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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第167話


決裂!

 1934年、国際連盟加入を果たしたソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連。1922-91)。ソ連及びコミンテルン(共産主義インターナショナル)の国際共産主義化に対抗すべく、日本(大日本帝国。1889-1947)はドイツと秘密条項(ソ連を仮想敵国とする条項)を規定した日独防共協定を調印した(1936.11.25)。やがて1年経った1937年11月、反ソ・反共の立場にあったイタリアも参加し、日独伊防共協定日独伊三国防共協定)が結ばれた。ファシズム体制によって国際的に孤立していた三国はやがて"枢軸国(the Axis)"として新たな陣営を築いていった。この頃の日本は日中戦争(1937-45。支那事変)の長期化にともない、軍資が円ブロック(日本領土・満州・中国占領地域の経済圏)内では足りず、欧米諸国からの輸入に頼らざるを得なかった状態であったため、ヨーロッパの戦争には不介入の方針をとっていた。

 日本は第一次近衛文麿政権(このえふみまろ。首相任1937.6-1939.1)のとき、日本・満州・中華民国の結束と相互扶助防衛のために新しい秩序を建設するという構想、いわゆる"東亜新秩序"を声明を出していた(「第二次近衛声明」)。この"東亜新秩序"は、これまで協調姿勢を貫いてきた対英米との通商よりも重要視された。特にアメリカは中国権益に野心があったため対日経済制裁構想がのぼり、次第にアメリカの対日貿易は減少し始めた。日本は"東亜新秩序"構想の形成に乗り出した時、アメリカは日米通商航海条約廃棄の通告を行い(1939)、翌年失効した(1940.1)。これを機にアメリカは軍資禁輸の態度を前面に押し出し、対日経済制裁をすすめた。地下資源に乏しい日本は軍資の入手困難に陥った。

 一方ヨーロッパでは第二次世界大戦が行われ(1939.9.3-1945.8.15)、日本と同盟を結ぶドイツは1940年4月デンマークノルウェー5月オランダベルギーを軍事占領し(うち、オランダ以外は中立国不法占領)、6月14日には電撃戦でフランス侵攻を決行、首都パリを占領した(ドイツのパリ占領1940.6.14)。ドイツは、降伏したフランス首相フィリップ=ペタン(任1940.6-1942.4)の政権をヴィシーで樹立させた(ヴィシー政府。1940.7-1944.7)。ヨーロッパ情勢が日本有利となったことで、日本は特に欧米の植民地である東アジア・東南アジアを解放して、これらと盟主となる日本との共存を掲げ、新たな国際秩序の下で発展しようという構想が高まった。こうした日本を頂点とするアジア政策の構想は、アメリカの対日経済制裁の中で、アジア諸地域の資源獲得も大きな目的としていた。日本は、西欧のドイツ優勢をきっかけとして、対英米戦勃発を前提にアジアで身を固める覚悟であった。
 これは"東亜新秩序"を発展させた"大東亜共栄圏"と呼ばれるもので、"八紘一宇(はっこういちう。『日本書紀』が題材。八方位全世界、つまり八紘の中心に一つの家となる日本、つまり一宇がある)"をスローガンに戦争遂行の正当化を主張した。

