1月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1851年1月11日は、中国において、洪秀全(こうしゅうぜん。1814-64)による太平天国(たいへいてんごく。1851-64)が誕生した日とされています(諸説あり)。
 中国・王朝(1616-1912)はアヘン戦争(1840-42)の敗北によって、対外支出が膨大となり、清政府の財政は極度に悪化しました。このため、民衆は余儀なく重税を課される形となり、しかも賠償金支払いによる銀価高騰によって、生活は窮乏化していきました。地方の治安悪化・清朝政府に対する不安、経済悪化、天災などに伴い、民衆による秘密結社(会党。かいとう)の設立が相次ぎました。
 中国南部では、戦乱からくる生活苦によって華北から移住してきた漢族の一集団(客家。ハッカ)が、先住民からの圧迫を受けて、貧困に窮していました。こうした中、広東省花県で、客家の中農出身の洪秀全は、1844年、キリスト教的宗教結社”上帝会(じょうていかい。拝上帝会)”を組織しました。
 洪秀全は7歳の時、村塾に入って儒教の聖典「経書」を学び、18歳の時にその塾の講師となりました。その後科挙(かきょ。官吏の任用試験のこと)に4度挑みましたが、4度とも失敗しています。儒教的教養が備わった人物を選出するための科挙試験に失敗したことは、洪秀全にとってその後の人生の転換を強いられたものとなりました。
 1839年、25歳の洪は、3度目の科挙失敗に気落ちして、病床に伏し、そこで奇妙な夢を見ました。その夢によると、黒衣を着た老人に出会い、彼から邪悪な魔物を斬るための剣を授かり、これを用いて悪魔と戦ったといわれています。夢から覚めた洪は、所持しているプロテスタントの伝道書『観世良言(かんぜりょうげん)』を読んでみました。すると、夢に現れた老人は、ヤハウェ神(ヤーヴェ)だったのです。これによって洪は、自身がヤハウェの子であるイエス・キリスト(B.C.4C頃-A.D.30頃)の弟(“天弟”。兄キリストを”天兄”と呼ぶ)であり、邪を斬るという天命を下ったと確信したのです。洪は、これまで学んできた儒教から、中国古来の儒教における天の神、すなわち”上帝”をヤハウェ神に置き換え、キリスト教の布教を強調していきました。
 南京条約(1842)での広州(こうしゅう。広東省の省都)開港、並びに広州の虎門寨(こもんさい)における不平等条約の追加(虎門寨追加条約。1843)などにより、洪は、人々が政治的に、また経済的に平等であり、邪知・邪教の壊滅こそ平和がもたらされると説いて、1844年地元で、同郷で盟友である馮雲山(ふううんざん。1815?-52?)らと共に同志を集めて、反清・反満州・反封建を掲げた結社を組織しました。これが上帝会です。彼らは上帝信仰にもとづいたキリスト教の布教を展開していきましたが、客家出身だけに反発もあったためか、地盤は固まりませんでした。このため、洪の母の出身地である広西省に移って同地に拠点を置き、客家出身者を中心に多くの信徒を集めていきました。
 同志の中にとりわけ上帝会に対する信望が厚かった4人の広西省客家出身者がいました。4人とは農家出身の石達開(せきたっかい。1831-63)、農家出身の蕭朝貴(しょうちょうき。1820?-52)、同じく農家出身の韋昌輝(いしょうき。1823-56)、そして炭焼工の楊秀清(ようしゅうせい。1820-56?)の4人です。とくに石達開は、後の挙兵時には自身の家産をすべて上帝会に献上して、一族で参加したといわれております。
 1850年7月、洪秀全は政情不安を一掃すべく、号令を発して上帝会の信徒を広西省の金田村(きんでんそん。現・広西省桂平県の小村)に集合させ、翌1851年1月の洪秀全の誕生日(1月1日)、上帝会からなる国の建国を宣言、陽の当たった1月11日(諸説あり)、国号を太平天国(たいへいてんごく。1851-64)と称し、洪は自ら天王(てんおう)と称しました。途中で馮雲山が布教の際に清朝官憲に検挙されるなどの不運がありましたが、太平天国の官制を整えるべく、天王の下に五王幹部体制をしきました。五王はそれぞれ楊秀清(東王)・蕭朝貴(西王)、馮雲山(南王)・韋昌輝(北王)・石達開(翼王)らが任命されました。
