1月18日は何に陽(ひ)が当たったか?

1871年1月18日は、ドイツ帝国(1871-1918)誕生の日です。
ホーエンツォレルン家のプロイセン王国(1701-1918)では、1866年の普墺戦争(ふおうせんそう。プロイセン-オーストリア戦争)で打ち負かしたオーストリアドイツ連邦(ウィーン会議で決定された、35のドイツ領邦と4の帝国自由都市で構成された連合体。オーストリアが盟主、プロイセンは副盟主でした)からはずし、新たに発足した北ドイツ連邦(盟主はプロイセン)をドイツ国家として統一する目標を掲げていましたが、隣国フランスナポレオン3世(位1852-70)が黙視する筈がありませんでした。プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクビスマルク(1815-98。宰相任1862-72,73-90)はドイツ統一の大前提として、フランスとの決戦に勝つことを考え、軍備を整え始めました。
1870年、ドイツの温泉地エムスで、プロイセン国王ヴィルヘルム1世(王位1861-88)とフランス大使との間に会談がありました。その内容は、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家からスペイン王位継承者を出すというものでしたが、当然フランスは反対の立場を取り、フランス大使をエムスに派遣したのです。この内容の電報をビスマルクが受けたわけですが、普墺戦争と同じく、ドイツの軍力でフランスに必ず勝てると確信したビスマルクは、電報の内容を、”フランス大使がプロイセン王を脅迫し、スペイン王位継承者を出さないという保証を迫った。これに対して王は大使をその場から追い返した。”と電報の内容を歪曲して発表したのです(エムス電報事件)。プロイセン国民は当然この電報に怒り、フランス国民にとってもこの侮辱に怒りが頂点に達しました。結局ビスマルクの挑発に乗ってしまったナポレオン3世が、プロイセンに宣戦、普仏戦争(ふふつせんそう。プロイセン-フランス戦争。1870-71)が勃発しました。結局プロイセン軍がナポレオン3世をセダン(スダン。フランス東部国境の要塞)で捕らえ、ナポレオン3世は降伏、パリは占領されてフランス第二帝政(1852-70)は崩壊しました。戦況はプロイセンが断然有利であり、終戦を迎えぬうちに、フランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間において、陽の当たった1871年1月18日ドイツ帝国の成立を宣言しました。終戦後、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザスロレーヌを獲得しました(1871.5)。
ドイツ国家の中に組み込まれたプロイセン王国は、ドイツ帝国の盟主となり、プロイセン国王とプロイセン首相が、それぞれドイツ皇帝と帝国宰相となりました。これにより、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が誕生(帝位1871-1888)、ドイツ皇帝はドイツ語でカイザーといい、”カエサル”に由来します。そしてビスマルクは帝国宰相(任1871-90)に任命され、侯爵(初代ビスマルク侯爵)となりました(爵位1871-98)。帝国憲法は4月に発布され、連邦制と二院制が規定されました。しかし設けられた帝国議会はあくまで形式的で、責任内閣制は認められず、政府に対しては無力状態でした。諸邦政府の代表会議である連邦参議院も議長は帝国宰相が務めることになりました。よってビスマルク時代の到来を告げたのも同様でありました。
ただ、帝国内でのプロイセン王国は、指導的立場を取る連邦国として、帝国の中心となるはずでしたが、ドイツ帝国としての統一意識がおこったことで、プロイセンという王国は一州的存在となっていきました。その後は第一次世界大戦(ドイツは敗戦国)を終わらせる契機となった民主主義的ドイツ革命(1918.11-19.1)によってドイツ帝国は共和政(1919-33。ヴァイマル共和国)となり、帝政は廃されました。同時にプロイセン王国も実体がなくなり、名目上の存在となります(実質の解体・消滅は第二次世界大戦の敗戦後。連合国による分割統治)。政情不安定の中、世界恐慌(1929)の波及を受けるも対処できず、反動的右翼の台頭を招き、その後、ナチスによる共和政崩壊が導かれていくのでした。
引用文献『世界史の目 第80話』より

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