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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第168話


皇帝を名乗った男

 18世紀後半のロシア・ロマノフ朝(1613-1917)時代。ヨーロッパでは1756年、七年戦争1756-63)が勃発したが、ロシアも参戦国であり、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家らと手を組み、隣接する敵国プロイセン王国(1701-1918。ホーエンツォレルン家)の打倒に燃えた。文字通り7年続いたこの戦争は、結果的には因縁の対決と言われたプロイセンの"大王"、フリードリヒ2世(位1740-86)とオーストリアのマリア=テレジア(1717-80。神聖ローマ皇帝フランツ1世妃。フランツ1世帝位1745-65)の因縁対決の様相を呈した戦争だったが、北米・インド両大陸でも連動するほどの世界戦争となっていったのである。当時のロマノフ王朝では、ロシア女帝エリザヴェータ(位1741-62)の時代で、彼女没後は甥のピョートル3世(位1762.1-1762.7)が跡を継いだ。

 開戦して5年目の1762年、そのピョートル3世の治世に大事件が起こった。ピョートル3世は即位してまもなく、七年戦争の敵国であるプロイセン王国と和睦したのである(ロシア・プロイセン休戦条約。1762.4)。これはピョートル3世がプロイセン王フリードリヒ2世の心酔者であったためで、これにてロシアは戦線から手を引き、東側の攻撃がなくなったプロイセンは息を吹き返した。しかもこの講和条約によって、ロシアはプロイセン占領地の返還を行い、賠償請求も行われないどころか、つい半年前まで敵同士だった同国境を有する両国が、軍事的友好同盟を締結する始末であった(1762.6)。プロイセン贔屓のピョートル3世は、強い軍隊として定評のあったプロイセンの軍式を真似て、ロシア軍システムのプロイセン化を狙ったため、これを嫌ったロシア軍隊や国民の反感を買うようになっていく。

 父が北ドイツのホルシュタイン=ゴットルプ家出身と言うこともあって、ピョートル3世も帝位に就く前からホルシュタイン=ゴットルプ公(公位1739.6-1762.7)であった。帝位継承後もプロイセンへの傾倒が止まない状況に、宮廷においても問題化していった。ピョートル3世は皇后エカチェリーナ=アレクセーエヴナ(1729-1796。皇后位1762.1-1762.7)と不仲で、エリザヴェータ帝時代に帝国宰相として活躍した大貴族ヴォロンツォフ家から出たリーザ(エリザヴェータ=ヴォロンツォヴァ。1739.8-1792.2)を寵愛していた。これを利用しようと、別のロシア有力貴族オルローフ家の次子で、近衛士官グリゴリー=オルローフ(1734-1783)が、皇后にクーデタを持ちかける。実は、グリゴリー=オルローフは皇后の愛人であった。皇后エカチェリーナ=アレクセーエヴナは、グリゴリーの兄弟と意気投合し、他の協調した貴族たちと行動を共にして、政権奪取を謀り、首都ペテルブルクでクーデタを敢行(1762.6.28。皇后は軍服姿で指揮をとったとされている)、近衛連隊によって皇后をロマノフ朝第8代のツァーリ(皇帝の称号)に推戴された。これが、女帝エカチェリーナ2世である(位1762.7-96.11)。即位して6ヶ月目で退位させられたピョートル3世は即座に逮捕・収監された。

 幽閉されたピョートル3世は、直後に謎の不審死を遂げた(1762.7.17)。ピョートル3世はかつてより痔を患っていたとされ、痔痛の激化による発作と公式発表され、ロマノフ王朝の汚点を残したとして酷評されたという(死因は依然として不明で、近衛兵による殺害説も浮上した)。
 エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世同様、フランス文化に興味を持ち、また啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778)との文通を通じて啓蒙思想(啓蒙主義。旧弊打破の立場に立ち、人間的理性を尊ぶ革新的思想)を愛好するようになった。ヴォルテールはフリードリヒ2世にも師事され、その影響で強いプロイセン・強い啓蒙専制君主としてその名を轟かせた功績を持っていた。彼女もこれにならって啓蒙専制主義をロシアに注入することを決め、啓蒙専政君主エカチェリーナ2世として、教育改革、学芸保護、法整備、病院設立といった諸改革を始めた。

