3月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

  180年3月17日は、第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)の没年月日です。
 パックス・ロマーナ(ローマの平和。B.C.27-A.D.180)と謳われたローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の黄金時代。その中のハドリアヌス帝(帝位117-138)が統治していた時代、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族、ウェルス家がでました。ウェルス家はローマ属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)でしたヒスパニアのバエティカ(現アンダルシア州)にあるコルドバを領有して、一族は国政に参加していました。121年、そのウェルス家からローマで生まれた1人の男児がいました。それが、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス(121-180)という人物で、後に”哲人皇帝“と評された第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝です。ネルヴァ帝(ネルウァ。帝位96-98)、トラヤヌス帝(帝位98-117)、ハドリアヌス帝アントニヌス・ピウス帝(138-161)と続く、世に言う五賢帝の最後の皇帝です。
 アウレリウスが3歳の時、法務官(プラエトル)だった父マルクス・アンニウス・ウェルス3世(?-124)は没しましたが、母ドミティア・ルキッラ(カルヴィッラ。?-2C半ば)や祖父マルクス・アンニウス・ウェルス2世(生没年不詳)たちは懸命に貴族としての教養を育ませ、家庭教師や従者を投入してアウレリウスを育てました。家庭教師からは哲学や修辞学を学び、家族からは貴族の出として恥じない品格を教えられました。これをハドリアヌス帝が注目し、127年、彼をエクイテス(古代ローマの騎士階級。元老院を構成する貴族階級、パトリキの次階級)に叙任せられました。アウレリウスがまだ6歳の頃でした。
 ハドリアヌス帝は同性愛者でしたので、後継できる嫡男がおらず、寵愛する重臣ルキウス・アエリウス・カエサル(101-138)を自身の帝位継承者としていました。アウレリウスはルキウス・アエリウスの配下となり、同様にハドリアヌス帝から寵愛を受けるようになります。その後アウレリウスは重職に任命されて人脈を拡げましたが、その中でもストア派(禁欲主義を第一とし、理性に従うことで真の幸福を求められるという思想)の哲学者との出会いは彼の人生を方向付けました。
 138年1月にルキウス・アエリウスが病気のため没し、彼を後継者とする構想はくずれました。ルキウス・アエリウスの子はルキウス・ウェルス(130-169)といい、彼もハドリアヌス帝より寵愛を受けていました。父アエリウスの生前、子ルキウス・ウェルスの妻にハドリアヌス帝の重臣であるティトゥス・アントニヌス(のちのアントニヌス・ピウス帝)の娘アンニア・ガレリア・ファウスティナ(ファウスティナ・ザ・ヤンガー。小ファウスティナ。125-175)を迎え入れることを考えていました。しかしルキウス・アエリウスの病没によって結婚は流れ、ハドリアヌス帝はティトゥス・アントニヌスを養子および帝位継承者とすることを決めました。ただしその条件として、ティトゥス・アントニヌスはハドリアヌスが寵愛するアウレリウスとルキウス・ウェルスを2人とも養子にすることを求められました。それは、ハドリアヌスが2人をのちの帝位後継者とするためでした。
 小ファウスティナの母、つまりティトゥス・アントニヌスの妻はファウスティナ1世(ファウスティナ・ジ・エルダー。大ファウスティナ。100?-140)といい、ウェルス家の娘であり、アウレリウスの父で彼が3歳のときに病没したマルクス・アンニウス・ウェルス3世の妹(姉?)でした。つまり大ファウスティナはアウレリウスの叔母、娘の小ファウスティナはアウレリウスの従妹ということになります。ティトゥス・アントニヌスはルキウス・ウェルスとアウレリウスを養子にとり、正式にハドリアヌス帝の養子および帝位継承者となりました。そして、ティトゥス・アントニヌスの娘である小ファウスティナはアウレリウスと婚約することとなりました。いとこ同士の結婚でした(結婚は145年)。
 同138年の7月、ハドリアヌス帝が62歳の生涯を閉じました。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝でしたが、後を継いだティトゥス・アントニヌスは元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールしました。このため、元老院から”ピウス(・慈悲深い、敬虔な人)”と呼ばれ、アントニヌス・ピウス帝としてその名が残ることとなりました。140年、アウレリウスはアントニヌス・ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となりました。アウレリウスは小ファウスティナと結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任しました。一方ルキウス・ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任しました。
 150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス・ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス・ウェルスはともに再度の執政官に再任しますが、同年アントニヌス・ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス・ウェルスは共同統治者として即位しました。アウレリウスは皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス・ウェルスは皇帝ルキウス・アウレリウス・ウェルス(帝位161-169)として帝位につきました。
