2月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

1988年2月13日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)のギタリスト兼ヴォーカリストであるJohn [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,key,vo)の没年月日です。
JCは1950年10月3日、イリノイ州シカゴで生まれました。1969年にStyxの前身に当たるTW4(結成についてはこちらを参照)に加入、1971年にWooden Nickelと契約を果たし、1972年にStyxとしてデビューアルバム”Styx(邦題:「スティクスⅠ」または「スタイクス」)”をリリースします。JCの役どころはGuitar、Vocals、Synthesizerでした。しかしヴォーカリストとしてのJCはほとんどバック・コーラス担当で、デビュー作に収録された13分余の組曲”Movement for the Common Man“の第2楽章”Street Collage“でセリフ仕立てでの単独ヴォーカルがあったに過ぎず、リード・ヴォーカルはJames [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,key,vo)とDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)が中心でした。カットされたシングル”Best Thing“もBillboard HOT100シングルチャートにチャート・インしました。
1973年7月リリースの第2作”Styx II(邦題:「スティクスⅡ」,「黄泉の国より」,「レディ/スティクス・セカンド」)”では、JCは前作よりも大幅に活躍し、アルバム中最も長尺の”A Day“のソングライティングおよびリード・ヴォーカルを担当、また”You Better Ask“もJCの作品兼ヴォーカルを担当し、シングル”You Need Love”のカップリングとしてもリリースされました。”A Day”ではジャジーで幻想的なプログレッシブ・ロック・サウンドに乗せて、やや高音の柔らかみのある歌声で、一方の”You Better Ask”ではゴリゴリのダミ声で歌うなど、ヴォーカリストとしても非常に個性的な存在となり、JCはStyxの中で徐々に頭角を現していきます。
同年10月に、2月9日にご紹介した”The Serpent Is Rising(邦題:「サーペント・イズ・ライジング」。または「サーペント・イズ・ライジング/スティクスⅢ」)”をリリースし、JCがStyxの中で最も活躍した時期となりました。収録曲中、4作品(“As Bad as This~Plexiglas Toilet“,”22 Years“,”The Serpent Is Rising“,”Krakatoa“)がJCの作品(一部共作)で、その中の”22 Years“は、本人はリード・ヴォーカルをとらなかったものの、ファースト・シングルとしてカットされました。Styxの産みの親であり、Wooden Nickelの創業者であるBill Traut(ビル・トラウト。1929-2014)もサックスで参加するなどの意気込みを見せましたが、残念ながらチャート・インには至りませんでした。本作ではJCの歌声やコーラスが変幻自在に楽しめ、ヴォーカルのヴァリエーションは前作よりも幅広くなっています。
1974年11月発表の4作目、”Man of Miracles(邦題:「ミラクルズ」または「ミラクルズ/スティクスⅣ」)”ではリード・ヴォーカルの担当はありませんでしたが、相変わらずの高音コーラスを聴かせてくれます。またJYと”Rock & Roll Feeling“、”Havin’ a Ball“の2曲を共作し、これまでのダークなプログレッシブ・ロックとは異なる、女の子が喜びそうなエネルギッシュで軽快なロック・ナンバーも手掛けました。
1975年初頭には、”Styx II”収録の”Lady(邦題:憧れのレディ)”が全米6位の大ヒットを記録、JCはリズム・ギターとバック・コーラスの担当でしたが、サビのコーラスは美しくかつ力強く響き、大衆の支持を得ることに成功、JCにとって初めてのTop10ヒットを勝ち取ったのです。
1975年12月、大手レーベルのA&M Records(現在のUniversal Music Group。UMG。もとMCA Records)へ移籍を発表したStyxは、移籍第一弾となる”Equinox(邦題:分岐点)”を発表します。このアルバムでは、Dennisと共作した”Mother Dear(邦題:マザー・ディア)”でリード・ヴォーカル(サビではDennisも揃ってリードを取る)を取りました。コーラスで出しているキーで歌っており、Wooden Nickel時代に見せたのとはまた異なる、女性的な歌声です。
また”Born for Adventure(邦題:アドヴェンチャー野郎)”ではDennis、JYと3人でペンを取り、極めつけは “Suite Madame Blue(邦題:スィート・マダム・ブルー)”の前奏曲となる、文字通りの”Prelude 12(邦題:プレリュード12)”を、JCの作曲でJCによる美しいギター・インストゥルメンタルで涙を誘います。この”Prelude 12″は完全にJCのソロ作品です。バック・コーラスにおいても”Light Up(邦題:ライト・アップ)”や”Lorelei(邦題:ローレライ)”、そして”Suite Madame Blue“などでは聴き惚れてしまうほどの美しさでリスナーを魅了しました。
レコード宣伝活動が一段落し、”the Equinox”の全米ツアーを実施直前、JCはメンバーに自身のグループ脱退をうったえてきました。大手レーベル移籍によりプロモーション活動が過密になり、家族との時間を優先したいというのが理由でした。また”Lady”のヒットで、これまでのヘビーでプログレッシブなサウンドから、第2、第3の”Lady”を必要とするリスナーに対しての、グループのポップなロック化に憂いを感じたのも脱退の原因として挙げていました。さらにはソロとしての創作活動も視野に入れていたようです。Styxはその後、JCを基準にコーラスやヴォーカルで高音が出せるギタリストを探し求め、Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)と入れ替わる形で脱退を決めたのです。
Styxを脱退したJCは、シカゴ郊外のギター教室で講師をつとめる一方、”the Mad Music”と呼ばれるミュージック・ショップや”The Studio”と呼ばれるレコーディング・スタジオを運営するなどして人生を充実させました。アーチストとしては、Spread Eagleというロック・グループのギタリストとして活動していくかたわら、Arctic Foxなるグループを結成して、シカゴのクラブなどでプレイしました(Spread Eagle関連の動画はこちらYouTubeより)。音楽以外の活動では、息子の所属する野球チームのコーチも担当したり、息子の小学校(グラマースクール)での給食監督員を担当し、時には持ち込んだギターで子どもたちの前でプレイするなど、「良きお父さん」として親しまれました。
JCはシカゴの西郊にも渡り、多くの若いギタリストへののギター指導や経験の浅いロック・バンドを積極的に活動を促すなどして地域の音楽活動に貢献しましたが、1988年2月13日、脳動脈瘤により37歳の若さで、妻と子を残しこの世を去りました。
StyxとしてのJCはグループ初期のわずか5年ほどの活動でしたが、メンバーの中では地味に映る存在でありながらも、類い稀なアーチスト才能とプログレッシブな音楽をグループに注入し、その後70年代半ばに訪れる、黄金時代のStyxの源流を作ったアーチストだったと言えます。

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