2月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

1368年2月15日は、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝ジギスムント(1368-1437)の出生年月日です。14世紀半ばの名君カール4世(帝位1355-78)とポーランドのポンメルン貴族の公女エリーザベト(1347-93)との間に生まれました。
1410年、1387年からハンガリー王ジグモンド(ハンガリー王位1387-1437)としてハンガリー王国(1000?-1918,1920-46。ハンガリー・ルクセンブルク朝は1387-1437)の統治を任されていたジギスムントがドイツ王に即位しました(ドイツ王位1410-37)。ジギスムント王の即位によって、ルクセンブルク家のドイツ支配が10年ぶりに再び始まった。
ジギスムントはハンガリー王ジグモンドとして、ハンガリーに迫るオスマン帝国(1281-1922)対策として、ドイツ諸侯だけでなく英仏ほか欧州諸国、そしてローマ教皇からの支援を受けて、ジグモンドなりの十字軍を組織し、1396年、オスマン帝国皇帝のバヤズィト1世(帝位1389-1402)の軍に立ち向かいました。これが世に言うニコポリスの戦いでしたが大敗を喫し、権威は失墜しました。ところが汚名挽回の機会をうかがっていたところにドイツ王推薦の話が舞い込んできたのです。選帝侯から選出されドイツ王に即位したジギスムントでしたが、当時はニコポリスで大敗を喫したジギスムント王を快く思わない諸侯もおり、モラヴィア辺境伯(伯位1375-1411)を担っていたカール4世の甥ヨープスト(1351-1411)を推薦する選帝侯もいました。結果ヨープストも共同統治者として王位につきましたが(王位1410-11)、即位してまもなくヨープスト王が急死、結局ジギスムント王の単独統治に落ち着きました。
ヨーロッパは当時教会大分裂(大シスマ。1378-1417)という、ローマ・カトリック教会の最高権威であるはずの教皇が、ローマ教皇と南仏のアヴィニョン教皇、そしてピサ教会会議(1409)で擁立された新しい教皇が鼎立する異常事態であり、ローマ・カトリック教会で西ヨーロッパ世界を統一するという形が崩れかかっていた状況でした。
ハンガリーでのジギスムント(ジグモンド)王はローマ教皇との協調をはかり、聖職叙任権の承認を得るなど君主権を強化していました。領邦(神聖ローマ帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の自立化が進むドイツでは、神聖ローマ皇帝としての権力強化を必要とするため、さらなるローマ教皇との親密化が必要でした。ジギスムント王はニコポリスの敗戦の時、捕虜になる寸前にホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯ヨハン3世(伯位1397-1420)に助け出された縁もあって、ヨハン3世と共同統治していた彼の弟で同城伯フリードリヒ6世(伯位1371-1440)にブランデンブルク選帝侯の地位(ジギスムントの侯位1378-88,1411-15。1388-1411間はヨープストが没するまで担当)を譲り(フリードリヒ6世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世となる。侯位1415-1440)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝としての信用回復と帝権強化に集中しました。神聖ローマ皇帝と謳っていますが、この時点でジギスムント王は教皇からの戴冠を受けておらず、単にドイツ王と称する立場でもありました。神聖ローマ皇帝はローマ・カトリック世界における最高の世俗支配者であり、ローマ皇帝の称号たる尊厳者(いわゆるアウグストゥス)でもありますが、ローマ・カトリック世界における聖俗すべての最高権威であるローマ教皇に認められてこそ神聖ローマ皇帝でありましたので、ローマ教皇の権力を回復させる必要があり、大シスマ解消にむけて、ジギスムントの提唱で宗教会議開催にいたりました。これが有名な1414年開催のコンスタンツ公会議です(1414-18)。この公会議でもって、鼎立状態であった3教皇の廃位が決まり、あらたにマルティヌス5世(位1417-31)が即位しました(1417。大シスマ解消)。ルクセンブルク家におけ大々的な宗教政策であったのです。
ジギスムントは神聖ローマ皇帝として強力な皇帝権を取り戻すために、ローマ教皇の威厳回復を求めました。また、教会側は大シスマの解消、そしてローマ・カトリックを批判したかつてのオックスフォード大学教授ジョン・ウィクリフ(1320?-84)や、チェック人(チェコ人。ベーメンを構成)出身のプラハ大学(カール4世設立)学長兼神学者ヤン・フス(1369-1415)によって掻き回された教会批判の収束と信頼回復をコンスタンツ公会議で求めました。
ジギスムント王の異母兄であるヴァーツラフ4世(ヴェンツェル。ドイツ王位1376-1400。無能のため廃位さ。その後ベーメン王ヴァーツラフ4世として即位。ベーメン王位1378-1419)はベーメン王としてフス派を支持していましたが、兄王の取り仕切る神聖ローマ帝国とベーメンのチェコ人との狭間に当惑していました。結果として公会議はウィクリフの学説は異端として著書発禁および回収・焚書が決まり、1415年、ウィクリフの遺体は掘り出されて著書とともに灰にされ、テムズ川に投げ込まれました。そしてフスは生身で生きている存在でありましたので、焚刑(火刑)の処分が宣告されました。ジギスムント王はこれまでのフスの活動を誤りとし、フス自身の思想を撤回することを求めました。ベーメンにおいてはベーメン王ヴァーツラフ4世の後継者がジギスムント王と決まっており、ジギスムント王はドイツ人第一主義でもってベーメンを統治する強権をコンスタンツ公会議で見せつけ、フスに審問しました。しかしフスはこれまでの思想活動は誤りでないことを審判で毅然と主張しました。ジギスムント王はこの世に存在するフス派への見せしめとして、1415年7月、フスは異端者の象徴である悪魔の帽子をかぶせられ、火中に消えていきました。遺灰はライン川に投げ込まれました。
