12月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
1931年12月13日は、立憲政友会総裁の犬養毅(いぬかい つよし。1855-1932。総裁任1929-32,首相任1931-32)を内閣総理大臣とする犬養内閣が誕生し、高橋是清(たかはし これきよ。1854-1936)大蔵大臣によって金輸出の再禁止が断行、金本位制が停止された日です。
第一次世界大戦(1914-18)の勃発で金輸出(言い換えれば金の国外流出)が危ぶまれることにより、アメリカが金本位制の一時停止および金輸出禁止を発表後、日本も1917年の寺内正毅内閣(てらうち まさたけ。首相任1916-18)のとき、アメリカにならい金輸出を禁止して金本位制の停止を発表しました。金本位制では金を価値基準として円とドルを交換する固定の為替レートでしたが、価値基準の金を使わない変動相場制に移行したのです。しかし戦時下の日本では外国製品をたくさん買う輸入超過におちいり、円がたくさん流出して日本に入ってくるドルは少なくなっていく、つまり円安状態になり、円の値打ちが下がるので円の為替相場は変動、さらに下落していきました。輸入超過の貿易赤字に拍車がかかった上、関東大震災(1923)や金融恐慌(1927)の影響でさらに円の下落状態がおこりました。
こうしたことから1930年、浜口雄幸内閣(はまぐち おさち。首相任1929-31)では、円の下落と国際価値の低下を防ぐため、井上準之助蔵相(いのうえ じゅんのすけ。1869-1932)のもとで金輸出の解禁を行い、金本位制を復活させることになりました。これで円為替相場制は正貨である金によって価値づけられ、”変動”ではなく”固定“の為替相場制となりました。
金本位制度下では、金平価(きんへいか)という、国家間の通貨の交換に対する指標が必要になってきます。金本位制がしかれている場合、使われる通貨は、これと同じ価値の、法で定められた含有量の金でできた正貨と交換(兌換)できます。通貨はこの金貨で価値が付けられます。日本では、1897年の貨幣法で正貨の金含有量が定められておりました。そして、国際金本位制下で各国の通貨が交換されるとき、各国の金含有量を比較して算出される、各国通貨の交換比率を金平価と言います。正貨における金の含有量は法律で定められているため、法定平価とも言われます。
ちなみに、金本位制度の停止を発表する1917年までの平価は日本は1円=金0.75g、アメリカは1ドル=1.5g、100円換算で49.875ドルの交換ができました(旧平価といいます。1ドル=約2円)。
1917年の日本の金本位制停止以降は円安状態のため、日本経済が国際的な信用が低下していました。下落し続ける円をまた金と兌換できるようにするのに、平価を新しく定める新平価の検討もありましたが、浜口内閣は、日本経済の国際信用低下を防ぐため、また円為替相場をかつてのレベルで維持させたいと思ったのか、旧平価で金を解禁してしまいました。
この旧平価での金輸出解禁は、当時の日本の経済状況を一変させました。円安でさらに輸入超過のため、金の流出が進み、輸入さえも減少していきました。さらには1929年の世界恐慌で輸出も不振の追い打ちがかかってしまいました。このため、日本の平価を切り下げて、円の対外価値を引き下げ、輸出を上向かせる声があがり、強いては金輸出再禁止を叫ぶ声も聞かれるようになりました。
そこで陽の当たった1931年12月13日、組閣したばかりの犬養内閣では高橋蔵相のもとで、輸出の促進と金の国外流出に歯止めをかけるため、金の輸出を再び禁止させ、円の金兌換を停止させることになりました。これにより、金本位制度は再び停止され、信用通貨を使用するため、政府が最高発行額を管理する管理通貨制度の時代に突入していきました。景気回復を期待される中でしたが、軍部の台頭を許して1932年5月15日に犬養首相が暗殺され(五・一五事件)、高橋蔵相が首相代理を兼任するも内閣は1932年5月26日に瓦解、戦前最後の政党内閣はついに崩壊して、軍国主義の波にのまれていくのでした。
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