1月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1127年1月9日は、中国の王朝、北宋(ほくそう。960-1127。宋の1127年までの呼称)の首都、開封(かいふう)が陥落し、北宋が滅亡した日とされています(くわしい月日には諸説あり)。
 宋の皇帝、徽宗(きそう。位1100-25)が即位した時代のお話です。この時代は依然として新法改革を推進する新法党と、保守派旧法党の政争で荒れていました。徽宗の親政前は、摂政の計らいで新旧両法折衷策として比較的穏和に動いていました。しかし親政を始めた翌1101年からは、父神宗(しんそう。位1067-85。新法改革を断行)の遺志を受け継ぎ、政情の把握なく新法を支持してしまい、さらに重要な政局は宰相である蔡京(さいけい。新法派。1047-1126)に任せ、帝自身は道教への狂信、また画院(がいん。翰林図画院。かんりんとがいん。宮廷の絵画製作を管理)に属する宮廷画家を保護して院体画(いんたいが。院画。北画。花鳥・山水・人物画)に趣味が走り、自身も『桃鳩図(とうきゅうず。こちらWikipediaより)』を描くなど、”風流天子”と言われるほどに、政治よりもむしろ芸術に熱が入るようになりました。このため、宮廷では乱費が進みました。徽宗も即位時に”軽佻な君主”と言われており、細かいことを避けて何事も感覚的に動く人物であったといわれております。
 蔡京は新法導入によって国税を厳しく取り立てますが、これら歳入は、すべて宮廷の浪費と消えていきました。不足すれば、物価高騰を予測することなく交子(当時の紙幣)を乱発しました。徽宗の命により、専売強化やさらなる重税が度重なり、挙げ句の果てには、徽宗芸術の一環として宮廷庭園に飾る植樹用の珍しい木々や奇岩奇石を、特に江南地方から貢納させ(花石綱。かせきこう)、農民に強制運搬をさせるという暴挙に出たのです。このため、浙江省出身のマニ教徒の農民・方臘(ほうろう。?-1121)を中心とする農民反乱(方臘の乱。1120)が勃発し、やがて6州12県にまたぐ大反乱となっていきました。反乱は、徽宗に慕われ軍の指揮官を任された宦官・童貫(どうかん。?-1126。14世紀に作られる長編武侠小説『水滸伝(すいこでん)』では、蔡京とともに悪役として登場)によって鎮圧され、方臘も殺害されました(1121)。
 契丹(きったん。北方のモンゴル系民族)の国家、(りょう。916-1125)が滅亡した1125年は徽宗の時代でしたが、蔡京や童貫の助言で、遼領となっていた燕雲十六州の奪還を目指すことを第一に、遼を攻めることを提案しましたが、宋の国家体制は武断主義ではなく文治主義の立場でここまで来ており、宋の軍隊である禁軍は、国勢下り坂の遼軍と比べても明らかに劣り、一国で勝つのは不可能でした。そこで、蔡京や童貫らは、これより先に遼・天祚帝(てんそてい。位1101-25)の軍を一度敗退させていた女真族(満州のツングース系民族)の国家、(きん。1115-1234)の太祖、完顔阿骨打(ワンヤンアグダ。位1115-23)に接近して、金と遼という異民族同士で戦わせて、漁夫の利となる燕雲十六州を奪い返すことを考えるなど画策を練り、金の太祖に遣使をおくって、北から金が、南から宋がそれぞれ遼を挟撃し、成功すれば燕雲十六州を宋が、それ以外の遼全土を金がそれぞれ領有する、また遼と澶淵の盟(せんえん。”せん”はさんずいに亶。宋の、1004年から続く遼との対外和親策)で決めていた歳幣を、そっくり金王朝に贈与することを約したのです。やがて、遼の軍隊と、宋・金の連合軍が対峙することになりましたが、宋軍は方臘の乱鎮圧にかかる手間で、思うように首都や副都を攻略できず、結局金の軍隊によって遼の軍隊を殲滅させたのでした(燕山の役。1125)。どうにかして宋は念願だった燕雲十六州を奪還、そして金は広大な領土を獲得しました。しかし金は、役に立たなかった宋に対し、宋銭百万分(毎年)や食糧20万石など、開戦前の約定以上の要求を言いつけたのです。
 徽宗は、この要求には不満でしたので、金の太祖が没し弟である太宗(完顔呉乞買。ワンヤンウキマイ。位1123-35)が即位すると、歳幣などの支払を怠るようになりました。しかも、金の抵抗者を匿うなどの行動を起こしたので、金は宋を攻めて、燕雲十六州を陥れました。金の首都となる燕京はこうした経緯によって金が支配することとなるのです。1125年、金の軍隊が、宋の首都である開封まで南進した時、徽宗ははじめて、自身の行政に誤りがあったことに目覚め、謝罪の詔を発して、勤王の軍を全国に募り、自ら退位して皇太子欽宗(きんそう。1100-61)に譲位しました(位1125-27)。
 1126年、金はいったん北へ引き返しました。宋の王室では、金に対して和戦論争が生じていましたが、優勢だったのは和平論で、首都を開封から南遷して安全をはかるというものでした。しかし勤王の軍は戦争続行を主張しており、また強力な軍隊に成長していたことで、たびたび侵攻する金軍を撤退させていました。欽宗は勤王の軍の功績を黙殺して金と講和をはかりましたが、金は、財政難の宋には到底受け入れられないような多額の歳幣と要地の割譲を要求してきました。欽宗は無理と知りながらも応急措置としてこれを受託しました。当然、支払いは怠るどころか、金に内紛を起こさせる謀略を練りだしました。このため主戦派は、和平派に激しく抵抗して、得策もないまま宋の首都開封の死守を訴え、欽宗もこれに押されてしまいます。
 ところがこの謀略が金に知られてしまい、金の太宗は宋の違約を名目に開封に侵攻、同1126年末、戦術を練る時間もなくたちまち開封は包囲されました。翌1127年1月9日(諸説あり。靖康元年11月5日)、金軍は欽宗を廃位、王室の財宝を略奪するとともに、欽宗をはじめ、前皇帝の徽宗、皇后、皇族、重臣ら約3千人を捕らえ、首都会寧へ連行、黒竜江省の五国城に幽閉されました。この一連の事件は靖康の変(せいこうのへん。1126-27)と呼び、北宋は滅亡に至ります。徽宗も欽宗も、帰国の望みを捨てませんでしたが結局は許されず、異国の地で生涯を終えました(徽宗1135年没、欽宗1161年没)。
引用文献『世界史の目 第91話』より

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