フスの火刑はベーメン国民に悲嘆をもたらしました。ベーメン王ヴァーツラフ4世は、弟のドイツ王ジギスムントがフスを処刑したことに多大なる衝撃を受けました。その上、多くのベーメン国民の心はヴァーツラフ4世のもとを離れていきました。プラハは圧倒的にフス派の反ローマ・カトリックに占められていたが、1419年、ヴァーツラフ4世はドイツとベーメンの架け橋になるべく、弟のドイツ王ジギスムントを介してローマ教会の許しを請い、宗教的対立緩和に尽力しました。結果ローマ・カトリック教会が譲歩したことで、プラハにおけるローマ・カトリック教会が復活、ベーメンでのドイツ人の活動も許されることになりました。しかしベーメンのフス派の国民は承認するはずもなく、フス派急進派のヤン・ジシュカ(1374-1424)らが立ち上がり、プラハ市庁舎を襲撃してドイツ人のプラハ市長を市庁舎の窓から投擲(とうてき)する騒動にまで発展します(第一次プラハ役人投げ捨て事件。1419。第二次は1618年にベーメン反乱の一環として投擲がおこり、三十年戦争の勃発へとつながります)。ヴァーツラフ4世は神聖ローマ帝国(ローマ・カトリック教会)とベーメン国民(フス派)の間に立たされたこの局面を打開することができず、ショックのあまり、同1419年に没しました。同年、混迷するベーメンにはジギスムントが即位し、ベーメン王ジクムント(王位1419-37)としてベーメン王となりました。これでハンガリー政策はますます疎かになり、ハンガリー国民はニコポリスの敗戦に加え、ベーメンをも破壊した君主としてさらに非難が高まり、しかもフス派の勢力がハンガリーにも波及して、ハンガリー語訳された聖書が出回ってフス派に同調する人々も現れました。しかもベーメンではフスの火刑に対する衝撃は止むことなく、ジクムント王の即位に不満なベーメン国民(特にフス派国民)は反乱が激化し、プラハの教会やドイツ人宅、カトリック信者宅を襲撃していきました。
ドイツ王ジギスムントがベーメン王ジクムントとして即位した直後、ドイツ人とチェコ人という民族対立、カトリックとフス派という宗教対立が合わさり、ジクムント王に対して反抗する姿勢を見せました。ジクムントはニコポリス戦の時と同様、十字軍と称してドイツ諸侯軍とローマ教皇軍と連合してベーメンへ派兵し、全面戦争へ突入しました。十数年にわたって展開することになるフス戦争の勃発です(1419-36)。フス派のヤン・ジシュカは1420年にジクムント王に盾突きチェコ南部にフス派のチェコ系住民とともに立てこもり、軍事要塞都市を建設しました。これが現在の南ボヘミア州にあるターボル市です。ジクムント王が提唱した十字軍は何度もヤン・ジシュカのフス派軍と戦うも、敗戦を繰り返す始末でありました。しかしジクムントは同じ轍を踏むことを避けるため何度も軍をベーメンに送り込みました(ジクムント王のこうした弾圧はやがてチェコ人のナショナリズムを高揚させ、ドイツ人からの民族的独立を意識させるようになります)。一方フス派はドイツ各領邦やポーランドにも侵入して荒らし回る行動に出て行きますが、フス派の内部は穏健派や急進派など対立が深まっており、また1424年には急進派のまとめ役ヤン・ジシュカが病死するなど安定を欠き、やがて弱体の方向に向かっていきました。
フス戦争のさなかにジクムントは1431年に反カトリックの温床となってしまったプラハ大学に対して活動規制を行いました。父カール4世(ベーメン王ではカレル1世。ベーメン王位1346-78)が力を込めて建設した大学を、子のジギスムントが処分することになりました(大学はその後活動再開)。そして、神聖ローマ皇帝ジギスムントとして1433年5月にローマ教皇より念願の戴冠を受けることになり、名実ともにジギスムントは神聖ローマ皇帝となりました(このとき神聖ローマ帝国の紋章を”双頭の鷲“に変更しています。ジギスムントの肖像画にもその紋章が描かれています。その画像はこちらWikipediaより)。結果、形勢が逆転してジクムントの十字軍が勝利を収め、フス戦争は収束していきました。フス戦争に勝利したジギスムントはベーメン王としてベーメン貴族より認められ、ルクセンブルク家における神聖ローマ帝国、ベーメン、ハンガリーの君主として君臨することになりましたが、戦争で荒廃した国土を復旧させる政策など、戦後処理で問題は山積していました。
それ以上に大きな問題が後継者問題でした。神聖ロ-マ皇帝として、ついに頂点にのぼりつめたジギスムント帝でしたが、後継者となる男子を授かっておりませんでした。ヴェンツェル、ヨープストもともに相続する男子がおらず、ジギスムント帝の娘エリーザベト(1409-42)はハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト5世(公位1404-39)に嫁いでいました(1422)。結局ジギスムント帝は相続すべき男子を残さぬまま、1437年末に没しました(1437.12)。これによりルクセンブルク家は断絶、同家の帝国支配は終わりを告げ、ベーメン・ルクセンブルク朝もハンガリー・ルクセンブルク朝も自動的に終焉を迎えました。結果、ハプスブルク家のアルブレヒト5世がドイツ王アルブレヒト2世(王位1438-39。戴冠なし)として即位し、同時にハンガリー王アルベルトとして(王位1437-39)、そしてベーメン王アルブレヒトとして(王位1438-39)ルクセンブルク家の所領を継承、ハプスブルク家の栄華が到来することとなるのです。
引用文献『世界史の目 第249話』より

ルクセンブルク家の皇帝たち―その知られざる一面

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