3月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1878年3月16日は、イランの王朝、パフレヴィー朝ペルシア(1925-79)の初代国王、レザー・ハーンことレザー・シャー・パフレヴィー(1878-1944。王位1925-41)の生誕年月日です。レザー・ハーンはイラン北部のマーザンダラーン州出身です。
 イラン王朝のカージャール朝ペルシア(1796-1925。首都テヘラン)は、第一次世界大戦(1914-18)では中立の立場をとり、ある程度自主権を回復させましたが、これまでペルシア北西部を支配していたロシアが、自国の革命(ロシア革命のこと)によってペルシア撤退を決めた後、今度はイギリスの介入が始まり、ペルシア全土を勢力下におくために保障占領し、イギリス・イラン協定を結んでペルシア保護国化を行いました(1919)。
 しかし翌1920年には北西部のアゼルバイジャン地方において、ソ連側が臨時政府を樹立したことによって、ペルシア国民による列強干渉への抵抗運動の勃発を予感させました。よってイギリスは、ペルシア・コサック師団の将校をつとめていましたレザー・ハーンを使って、クーデタをおこす計画をたてました。レザー・ハーンは1921年2月、2500人の兵を率いてテヘランを占領、国政に反する勢力を武力で弾圧し、また臨時政府を打倒してロシア勢力を制圧しました。イギリスによる作戦は成功しました。ソヴィエトの共産勢力を阻むためにペルシアを親英政権にする必要があったのです。
 ところが、レザー・ハーンは愛国派であり、親英政権も快く思わず、イギリス・イラン協定の破棄を宣言するなど、不平等条約の撤廃に努めました。その後議会を操り独裁的権力を握ったレザー・ハーンは、軍司令官となり、1923年にはペルシア首相に任命されました(任1923-25)。
 1925年、国民議会ではカージャール朝の7代目国王アフマド・シャー(位1909-25)による、カージャール朝の存在意義について審議され、レザー・ハーンはカージャール朝の廃止を決議、これによりカージャール朝は滅亡、アフマド・シャーは退位させられました。12月、レザー・ハーンはペルシア王朝代々の王号である”シャー“を称し、新国王レザー・シャー・パフレヴィーとしてパフレヴィー朝ペルシアを開基しました。
 レザー・シャー・パフレヴィーが王位に就いて以降、国内では様々な諸改革がおこされました。トルコ革命(1922-23)におけるケマル・アタテュルク(1881-1938)の実施した諸改革を手本に、財政改革(アメリカ人財政顧問招聘。1922-27)・司法改革(1926)・国民銀行の創設(1927)・義務兵役制度の導入(1929)・鉄道敷設(イラン縦貫鉄道。1938)・国名改称(1935。”ペルシア”から”イラン“へ)などの他、女性解放・教育制度改正・国際連盟加盟・産業振興を行い、ペルシアにおける”上からの近代化・西洋化”と”中央集権体制強化”に尽力しました。しかし、最も重要なイラン産の石油利権はイギリスの手中にあったままでした。
 イランは第二次世界大戦(1939-45)も中立を宣言していましたが、レザー・シャー・パフレヴィーのこうした全体主義的な独裁政権を、イギリスやソ連は警戒していました。イギリス・ソ連は、折しもナチス・ドイツがファシズムによる独裁帝国を築いていたことに重ね合わせ、レザー・シャー・パフレヴィー政権を脅威に感じていました。これにより1941年、遂に英ソ両軍によるイラン進駐が行われ、親ナチスとみられたレザー・シャー・パフレヴィーは退位させられました。そして、長子のムハンマド・レザー・シャー・パフレヴィー2世(1919-80)が即位し、2代目国王となりました(位1941-79)。レザー・シャー・パフレヴィーはその後マダガスカル東方の島国モーリシャスに流され、1944年、ヨハネスブルク(南アフリカ)で客死しました。
引用文献『世界史の目 第68話』より

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