 エカチェリーナ2世の啓蒙専制主義的改革に転機が訪れたのは彼女が即位して10年目の頃である。こうした諸改革が着々と進められていくうちに保守派貴族から不満の声が上がっていった。さらに、女性皇帝を快く思わないどころか、ドイツ小邦出身の彼女に対し、正統なロマノフ王家ではない身分がツァーリに上ったことへの周囲の反感もあった。貴族の支持を取り付けるため、17世紀の偉大なツァーリであったピョートル1世(大帝。位1682-1725)に倣って農奴制をこのまま継続して強化した。さらに政権交代の煽りを受けて農地収奪や増税などの搾取はさらに激化し、農奴だけでなく地主層にも悪影響が出るほどであった。

 ピョートル3世急逝が伝えられた直後、こうした女帝への不満からか、自身を"前ツァーリ(ピョートル3世)"と僭称(せんしょう。身分を超えた称号を勝手に名乗ること)する者が次々と現れ、エカチェリーナ政権への不満を主張していった。
 さらには、女帝への不満はコサックにも波及した。ドン川流域に形成された、その勢力は南ロシアからウクライナ東部まで及ぶドン=コサックや、ヤイク河(現・ウラル河)流域のヤイク=コサックといった有力コサックが中心となり、自治権の獲得や農奴制の廃止を求めて、反体制活動を展開していた。この中で、当時最も有力だった人物が、ドン=コサックからでたエメリヤン=プガチョフ(1740/42-75)であった。

 プガチョフはドン=コサックにあった集落で生まれた。小地主を父に持ち、4人兄弟で、家は貧しかったという。農業に従事していたが1758年にコサックの娘と結婚し5子をもうけた(内2人は早世)。家族を養うためにプガチョフはドン=コサック軍として従軍し、七年戦争などに出征した。しかし戦傷がもとで軍隊を脱走、官憲からの追われの身となりながら、アゾフ海(黒海北部)やカフカス(コーカサス。黒海とカスピ海の間)などを転々と逃亡を重ねた。

 ポーランド分割(1772。エカチェリーナ2世(露)・フリードリヒ2世(普)・マリア=テレジア(墺)が行う)の影響からか、それとも、ロシアで政権交代のあった1762年に父を亡くし、1771年には母を亡くした影響からか、プガチョフは正統なロシア正教会主流派の信者であった。しかし彼は1770年代初め、ドン=コサックやヤイク=コサックが信奉するロシア正教会の一宗派である古儀式派に改宗した。事実として、ロシア正教会主流派はピョートル3世時代には弾圧され、エカチェリーナ2世が即位すると保護されていた。そのため、エカチェリーナ時代では古儀式派の主流派への強制改宗が行われていた。ドン=コサックやヤイク=コサックは古儀式派が多くいるため、年を追う毎に反体制活動は活発化していき、政権交代も相まって、1760年代は特に農民反乱が相次いだ。

 1772年、プガチョフはウラル川中流にあるヤイク=コサックの本拠地ヤイツキー=ゴロドーク(現カザフスタン共和国のオラル市。ウラリスク)に入った。そこで彼が起こした行動とは、大衆前での演説である。その演説とは、"汝らの君主に忠誠をもって仕えよ。そうすれば、汝らにあらゆる自由解放を与えよう"といったものである。そう、プガチョフはピョートル3世を僭称したのである。

 皇帝を名乗ったプガチョフは農奴制廃止を強くうったえ、兵力80人を率いて準備を重ねた。"土地と自由"をスローガンに農民を率いて兵力を上げていき、訓練を重ねた。そして、コサックにおいて擬似的に官僚機構をつくり、学校や軍部を建設し、この際各地から有識者や有力な軍指揮官を集めていった。すると少数民族や貧困労働者などもプガチョフに依り、挙げ句の果てにはプガチョフを救世主とするプロパガンダを流布させるための宗教家も引き入れられていった。こうして1773年末にはプガチョフの兵力は3万人に激増した。そして同年、プガチョフの指揮で大規模な農民反乱が勃発(プガチョフの乱1773-75)、反乱軍は広範囲で各地を次々と占領していった。カザフスタン寄りのウラル山脈南端にあるオレンブルグでは半年間の包囲で大きな犠牲者が出、ヴォルガ川東岸に位置する貿易都市サマーラ(ロシア南東部)も占領された。
 またキプチャク=ハン国(1243-1502)の流れをくむタタール系国家カザン=ハン国(1445-1552。ヴォルガ川中流域。イスラム王朝)の首都だったカザンでは、1774年7月に包囲された。帝国軍は反乱軍に敗れ、町は破壊されて火の海となった。しかし、帝国軍の増援がカザンにはいると、プガチョフの軍は劣勢に転じ、結果反乱軍は大敗を喫した(カザンの戦い)。現在のヨシュカル=オラ(ヴォルガ川流域。ロシア連邦内のマリ=エル共和国首都)に落ち延びた時、プガチョフの兵力はすでに500まで激減していた。そこで、逃亡虚しくプガチョフの家族や仲間たちは捕らえられた。ここで、プガチョフが皇帝ではないことが証明された。プガチョフはウラル山脈方面へ逃亡した。
 しかしそのプガチョフも9月、偽皇帝であると分かり寝返ったかつての部下たちの密告によって捕らえられ、ロシアの名軍人アレクサンドル=スヴォーロフ(1729-1800。軍歴任1742-1800。大元帥)によってモスクワへ連行された。これにてプガチョフの乱は終戦を迎えた。
 1775年1月、プガチョフとその家族をはじめとする仲間全員、公開処刑となった(プガチョフ処刑)。プガチョフは四つ裂き刑に処されたといわれている。