 天王洪秀全は新しい中国を築くために、儒教精神による古来の伝統を破滅させることを強調、2万人に達した太平軍を挙兵させ、広西から北進し、湖南・湖北を占領しつつ、役所や地主から略奪した物資・金品を同地の貧民に分配し、彼らや会党員を上帝会に吸収させ、遂に南京に迫りました。
 巨大化した太平軍は”滅満興漢(めつまんこうかん)”のスローガンを掲げました。これは、満州民族からなる清王朝を滅ぼし、漢民族政府の樹立を意味しました。このため、清朝が中国全民に強制していた辮髪(べんばつ。弁髪。頭髪を一部を残して剃り上げ、その一部から長く編んで垂らす髪形)の風習を断ち切り、清朝政府への対立が完全に表面化しました。清朝は太平軍を”長髪族(ちょうはつぞく)”や”髪匪(はつび)”、”粤匪(えつび)”と呼んで警戒し、アヘン戦争時に欽差大臣であった林則徐(りんそくじょ。1785-1850)を再任させますが(1850)、林は高齢がゆえ、広西に赴く途中病没してしまいます。また、太平軍が自身たちの規律を厳格化したことで、規律の乱れた清軍とは対照的に、民衆から厚い支持を受けたため、太平天国はさらに強力化していきました。途中で南王馮雲山と西王蕭朝貴(洪秀全の娘婿となっていた)を戦乱で死なせたものの、1853年、太平軍は勢力を衰えることなく南京に進軍し、遂に同地を占領して天京(てんけい)と称し、太平天国の首都となりました。
 太平天国は、上帝会時代に掲げた貧富のない平等な社会を掲げるため、同1853年、天朝田畝(てんちょうでんぽ)の制度を発布しました。天朝田畝とは、軍・民両事を兼ねる郷官(ごうかん)の統率のもと、16歳以上の男女に土地を均分し、1農家から1人徴兵する制度で、農家からの収穫は各戸の所有分以外は国庫に納め、非常時に使用するか、障害や孤児などによる兵役免除者の補助に使用するというものでした。この平等さを強調した理想の制度は、経書の1つである『周礼(しゅらい)』の内容をヒントにしたと見られています。しかし男女平等というのは、当時としては革新的でありました。その後もアヘン吸引を禁じたり、纏足(てんそく。良家にみられた風習。女子が幼児期に足指を足裏に緊縛して足の発育を止めさせ、小さく細い足を形成することで美人の象徴にした)を禁じるなど、悪習とされた伝統の撤廃を展開していきました。
 1854-55年にかけて全盛期がおとずれた太平天国でしたが(当時の人口は約300万人まで増加)、1855年に、太平軍の精鋭、北征軍(1853年結成。北伐軍)が数万の軍勢で天津や北京といった”満州のお膝元”である北の大都市に迫りつつも、清朝軍の水攻めによる反撃によって壊滅してからは、下降線を辿り始めていきました。特に天京政府における首脳部では内紛がたえず、特に楊秀清の横暴が目立ち始めました。以前、馮雲山が官憲に検挙され、洪秀全が馮の救済に出ている間、楊秀清が幹部不在の穴を埋めるべく、自身を”ヤハウェ神が乗り移った”と称し(“天父下凡”)、上帝会会員を統率したことで、洪秀全から絶賛され、天王に次ぐ東王の地位を与えられていましたが、時折洪秀全以上に権力を強めてくるようになっていきました。周囲が、天弟である洪秀全よりも天父である楊秀清の方に支持が集まるようになり、これがその後両者との間に対立を深めたとされます。1856年、楊秀清は北王韋昌輝により暗殺されましたが、この事件は洪秀全の差し金であったともされていますが確証はありません。その後北王韋昌輝も実権掌握を主張して洪秀全と対立、内乱はエスカレートし、若き石達開も巻き込んでいくのです(天京内乱)。
 石達開においては、もともと石一族全員が会員であり、また戦術に優れたこともあって、太平軍には貴重な戦力でありました。翼王に任命されてからは軍の主力を率いて清朝軍と戦いました。
 この頃の清朝正規軍(八旗・緑営。はっき・りょくえい)はかなり弱体化していましたので、各地の地方官や郷里の官僚経験者(郷紳。きょうしん)らが漢人地主を中核に義勇軍(郷勇。きょうゆう。団練。だんれん)を集めていました。その中で、湖南省の地主階級出身の曾国藩(そうこくはん。1811-72)が同地で郷勇・湘軍(しょうぐん。湘勇。しょうゆう)を結成していました。もともと湘勇は湖南省の治安維持と太平天国からの防衛を主な任務としていましたが、1853年に江西省南昌(なんしょう)の救援におもむくも当時22歳の石達開率いる太平軍に敗北しました。朱子学者でもある曾国藩は徹底した保守主義を貫いたため、太平天国を許すことができず、陸軍増強のみならず水師(海軍)も組織し、総勢1万7千人の兵力でもって翌1854年から太平軍討伐に出動していきました。
