力に支持基盤を依存していきました。このため、農業労働者は弾圧され、大地主によって土地を収奪される始末でした。そもそもメキシコ農民は農村共有地に依存するため、農民の土地所有権が明確ではなく、登記も曖昧でしたので、土地収奪における格好のターゲットとなったのです。
ディアスはこれらの土地を次々と接収して大地主や海外の資本家に売却したため、これらの下で従事する農業労働者のほとんどが土地を失い、低賃金労働者として、過酷な労働を余儀なくされていきました。土地奪還を目指してディアス政権に楯突く貧農たちはたびたび蜂起して反乱を起こすも、政府や地主、海外資本家が差し向けた軍や憲兵によって激しく弾圧されたため、屈服せざるを得ませんでした。ディアス政権への不満は徐々に拡大化していきました。
1905年、メキシコの無政府主義者リカルド・フロレス・マゴン(1874-1922)がディアス政権打倒を目標に、左翼政党であるメキシコ自由党を結党しました。自由党は農民の労働条件に関する綱領を発表して、労働問題の改善を指摘し、数度蜂起しました(結果は失敗)。こうした中、アメリカで金融恐慌がおこり(1907.10)、その余波でメキシコ経済も停滞し始めました。大土地所有者は土地を手放したり、農園を閉鎖する状況に見舞われ、多くの農業労働者が失職していきました。またメキシコ・シティ南方のモレロスでは、小作農出身で、メスティーソのエミリアーノ・サパタ(1879-1919)が農民を率いて反政府運動を展開し始めました。
そして、次の大統領選挙が近づいてくると、任期延長を可能にしたディアスは経済停滞、大地主の経営不振、労働争議、農民反乱などが渦巻く中で立候補しました。ディアスの再選を阻むべく、メキシコ北部のコアウイラ州から出たディアス再選反対運動の筆頭、フランシスコ・マデロ(1873-1913)が立候補しました。彼はディアス政権打倒を掲げて農民や貧困層を支持基盤に遊説をおこない、これに呼応した支持者は反政府運動を増幅させていきました。このためマデロはディアスの行政に楯突くものとして逮捕され(1910.6)、ディアスはマデロが収監中に選挙を実施、反対者を抑えたディアス側が勝利を収め、大統領に再選しました(1910.9)。ディアスは直後にマデロを特赦で釈放し、マデロはアメリカのテキサスへ亡命しました。亡命先でもディアス再選の無効を主張したマデロは10月、”サン・ルイス・ポトシ綱領“を発表してディアスを革命的な武装蜂起で倒すことを支持者に呼びかけました。するとメキシコではサパタをはじめ、革命家パスクアル・オロスコ(1882-1915)、政治家ベヌスティアーノ・カランサ(1859-1920)、また貧農の出で、チワワ州のマデロ派政治家アブラーム・ゴンザレース(1864-1913)に学んだパンチョ・ビリャ(1878-1923)、北西部ソノラ州出身のアルバロ・オブレゴン(1880-1928)らマデロ支持者たちが地方各地で蜂起し、反乱をおこしました。これが1910年11月20日、革命勃発の瞬間です(メキシコ革命勃発)。ディアス大統領は革命軍に屈服し、ついに大統領を辞任(ディアス大統領辞任。1911.5)、パリに亡命しました。その後ディアスは同地で没し(ディアス死去。1915.7)、モンパルナス墓地に埋葬されました。
ディアス辞任にともない、マデロが大統領に就任することになりました(任1911.11-1913.2。マデロ大統領就任)。カランサが国防大臣に就任し、軍司令官にディアス政権時代から引き続いてビクトリアーノ・ウエルタ(1850-1916)を起用、ゴンザレースはチワワ知事、オブレゴンはソノラ州のワタバンボ市長にそれぞれ就任しました。マデロ政権の新体制が始まりました。
引用文献『世界史の目 第229話』より

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