 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は小ファウスティナとの間には170年までに6男7女を授かりましたが、彼の即位時には、ルキウス・アウレリウス・ウェルス帝と結婚した次女のアンニア・アウレリア・ルキッラ(148?/150?-182)をはじめとする4女を除いて、すでに5子(4男1女)が夭折していました。しかし即位してまもなく誕生した双子の男児は、一方は夭折しましたが、もう一人(ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス。161-192)は父マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝に招かれた専門医師団の尽力で、病弱ながらも順調に育ち、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の立派な帝位継承者として修養を積ませていきました。この医師団に所属した侍医には、ギリシア出身で、ローマ帝国の名医として後世にその名が残るガレノス(129?-200?)がいました。
 2人が共同統治者として即位するとまもなく、帝国の辺境における異民族の反乱に悩まされましたが、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世の大半を、パルティア遠征(161-166)やゲルマン系異民族との戦闘に費やしました(ゲルマニア遠征。この戦闘は異民族の名をとってマルコマンニ戦争の呼称がある。162-180間)。また165年から十数年間ほど天然痘(あるいはペストか?)の流行で国力が疲弊(アントニヌスの疫病。165-180)、さらには169年にルキウス・アウレリウス・ウェルス帝が没したことで(食中毒説、毒殺説など諸説あり)、五賢帝時代と呼ばれた平和な時代に危機感が漂いはじめました。
 ルキウス・アウレリウス・ウェルス帝没後、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の単独統治がはじまりました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はこれまで歴代の皇帝のように養子で継承をつないでいくやり方ではなく、自身の血のつながった子を帝位継承者とすることを理想とし、子コンモドゥスに対し、父であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝自らが教育を施していました。172年には子コンモドゥスをマルコマンニ戦争に従軍させ、後世の名君となるにふさわしい経験と英知をたたき込ませました。しかし175年に、同じく軍に随行して、兵士たちを励まし続けてきた小ファウスティナ妃が没するという悲劇がおこり、しかもパルティア遠征で活躍したシリア属州の軍事総督ガイウス・アウディウス・カッシウス(130?-175)が次期帝位を望み、コンモドゥスを後継者とするマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝に対して反旗を翻すという暴挙に出るなど、混乱に巻き込まれました。
 176年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスとともにローマへ帰還、凱旋式がとりおこなわれた。戦勝を記念してローマのコロンナ広場に”マルクス・アウレリウスの記念柱“を建造しました(着竣工年月は不詳。画像はこちらWikipediaより)。そして177年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスを即位させて、父との共同統治者としてローマ皇帝となりました(帝位177-192。同時に執政官も就任)。ティトゥス帝(帝位79-81)以来、父から実子への、直系の帝位継承が実現したのでありました。五賢帝時代ではもちろん初めてでした。直後、ローマ帝国軍は再度のゲルマニア遠征を決行しましたが、178年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は遠征中に倒れ、病床に伏しました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスに、もと執政官の娘ブルッティア・クリスピナ(164-182/187)と結婚させて、やがて単独統治をとることになる子に対して、帝国民の代表として威厳あるローマ皇帝の位を維持させようとしました。
 180年3月17日、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は遠征先のウィンドボナ(現ウィーン)で没し(マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝死去。58歳)、ついにパックス・ロマーナと謳われた五賢帝時代は終わりを迎えました。その後は子コンモドゥス帝が単独統治者となりました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は生前、帝位に就いた治世の後半から、戦場にて自分自身宛ての文章を書き綴っていました。これが全12巻に渡る『自省録(じせいろく)』で、ローマ人でありながらラテン語ではなく哲学の原点であるギリシア語で書かれており、断片的な内容ではあるものの、ストア学派の立場から、自分自身に対する欲深さを戒め、ゲルマンの危機にさらされているローマ帝国の平和を守るために自分自身を激励し、逆境に耐えることが記され、神々や両親をはじめとする周囲の人たちに感謝の意を述べていました。こうしたことから、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は”哲人皇帝“の異名を残すことになったのです。
 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の後を継いで即位した子コンモドゥス帝は、180年にゲルマン系異民族との戦闘に一応の決着をつけ、対外戦争のない時代を現出しましたが、その後は姉でルキウス・アウレリウス・ウェルス帝の妻だったアンニア・アウレリア・ルキッラの内紛(帝位簒奪による暗殺未遂事件)とこれに続く関係者の粛清、コンモドゥス帝の妻ブルッティア・クリスピナの流刑、奸臣マルクス・アウレリウス・クレアンデル(?-190)の専横など不運が続き、人間的理性を失って有力な重臣を追放し、自身も職務を放棄して剣術に没頭する日々を送った結果、元老院議員を敵に回してしまい、192年末に暗殺されてしまいました。これにて、ネルヴァ帝に始まるローマ帝国ネルヴァ・アントニヌス王朝(96-192)はついに断絶し、193年から4年間、帝位をめぐって貴族、騎士、軍人らがそろって即位するという激しい内戦(ローマ内戦。五皇帝時代。193-197。コンモドゥス帝暗殺を内戦に含むと192-197)に突入、政情不安の時代が到来することになるのです。
引用文献『世界史の目 第247話』より

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