1月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1919年1月5日は、ドイツ国内で、共産主義勢力による革命蜂起が行われた日です。
 ドイツ革命が勃発し、帝政が崩壊した1918年11月、政権を取り仕切ることになったドイツ社会民主党(SPD)では、臨時政府宰相として党首フリードリヒ・エーベルト(1871-1925。党首任1913-19)が就任し、ドイツ共和国樹立宣言(1918.11.10)を行い、ドイツ共和政が始まりました。翌11日には休戦協定(ドイツ休戦条約)がパリ北東のコンピエーニュの森で調印され、第一次世界大戦(1914-18)は終わりました。
 共和政が開始された11月10日、ドイツ社会民主党は、独立社会民主党(USPD)に協力を求めたことで、かつての社会民主党内の左右両派が集う連立政権が樹立されました。しかし、急進的極左派で独立社会民主党に所属するスパルタクス団は、この政権の在り方を拒絶し、革命後全国各地に自主成立した、兵士や労働者からなる評議会、レーテを支持基盤・活動拠点に据えようとしました。ただし、革命で政権を握ったのはあくまでも社会民主党であり、レーテも革命政権はドイツ社会民主党であるとしてこれを支持しましたので、社会主義革命政権を目論むスパルタクス団は重要な支持基盤を失い、革命の機会を逸しました。
 エーベルトは復員兵士を中心に結成した志願兵組織(フライコーア。ドイツ義勇軍)を使って共産主義者の武力活動の鎮圧を行いました。このフライコーア結成によってエーベルト率いるドイツ社会民主党の向かう先、つまり社会主義革命を目標に行われる武力活動をつぶすことが明確に打ち出されることになったのです。
 こうした状況から1918年12月29日、連立政権内では左右両派の対立は当然のことながら避けられず、独立社会民主党は政権を離脱を表明しました。さらに独立社会民主党はその後左右両派(つまり政府寄りか反政府寄りか)に分裂して、やがて衰退の方向へ向かいました、同党に属していたエドゥアルト・ベルンシュタイン(1850-1932)、カール・カウツキー(1854-1938)らはその後社会民主党に戻りました。
 そして、スパルタクス団を率いるカール・リープクネヒト(1871-1919)、ローザ・ルクセンブルク(l1871-1919)、フランツ・メーリング(1846-1919)、クララ・ツェトキン(1857-1933)は12月30日、ベルリンで大会が開催され、独立社会民主党からの離脱を表明すると同時に、新党「ドイツ共産党(KPD)」の結党を発表しました(党成立は1919.1.1。結党当初の名は”ドイツ共産党・スパルタクス団“)。
 共和政となった議会は帝国議会から憲法制定議会(人民代理委員会)へと変わりましたが、スパルタクス団のローザ・ルクセンブルクは、現状の共産党に支持母体が弱いこともあり、国民議会選挙(国会選挙)が重要である主張していました(ローザは民主主義と革命双方の実現を目指していました。いわゆるルクセンブルギズムといわれるものです)。しかし共産党全体の見方としては暴力を用いてでも”革命”を重視することであり、国会選挙の不必要性を打ち出しました。結局国会選挙の棄権が党内で可決され、武力クーデタで政権を倒し、労働者のための社会主義政権をおこすことが目標として定められました。
 独立社会民主党は連立政権を離れましたが、これを拒否した独立社会民主党員がいました。ベルリンで警察を取り仕切っていたエミル・アイヒホルン(1863-1925)という人物です。政権内における極左派の人物で、自身が編成した軍隊も抱えており、極左派、とりわけ極左勢力の労働者や社会主義者にとっては大きな拠り所でありました。しかしエーベルトの右派政権を取り仕切る社会民主党にとって、極左派で革命的なアイヒホルンは要注意人物でありましたので、独立社会民主党離脱にともない、アイヒホルンは社会民主党から解任通告を受けました(1919.1.4)。これによって極左勢力は翌5日から首都ベルリンを中心に、20万人規模に及ぶデモを行いました(1919.1.51919年の蜂起)。
 独立社会民主党やドイツ共産党はこのデモを支持し、社会民主党政権の批判を行いました。また新聞局が占拠されたり、社会民主党支持者が襲われる等武力による過激さが増大化しました。アイヒホルンも解任は不当として警察庁に居座りました。ドイツ共産党・スパルタクス団のカール・リープクネヒトは左派政権樹立の革命にむけて同1919年1月8日に独立社会民主党とともに革命委員会(Revolution Committee)を設立して、全国のレーテにゼネストを呼び掛けてエーベルト政権を脅かしていきました。