 1774年7月21日は、エカチェリーナ2世が外交策に大きな成功をもたらした瞬間である。オスマン帝国(1299-1922)との戦争があり(1768戦争。露土戦争の1つ)、この戦争でロシアはオスマン帝国に大勝してキュチュク=カイナルジャ条約(1774.7。南東ブルガリア方面)を締結してアゾフなどを含む黒海北岸の割譲を決めた。これを機に一気に帝国軍が優勢に転じ、プガチョフの乱は鎮められたといっても良い。しかし、エカチェリーナ2世の啓蒙専政主義的改革は、プガチョフの乱をきっかけに終焉を迎え、その後反動体制へと変貌する。農奴に対する恐怖心から、ピョートル1世時代と同様、農奴制をさらに厳格化して農民反乱を抑制、改革主義者には厳しく弾圧していった。

 時が経ち、1836年のニコライ1世(位1824-55)の治世、ロシアの近代作家、アレクサンドル=プーシキン(1799-1837)がオレンブルグを舞台に、プガチョフの乱を題材にした『大尉の娘』を発表し、後世にプガチョフの名を残した。プガチョフが掲げた理想"土地と自由"は、次のアレクサンドル2世(位1855-81)の農奴解放令(1861)になって形象化された。 


 プガチョフの乱の拠点であるオラルは、現在のカザフスタンの重要都市で、現在西カザフスタン州の州都です。オラルの中央広場は"プガチョフ広場"といわれ、18世紀の農民反乱の名跡を残しています。今回はロシア宮廷もチラ見せしながら、プガチョフの乱をご紹介しました。「Vol.134 見果てぬ夢」のステンカ=ラージンの反乱に続く、ロシアの農民反乱シリーズ第2弾です。

 学習ポイントは、エカチェリーナ2世時代であること、プガチョフの乱をきっかけにエカチェリーナ2世が反動的姿勢になることが非常に大事ですが、実はこの時代のロシア外交も激変してます。それは、ポーランド分割と東方問題における黒海北岸獲得(キュチュク=カイナルジャ条約)の2つです。それぞれの項で学習する必要があると思いますので、チェックしておきましょう。マイナー事項ですが、啓蒙思想が好きなエカチェリーナ2世はヴォルテールだけでなく、百科全書派の人たちとも親交があります。フランス啓蒙思想の内容がぎっしり詰まった『百科全書』の執筆に携わった人たちで、ドゥニ=ディドロ(1713-84)やジャン=ル=ロン=ダランベール(1717-83)ら百科全書派が有名ですが、特にディドロは個人的にエカチェリーナ2世と交流があったとされています。
 ちなみに夫で前皇帝のピョートル3世は受験で答えさせるような問題はでません。有名なのは1世の方です。注意!

 またプーシキンはロシアのロマン派詩人です。本編に登場した『大尉の娘』以外の名作に『オネーギン』というのもありますが、プーシキンを含めいちおう受験用語ではマイナー寄りです。難関校受験では知っておくと無難ですね。

 余談ですが、エカチェリーナ2世の帝位簒奪を含んだ内容はかつて映画化されたことがあります(たしかキャサリン・ゼタ・ジョーンズがエカチェリーナ2世を演じていたような.....エカチェリーナの英語名はキャサリンですが.....)。

 次回の更新は10月中旬です。それまでしばしお待ちを。