9月28日は何に陽(ひ)が当たったか?

紀元前48年9月28日は、共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)の有能な政治家であり軍人のグナエウス・ポンペイウス(B.C.106-B.C.48)がエジプトで暗殺された日です(9月29日説もありますが、ここでは28日に陽を当てました)。
エジプトは当時、プトレマイオス朝(B.C.306-B.C.30)が支配していました。その王プトレマイオス11世(位B.C.80)が後継者をつくらずに暗殺されたため直系は途絶えたましたが、従兄弟のプトレマイオス12世(位B.C.80-B.C.58,B.C.55-B.C.51)が即位し、王朝を維持しました。このプトレマイオス12世は暗愚な王でしたが、ローマのポンペイウスの支援もあって没するまで政権を維持し、当時18歳(?)だった王の娘と、その弟で当時7歳の息子を結婚させて、共同統治者としてファラオに就かせることを遺言に、B.C.51年没しました。その娘がクレオパトラ7世(B.C.70.12?/B.C.69.1?-B.C.30.8.12)で、その美貌で多くの人を魅了し、”絶世の美女”と呼ばれた、世に言うプトレマイオス朝女王クレオパトラです(位B.C.51-B.C.30)。クレオパトラの弟であり夫であるプトレマイオス13世(B.C.63-B.C.47。位B.C.51-B.C.47)は幼かったので、後見人がたてられていました。
紀元前60年に始まる第一次三頭政治(B.C.60-B.C.53)では、ポンペイウス、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)、マルクス・リキニウス・クラッスス(B.C.114/115-B.C.53)によって構成された国政体制で、ポンペイウスはヒスパニア地方(イベリア半島)、クラッススはシリア地方、そしてカエサルは当時では未開だったガリア地方(現在のフランス、ベルギー一帯)のそれぞれの軍令権を得て統治に当たりましたが、紀元前53年のクラッスス戦死によって崩壊し、抑えられていた元老院がポンペイウスに取り付いてカエサル側と対立しました。ポンペイウスとカエサルの敵対はギリシア、テッサリア地方のファルサルスでの戦いに発展していき、ポンペイウスは劣勢を強いられます。そして、ポンペイウスは過去の軍人としてのキャリアの中で、このファルサルスの戦いで初めての敗北を経験するのです。ポンペイウスは縁のあるプトレマイオス家のエジプトに逃げ込むことを決意しました。
そのプトレマイオス朝のエジプトでは、父プトレマイオス12世没後に即位した姉クレオパトラと弟プトレマイオス13世でしたが、共同統治といえども実質は弟は7歳、姉18歳の国家統治であるが故、姉がほぼ単独で統治する形態でした。このため弟プトレマイオス13世の側近は姉の廃位と追放を求めて、エジプトで内戦が勃発しました。
クレオパトラがは父と同様、ポンペイウスを支持していました。ファルサルスからガレー船に乗ってエジプト領内に入ろうとするポンペイウスに対し、クレオパトラ側は喜んで出迎えることになりました。しかし弟プトレマイオス13世は一時的に姉クレオパトラを幽閉して、首都アレクサンドリアを占領しました。反クレオパトラの姿勢から、プトレマイオス13世側はエジプトに逃げ込んできたポンペイウスを暗殺することを計画しました。紀元前48年9月28日、ガレー船から首都アレクサンドリアに降り立ったポンペイウス一行は、直後に反クレオパトラ派の軍人達に奇襲を受け、暗殺されてしまいました。かつてファラオ(エジプトの王号)を助けたエジプトで余生を送るはずであったポンペイウスは、その夢も一瞬で崩れ去り、最期を遂げたのでした。

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