5月29日は何に陽(ひ)が当たったか?
1453年は東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)がオスマン帝国(1281-1922)の第7代スルタン、メフメト2世(位1444-46,1451-81)の軍によって陥落し、帝国が滅亡した日です。初代ローマ皇帝アウグストゥス(在位B.C.27-A.D.14)にはじまるローマ皇帝の継承はここで断絶を迎えました。
メフメト2世は陸での攻城戦が上手くいかないことで、水上戦に切り替えて金角湾口(ボスフォラス海峡南西部には内海であるマルマラ海からヨーロッパ側に切り込んだ湾。Wikipediaより)に艦隊を進めましたが、東ローマ帝国によってはられた太い鉄の防鎖によって侵入を阻止され、またしても突破口を開くことができませんでした。
そこでメフメト2世は短期決戦での首都陥落を前提に作戦をすすめ、防鎖を避けて70隻の艦船を湾に入れることを計画しました。それは、”艦船の山越え“という奇策でした。
それは金角湾の北岸に面した陸地を迂回して、鎖がはられている湾口よりもずっと奥へ艦船を移送させる大仕事で、移送させるには迂回コースとなる5kmの山越えを果たさなければならないため、油を塗った丸太を山道に並べ、”コロ”の原理を利用してボスフォラスから引き上げた艦船をその丸太の上に滑らせて運搬するという奇抜な作戦でした。1453年4月23日に開始されたこの作戦は、5月上旬には70隻の艦船が金角湾内部に運び込まれ、金角湾上に着水した敵艦をみたローマ軍はすっかり怖じ気づいてしまいました。
コンスタンティノープルを包囲したメフメト2世は、東ローマ帝国皇帝、コンスタンティノス11世(在位1449-53)に対して即時降伏および首都明け渡しを要求しました。しかしコンスタンティノス11世はローマ皇帝として帝国を残すことを選択し、メフメト2世の要求をすべて拒否しました。これにて、東ローマ帝国とオスマン帝国との戦闘が開始されました。
オスマン軍の出陣からほぼ2ヶ月経った1453年5月28日、すでに防戦一方の展開となっている東ローマ軍も、徐々に力が尽きていき、同日夜、コンスタンティノス11世は宮殿内にて、帝国の最期を予感するも最後まで戦い残った家臣や兵士たちに、これまでの健闘に対して労をねぎらう賛辞を送り、部下は全員、最後まで戦うことを誓い合い、別れの言葉をお互いに告げました。皇帝コンスタンティノス11世は祖国の誇るハギア=ソフィア大聖堂にて、多くの人々とともに最後の祈りを神に捧げた後、自身の愚かさで首都陥落の危機を迎えたことを家臣に一人ずつ謝罪しました。
陽の当たった翌1453年5月29日未明、防戦一方だった東ローマ軍もとうとう力尽きました。遂にオスマン軍は城壁を突破することに成功、城壁になびくオスマン帝国旗を見たコンスタンティノス11世は、身につけていた東ローマ帝国の紋章である”双頭の鷲”を剥ぎ取り、絢爛たる帝衣を脱ぎ捨て、剣を抜き、自軍とともに首都を制圧したオスマン帝国の軍隊に突入していきました。異教徒の敵軍に飛び込んだコンスタンティノス11世は「私の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、果敢にオスマン軍と戦いましたが、帝はこの戦いで没したとされており、その後の消息はさだかではありません。
この結果、首都コンスタンティノープルは陥落、初代ローマ皇帝アウグストゥスにはじまるローマ皇帝の帝位は断絶、東ローマ帝国は滅亡することになりました。
引用文献:世界史の目『第202話 王都陥落1453!』
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