 革命委員会が呼び掛けたゼネストは約50万人規模で行われましたが、肝心の独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との間では、当然のことながら左右両派の対立が依然としてあったことで、意見がまとまらずにいましたので、レーテを構成する兵士や労働者たちは業を煮やしてデモから撤退したり、エーベルト政権支持に戻るなどして、独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との関係は破綻し、革命委員会は崩壊しました。しかしあくまでもエーベルト政権の転覆を目的としたドイツ共産党・スパルタクス団は依然としてデモ・ゼネスト・武力闘争を強行する極左勢力を支持しました。
 今回の事件で、ドイツ共産党・スパルタクス団の暴力革命による社会主義政権樹立という恐怖を、エーベルト政権は完全払拭しなければなりませんでした。政情安定と社会民主党の威信回復のため、エーベルト政権は極左勢力を壊滅することを決め、政敵をドイツ共産党・スパルタクス団に集中し、1919年の蜂起の名称を”スパルタクス蜂起“と呼んでフライコーアの召集を行い、1月8日、エーベルトは革命派の徹底鎮圧を命令しました。
 1月8日に始まったスパルタクス蜂起の鎮圧は1週間ほど続きました。デモやゼネストは武力で鎮圧され、占拠地は次々と開放されていきました。多くの抵抗する共産党員や労働者が降伏・逮捕されるか、無抵抗・無惨に殺されていき、各地のレーテも衰退していきました。それだけでなく蜂起に参加していない市民も巻き添えに遭い、多くの命が失われました。そして15日、蜂起を主導したスパルタクス団のカール・リープクネヒトと、もともとは蜂起に反対していたローザ・ルクセンブルクが、ベルリンでフライコーアによって逮捕されました。
 1月15日、カールとローザは、ベルリンのエデンホテルに連行され、そこで何時間にもわたって激しい拷問・尋問を受けました。そしてカール・リープクネヒトは後頭部を撃ち抜かれて処刑され、身元不明者の遺体と共に死体安置場に放置され、一方のローザ・ルクセンブルクはライフルのストック(床尾。銃床をいう)で撲殺され、付近の運河に投げ込まれました。これによってドイツ共産党・スパルタクス団は”ドイツ共産党”の呼称が使用され、スパルタクス団としての活動は停止しました。ドイツ共産党としても政府からは危険分子として武力活動を抑えられ、路線修正を余儀なくされました。フランツ・メーリングは2人の虐殺から2週間後、失意の内に没しました。
 極左勢力の主導者の2人が虐殺されたことで、スパルタクス蜂起鎮圧は終了しました。国内で数千人の犠牲者が出たと言われています。1月19日、国会選挙が行われましたが、共産党の国会選挙排斥運動も虚しく、社会安定を切に願う多くの国民は投票に向かい、結果80%以上の高投票率を記録しました。2月6日に開催される議会については、ベルリンがまだ混乱状態であったため、かつて社会民主党がエルフルト綱領を採択したテューリンゲン州(現・州都エルフルト)が選ばれ、当時州都であったヴァイマル(ワイマール)にある国民劇場で行われることになりました。この1919年2月6日に開催された議会をヴァイマル国民議会と呼びました。
 このヴァイマル議会で、改めて共和政の仕切り直しが行われ、エーベルトが共和国初代大統領に指名され(エーベルト大統領就任。任1919-25)、8月には当時最も民主的憲法とされたヴァイマル憲法の制定が行われました(1919.8。ヴァイマル憲法制定)。行政では社会民主党と中央党が中心となる連立政権(ヴァイマル連合)による共和政が敷かれることになりました(ヴァイマル共和政)。こうしてドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919-33)として生まれ変わりましたが、大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約(1919.6.28調印。1920.1.20発効)を背負わなければならず、前途多難な幕開けでありました。
引用文献『世界史の目 第189話』より抜粋

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