11月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

1378年11月29日は、ルクセンブルク家の神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝、カール4世(1316-78)の没年月日です(帝位1346-78)。
元来ルクセンブルク家はフランスの貴族だったアルデンヌ家を祖に持ち、同家からでたジークフロイト(ジーゲフロイト。ジークフリート。922?/928?-998)が963年に現ルクセンブルク大公国(1815年ウィーン会議にて成立)の首都であるルクセンブルク市の一帯を支配し、小さな城砦(リュシリンブルフク。lucilinburhuc)を築いた。この”リュシリンブルフク”が”ルクセンブルク”の語源とされております。
1308年、ルクセンブルク家からドイツ王として選出されたのは、本来ルクセンブルク伯(伯位1288-1310)のみに地位がとどまるはずでした、ハインリヒ7世(王位1308-13)という人物でした。アルブレヒト暗殺によりドイツ王位がめぐってきたハインリヒ7世は、1308年にドイツ王となりました。彼はドイツ王として、当時混乱していたイタリア情勢を沈静させるため遠征を起こしました(1310)。翌1311年には子ヨハン(1296-1346)をベーメン(ボヘミア。現チェコ西部)王の妹と結婚させたことにより、ヨハンはベーメン王ヤンとして即位しました(ベーメン王位1310-46)。ハインリヒ7世は続く1312年に枢機卿より皇帝戴冠を果たして念願の神聖ローマ皇帝となりましたが(帝位1312-13)、南イタリア遠征のさなかに没しました。このためベーメン王ヤンは父の後を継いでルクセンブルク伯ヨハン(伯位1313-46)としても即位しました。ベーメンではヤンに始まるルクセンブルク家の支配が4代続くことになり(ベーメン・ルクセンブルク朝。1310-1437)、勢力を強化していきました。
ハインリヒ7世の死によって、ドイツ王位および神聖ローマ帝位が空きました。選帝侯たちは自身の権力保持のため、大空位時代(1250年代半ばから1273年の間、ドイツ王が神聖ローマ帝国の帝位につくことがありませんでした)の経験から、君主の強権化を抑えようとする風潮にありました。これは、大空位時代の到来によって生まれた皇帝権の弱体化と、ドイツ王を選出する強力なドイツ諸侯、つまり選帝侯の強権化が背景にあり、弱小の君主を選べば、選帝侯たちは都合よくドイツ国家を動かせた当時の状況によるものでした。大空位時代を終わらせたのは、当時まだ弱小貴族だったハプスブルク家のルドルフ1世(位1273-91)です。今回も選帝侯たちはルドルフ1世を選出した時と同様にルクセンブルク朝の強勢を嫌ったため、結局バイエルンのヴィッテルスバハ家から出たルートヴィヒ4世(ドイツ王位1314-47。皇帝戴冠は1328年)と、その対立王としてハプスブルク家から出たフリードリヒ3世(美王フリードリヒ。ドイツ王位1314-30。戴冠なし。1325年から対立が解消されルートヴィヒ4世と共同統治)が即位しました。ルクセンブルク伯ヨハンは、ハインリヒ7世で始まった、ルクセンブルク家の神聖ローマ帝国による帝位世襲とはならなかったため、自身の子カール(1316-78)に帝位奪還を託しました。そのカールはベーメンの支配下にあったモラヴィア辺境伯(伯位1334-49)を父ヨハンから引き継ぎました。カールが地盤を固めている間、フリードリヒ3世は1330年に没し、高齢にさしかかったルートヴィヒ4世が単独統治者となったことで、ルクセンブルク家としてのドイツ王位奪還の機会が訪れました。
病気のためヨハンはのちに失明したにもかかわらず(彼は”ヨハン盲目王”の呼称がある)、百年戦争(1339-1453)の一戦場となった北フランスのクレシー(クレシーの戦い。1346)でフランス援護による対英戦に挑みました。しかしヨハンは戦地で陣没(ヨハン戦死。1346)、結果、子カールはルクセンブルク伯も引き継ぐこととなりました(ルクセンブルク伯位1346-53)。そして、ルクセンブルク家はヨハンの遺志を果たすべく、子のカールをルートヴィヒ4世の対立王としてたてたのでした(ドイツ王位1346-78)。この人物こそが、ルクセンブルク家の君主として燦然と輝く、カール4世です。
翌1347年、ルートヴィッヒ4世が没し、カール4世はついにドイツの単独統治者となりました。ヨハン没後はベーメン王カレル1世としても王位につき(ベーメン王位1346-78)、神聖ローマ帝国の都をベーメンの中心都市であるプラハに遷し、プラハ城を再建してこれを王城としました。またカールは青年期にパリで養育を受け、語学において高い教養を身に付けた経験から、ドイツ語圏において最初の大学であるプラハ大学(現在のカレル大学)の創設を決めた他(1348)、カレル橋の建設(1357年着工)などプラハの有力都市化およびベーメンの発展に尽力しました。こうした功績により、カール4世は”文人皇帝“、”ベーメンの父“と称されました。
カール4世は1355年に戴冠を受けて、ついに神聖ローマ帝国皇帝カール4世としてその名を轟かせました(帝位1355-78)。この間ルクセンブルク伯もルクセンブルク公へと昇格し、カールの後を受けてルクセンブルク伯となっていたヨハンの子ヴェンツェル1世(伯位1353-55)はルクセンブルク公ヴェンツェル1世となりました(公位1355-83)。
同1355年、カール4世が召集したニュルンベルク帝国議会、および翌1356年に召集したメッツ帝国議会において、皇帝カール4世はいわゆる”金印勅書(黄金文書)”を発布しました。これは、これまでの悪習であった、選帝侯の強権によって弱小貴族からしか王位を継承できない状態から脱するための手段であり、君主を選定する聖俗の選帝侯を7人定め(7選帝侯)、選挙王制の安定化をはかったのです。7選帝侯とは3名の聖職諸侯と4名の世俗諸侯で定められ、内訳はケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、ザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯(ファルツ選帝侯。ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)、そしてベーメン王の7名です。これにより、選帝侯の格付けや権力が定まり、過去のルートヴィヒ4世と同時に対立王としてフリードリヒ3世が選ばれるような重複選挙といった不正・不合理を防ぐことが可能となりました。 また皇帝選出に関して、ローマ教皇の承認も必要としなくなり、これまでローマ教皇との結びつきを重視するために神聖ローマ皇帝がとってきたイタリア政策を第一とする考え方が弱まることで、カール4世は強い皇帝権によって統一された領邦国家体制によって、強力なローマ帝国を築くことを目指していきました。
しかし結局は選帝侯を強化したことだけが一人歩きし、皇帝権強化というよりは諸侯の強権化、つまり領邦(帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の主権国家的性質をかえって助長することになってしまい、領邦の自立化がはかられて帝国の統一性は妨げられる形となっていくのです。
カール4世は1378年11月29日に没し、62年の生涯を終えました。ブランデンブルク選帝侯をつとめていた子のヴェンツェル(1361-1419。伯位1373-78)が選出されて、ドイツ王ヴェンツェルとして即位しました(ドイツ王位1376-1400)。