12月25日は何に陽(ひ)が当たったか?
800年のクリスマス、12月25日は、カールの戴冠が行われ、西ローマ帝国(395-476)が復興した日です。
フランク王国(481-887)では、カール1世(王位768-814)が就任してからは、出征の繰り返しで、その数は50回を上回りました。北イタリア遠征ではロンバルド王国(568-774)を滅ぼし(774)、ゲルマン一派のサクソン族(ザクセン。ドイツ地方・エルベ川中流域)と30年以上に及ぶ大戦争を繰り広げ(サクソニア戦争。772-804)、結局サクソン族はカール1世によって征服されました。778年にはイベリア半島に遠征してイスラム教徒に進撃し(778-801)、エブロ川以北を占領してスペイン辺境伯領をおきました。この戦いは12世紀になって、フランス最古の武勲詩『ローランの歌』でも広く読まれました。
787年にはバイエルン公国(ドナウ川上流。555?-1623)を併合、791年には中央アジアから侵入してきたモンゴル系遊牧民アヴァール人を平定し、ドナウ中流域にまで勢力を広げました。こうしたカール1世の出征によって、西ヨーロッパは次々とフランク王国にのまれていき、8世紀末までには西ヨーロッパ統一が完成しました。こうして、ヨーロッパ世界は東方にビザンツ帝国(395-1453)、西にフランク王国が二分する形態となっていきました。
もともとビザンツ帝国は、330年、つまりローマ皇帝コンスタンティヌス1世(位310-337)が統治していた専制ローマ帝国時代に首都がローマからコンスタンティノープル(当時名:ビザンティオン)に移され、395年のローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の東西分裂後、東ローマ帝国として継続を続けてきた国であり、当然教会もコンスタンティノープル教会としての首位権を主張していました。一方のローマ教会は、イエス・キリスト(B.C.7/B.C.4?-A.D.30?)の12使徒の筆頭ペテロ(?-64?)がローマで殉教したことから教会の首位性を主張、ペテロをローマ第1代の司教として、その後継者が教皇であるとし、コンスタンティノープル教会の首位権を否定しました。その結果、東西における教会の対立が生まれたのです。コンスタンティノープル教会は、バックにビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)がいることを武器に、ローマ教会と敵対していきました。ビザンツ帝国の脅威を感じたカール1世は、広大な西ヨーロッパの領土を統治するためには、西ローマ帝国を復活して、この皇帝になり、権威を高める必要があると考え始めました。
799年、教皇領で、ローマ教皇レオ3世(位795-816)が、前教皇の一族に暗殺されかかり、危うく難を逃れてフランク王国に亡命し、カール1世の保護を受けて、再びローマ教皇領に帰還した。そして陽の当たった翌800年12月25日のクリスマスの日、サン・ピエトロ大聖堂での「イエス・キリスト生誕ミサ」の席上、教皇レオ3世は保護の報償として、教皇自ら、西ローマ皇帝の冠を、突然カール1世に授けた(カールの戴冠)。カール1世は西ローマ皇帝カール大帝の就任となり(位800-814)、これによりレオ3世は帝国復活の宣言を行ったのです。これが西ローマ帝国の復興です。ゲルマン民族が創始したフランク王国とローマ教皇を頂点とするキリスト教会とのタッグによって、西ヨーロッパ世界が新たに生まれ変わったことを意味しました。つまり、古代のローマ帝国、ゲルマン民族の帝国、ローマ・カトリック教会の国の3要素が融合した、ヨーロッパ世界の誕生でした。実際は、ローマ教皇からしてみれば、コンスタンティノープル教会に対して教皇権の優位性を知らしめる結果となり、西ローマ皇帝にしてみれば、ビザンツ皇帝に対して西ローマ帝国復活による脅威を与える結果となり、フランク王国は絶頂期を現出したのです。
その絶頂期、カール大帝は、中央集権国家を確立するため、各地方に国王直属の地方行政官・伯(はく。グラーフ)を設置し、また伯の専横を防止するために巡察使を派遣して監視しました。また文化面ではイギリスの神学者アルクィン(735?-804)をはじめとする有能な学者らを宮廷に招いて古代文化の復興に励み、ラテン語の普及を促して、聖職者の教養を向上させました。これがカロリング・ルネサンスというフランク王国風の文化復興でありました。
カール大帝は、アーヘンで72歳の生涯を閉じ、のち聖人に列せられました。
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