1月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1142年1月27日は、中国、南宋(なんそう。1127-1279)の武将、岳飛(がくひ。1103-42)の没年月日です。
 満州の女真族(じょしん)が起こした王朝(きん。1115-1234)による靖康の変(せいこうのへん。1126-27)で北宋(ほくそう。960-1127)が滅んだ後、臨安(りんあん。浙江省)を都に再建された宋では、その後の経済や貴賤の格差は消えることなく、1130年、均産一揆(政府による農作物収奪強化に抵抗した一揆。均産とは貧富や貴賤の格差をなくそうという意味)が再発しました。これを鎮圧したのは岳飛将軍で、金に対して戦争徹底を唱える主戦派でした。岳飛は、河南省の農民出身で、学問を修得し、一兵卒から飛躍的に昇進を遂げ、数々の軍功をあげたことで、多くの支持を得る反面、諸将からは妬まれたりもしました。
 一方この当時、宰相秦檜(しんかい。1099-1155)という和平派(金と和平を結んで安全をはかるためには、多額の歳幣と要地の割譲もやむを得まいとする派)の人物がいました。彼は靖康の変で北宋の皇帝だった徽宗(きそう。位1100-25)らとともに連行されましたが、金の和平派将軍の取り計らいで帰国を許されました。秦檜は、ただ1人金の内情を知る人物として南宋の初代皇帝である高宗(こうそう。位1127-62)に支持され、宰相に任じられた人物でした(1131)。秦檜は、金との戦争は、長期化することで膨大な戦費を負担することにつながり、国民の不満も増大すると主張、唐末の戦乱を再来させるとして和平派を支持、高宗も靖康の変で拉致された徽宗・欽宗(きんそう。北宋最後の皇帝で、高宗の兄。位1126-27)らの帰国を願いました。また金の太宗(位1123-35)が没して兄である太祖(完顔阿骨打。ワンヤンアグダ金の建国者。位1115-23)の嫡孫が帝位に就くと、状況も緩和され、周囲には和平の声が聞こえ始めました。しかし、岳飛ら主戦派は、徽宗の代に集まった勤王の軍(徽宗の失政による金の襲撃に対し、北宋の首都開封の防衛に集められた義勇軍)出身で、漢人の民族精神(ナショナリズム)の高揚から、女真族の金軍を駆逐しようとして、金に対し反撃を始めました。
 秦檜は主戦派を抑圧するため、地方の軍隊を中央軍隊に改編することを名目に、揺れ動いている地方軍の諸将に呼びかけを行いましたが、唯一、湖北一帯を軍事支配する岳飛だけはこれに従おうとしませんでした。このため秦檜は、岳飛に無実の罪を着せて幽閉し、獄死させたのです(1142)。1142年1月27日のことです。岳飛を抑えた秦檜は1142年、和平を実現するため、瞬時に和平条約を締結、淮水(わいすい。淮河。わいが。河南省南部が水源)と秦嶺(しんれい)山脈を結ぶ線が、南宋と金の境界線となり、結果的に華北の畑作地帯と江南の水田地帯を分ける線となって、とうとうかつての首都開封や燕雲十六州(北方の契丹族<きったん>に割譲していた中国本国の要所である長城線以南の北京<燕州>と大同<雲州>を結ぶ、周辺16州)を中心とする華北一帯の奪還は、断念の方向へ向かわざるを得ませんでした。
 内容はこれだけでは済まされませんでした。この条約は毎年贈る銀25万両、絹25万匹歳貢(歳幣)だけでなく、金王朝に対し臣下の礼の義務を突きつけられるという、南宋にとってこれまで以上に屈辱的であり、同時に徽宗の棺の姿で召還された上、和約締結時には存命だった欽宗は召還されなかったのです(1161年没後も遺体は召還されず)。
 恥辱的な要求に加え、高宗の父徽宗を遺体で返還させ、兄欽宗を召還させない金の行為は、主戦派をひどく怒らせ、講和締結に抗議しました。しかし秦檜は、高宗の信任をバックに、主戦派を次々と弾圧しました。秦檜没後(1155)、岳飛の無実が証明され、岳飛は祖国の民族的英雄として「岳王廟(浙江省)」に祀られ、一方秦檜は金に華北を売り渡した”売国奴”・”姦臣”として烙印を押され、酷評されたのです。
世界史の目 91話』より

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