2月12日は何に陽(ひ)が当たったか?
1218年2月12日は、鎌倉時代の第4代将軍、九条頼経(よりつね)こと藤原頼経(1218-56。将軍任1226-44)の生誕年月日です。
1219年に第3代鎌倉幕府将軍の源実朝(さねとも。将軍任1203-19)が甥の公暁(くぎょう。こうぎょう。1200-19)に暗殺され、源氏が三代で絶えると、幕府は初代将軍源頼朝(よりとも。将軍任1192-99)の妹(姉?)にあたる坊門(ぼうもん)の姫(12C-1190)の血筋から、新たな将軍として迎え入れることになります。
坊門の姫は公家である一条能保(よしやす。1147-97)に嫁ぎ、二人の間に娘が2人できます。二人の娘のうち、一人は九条家2代目当主良経(よしつね。当主任1169-1206)に嫁いで九条道家(みちいえ。1193-1252)を産み、もう一人は西園寺家当主4代目公経(きんつね。当主任1171-1244)に嫁いで西園寺掄子(りんし。1192-1251)を産みます。坊門の姫の孫に当たる道家と掄子が結婚し、子どもたちによって九条家、一条家、二条家の摂家を誕生させました。こうした中で1218年2月12日に道家と掄子から頼経(幼名:三寅。みとら)が産まれます。
よって頼経は父道家の母が頼朝の姪にあたることから、2歳の時に鎌倉に迎えられ、1225年に元服、1226年に第4代征夷大将軍に任ぜられました(任1226-44)。摂家将軍(摂家は藤原氏の嫡流から、藤原将軍とも呼ばれます)の誕生です。実朝没後から頼経が将軍として迎えられるまでの7年は、北条政子(まさこ。頼朝正室。1157-1225)が将軍代行となり、弟で2代目執権だった北条義時(よしとき。1163-1224。執権任1205-24)らが幕政を整えていました。
頼経が将軍として在職する間、執権は義時の子、北条泰時(やすとき。1183-1242。任1224-42)、そして泰時の孫北条経時(つねとき。1224-46。任1242-46)と続き、勢力を維持していきました。頼経は将軍としての地位を得たとしても実質的な権力はなく、実際の鎌倉幕府は北条執権が実権を掌握するに等しく、将軍と執権との間に徐々に亀裂ができはじめ、執権経時により、1244年に頼経は将軍職を6歳の息子藤原頼嗣(よりつぐ。任1239-56。1244-52)に譲らされました。
1246年、経時が没し、弟の北条時頼(ときより。1227-63。任1246-56)が第5代執権となりました。関係は修復することはなく、時頼は頼経を鎌倉から追放、父道家も連座して関東申次(かんとうもうしつぎ。幕府と朝廷の連絡役)を罷免させられる結末を迎えました(“宮騒動“といいます)。1252年には頼嗣も将軍職を外されて京都へ追放、そのショックもあり、同年に祖父九条道家は没しました。1256年は頼経が赤痢で没し、後を追うように子の頼嗣も翌月に病没しました。
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