 湘勇の反撃に警戒していた翼王石達開だったが、天京内乱の最中であり、北王韋昌輝が実権掌握のため暴走化していました。これが石達開の一族にも災いし、韋は謀って石の一族を虐殺するなど粛清をはかりましたが、結局韋昌輝は洪秀全によって誅殺されました(1856)。石達開はその後洪秀全に従うが、25歳の石達開の活躍ぶりに嫉妬した洪秀全は、やがて対立を深めていきました。石達開も太平天国の存続があり得ないとして翼王の地位を退いて天京を脱しました。石達開は自立をはかって浙江(せっこう)・江西・湖南といった長江中流域で転戦を繰り返して、自身の勢力拡大に努めましたが、兵粮が尽き、自身の部隊も壊滅していくのを見て、続行不可能と判断し、四川省に赴いて同地の総督に投降、省都である成都(せいと)に送られて、1863年、処刑されました。
 有能な幹部をすべて失った洪秀全は、すでに弱体化した中央官制を、洪の一族から任用しました。しかし、彼らは過去の五王一族と比べて無能者が多いため、天朝田畝制度も発布のまま施行されず、政府の支持力は著しく低下していきました。一方で強力になった郷勇の猛反撃が起こされ、湘勇以外にも安徽省(あんき)出身の李鴻章(りこうしょう。1823-1901)が結成した淮軍(わいぐん。淮勇。わいゆう)、湖南省出身の左宗棠(さそうとう。1812-85)が結成した楚軍(そぐん)が次々と太平軍を追撃していきました。
 この頃の清朝はアロー号事件(1856.10)に端を発するアロー戦争(1856-60。第二次アヘン戦争)でイギリス・フランス相手に戦って敗れ、英仏とアメリカ、ロシアも加わって、天津条約(1858)を戦時中に、次いでその追加分を北京条約(1860)として締結させられました。これによって九龍半島南部がイギリスにより割譲されたほか、再度の多額賠償金(800万両)の支払を余儀なくされました。さらに1724年以来に禁止していたキリスト教布教の自由化を強引に承認され、開港場増加、外国公使の北京駐在、外国人の内地旅行の自由化、アヘン貿易公認、長江航行の自由化、などが取り決められたことで、列強の介入が進みました。当初英米は太平天国をキリスト教国として同情を示していたが、在中の英米人に至っては、太平天国の宗教的異端からくる清朝の排外活動に危険をつのらせるようになっていきました。このため、太平天国というガン細胞を取り除いて容易に列強が介入できるよう、清朝への援護という形で遂に列強が太平天国を鎮定に取りかかりました。元船員のアメリカ軍人フレデリック・タウンゼンド・ウォード(1831-62)は上海で約200人の外国人傭兵の部隊を編成、一度は解散しましたが、外人将校の下に中国人傭兵を集めて太平軍を敗っていき、清朝皇帝から”常勝軍(Ever Victorious Army)”の名を授かりました。ウォード戦死後はイギリス軍人チャールズ・ジョージ・ゴードン(1833-85)が引き継いで太平軍と戦い、各地で勝利をもたらしました。
 洪秀全が理想を掲げたこの天国は、次々と離反者が出、洪自身も重病にかかって政務が執れず、代わって上帝会時代からの若き軍人忠王李秀成(ちゅうおうりしゅうせい。1823-64)が奮闘するも、領域は首都天京とわずかな地域にすぎなくなっていました。そして曾国藩率いる湘勇が天京に進軍、遂に完全包囲しました。このため、兵粮が尽きて、臨終を迎えた洪秀全は宗教的信念から薬を飲むことをを拒否し、1864年6月1日、服毒自殺したのです(病死の噂もあり)。翌7月、遂に天京は陥落し、太平天国は滅亡、中国初の大革命政権は崩壊しました。李秀成と洪秀全の子洪天貴(幼天王)も捕らえられ、殺されました。太平天国と並行して、河南・安徽・山東・江蘇などの省境で、遊侠や貧民らの集まりから発展して反清を主張した軍隊・稔軍(ねんぐん)が組織されていましたが、太平天国の残党は稔軍と合流して最後の抵抗を続けました。しかし及ばず、各地で撃破されていき、13年にもおよぶ長い戦乱がようやく終わりました。
引用文献『世界史の目 第53話』より

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