 第二次近衛文麿政権(任1940.7-1941.7)になると、ドイツのナチ党やイタリアのファシスト党にならい、一国一党体制の樹立に動いた(新体制運動)。これは国内の全ての政党・全ての労働組合の解散を行い、全体主義に基づく新たな国民組織の結成を計画したもので、後に同1940年10月に政体は大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に、11月は労働団体は大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)となっていった。国民精神総動員運動から続くこの新体制運動によって、日本全国民は戦争協力の精神に導かれ、文字通りの総力戦体制が敷かれていった。
 対英米戦を想定して、アジア政策ならびにドイツ・イタリアとの関係を強化させたい日本は、経済資源獲得に向けて、まず、フランス領インドシナ仏印)やオランダ領インドネシア蘭印)への進出を計画した(南進政策)。これは、日中戦争の敵国である中華民国に米英が軍事物資援助の輸送路、いわゆる援蒋ルート(えんしょう。仏印ルート、ビルマルート、香港ルートなどを総称していう。蔣介石政権への援助。しょうかいせき。1887-1975)の遮断を目的としたものであった。フランスとオランダがドイツに占領されたことを好機と判断した日本は、1940年9月、遂に北部仏印進駐に踏み切った(これは、フランスのヴィシー政府に日仏協定として了承させた)。そして同時にドイツ・イタリアと相互援助を約束し、日独伊三国同盟1940.9.27。日独伊三国軍事同盟。ベルリンで調印)を結成した。この三国同盟結成はソ連に対しては防共が除外規定となり、仮想敵国をアメリカとした軍事同盟であった。ドイツと戦うイギリスオランダに対しても敵対姿勢が明白となった瞬間であった。これにより日米対立は決定的となり、同盟結成の制裁処置として、航空用ガソリンくず鉄・鉄鋼の対日輸出を全面禁止した(これらは日米通商航海条約の失効後も輸出を許していた)。またオランダは、日本との蘭印石油資源に関する協定を破棄する方向へ出た(日蘭会商。破棄決定は1941年6月)。

 第二次近衛内閣は、南進だけでなく、北方での平和確保もかためておく必要があった。それはソ連に対してである。かねてから日独伊三国軍事同盟よりも日ソ間の関係強化の必要も話し合われていたが、三国同盟成立の立役者であり、第二次近衛内閣の外務大臣である松岡洋右(まつおかようすけ。1880-1946。大臣任1940.7-41.7)は、むしろ"四国協商"という外交構想であり、日独伊ソの四国であれば米英に対抗できると考えていた。1941年3月、松岡外相はアドルフ=ヒトラー(1889-1945)とベニート=ムッソリーニ(1883-1945)との首脳会談を終えて、帰る途中、モスクワへ訪れた。そして、ソ連のヴァチェスラフ=モロトフ外相(任1939-49,53-56)に会談を申し入れ、日ソ間の中立条約の締結について話し合った。
 大戦勃発前、反ソ反共のナチス=ドイツに対して宥和政策で機会を待とうとするイギリスやフランスの動きに、多大なる不信感を抱くソ連(最高指導者ヨシフ=スターリン。任1927-53)がドイツと独ソ不可侵条約(1939.8.23)を結び、列強を驚倒させた。やがてドイツはポーランド侵攻1939.9.1)を行い、ソ連も同国へ侵攻、ポーランドは独ソに分割占領された。結果英仏のドイツ宣戦で第二次世界大戦が始まったのだが、独ソ間に挟まれた緩衝地帯のポーランドへ侵攻・分割占領を行ったことは、本来敵同士の独ソが国境を接することになり、両国間の戦争は時間の問題であった。モロトフ外相は対独戦にむけた日ソ連携、また松岡外相は対米戦にむけた日ソ連携、及び南進政策遂行のための北方確保(北守南進)を目的に、1941年4月13日日ソ中立条約が電撃的に調印された。

 条約締結から5日後の18日、日本に"日米諒解案(にちべいりょうかいあん)"が駐米大使野村吉三郎(のむら きちさぶろう。1877-1964)とアメリカ国務長官コーデル=ハル(1871-1955。任1933-44)との間で提案された。これは、日本軍の中国撤兵、アメリカ側の満州国承認、蔣介石の重慶国民政府(1938-46)と日本の南京国民政府(1940.3-45。新国民政府。国民党左派の汪兆銘を行政院長とする日本の傀儡政権。おうちょうめい。1883-1944)の合流、日本の南方資源獲得に対するアメリカの協力、三国同盟の形骸化などが盛り込まれていた。日米交渉の幕開けであった(1941.4-41.11)。

 日ソ中立条約を成立させ、プランであった四国協商構想を主張していた松岡外相は帰国した途端にこの諒解案を知らされ仰天する。松岡外相が苦心して創り上げた日独伊三国軍事同盟をなくすことは、これまで松岡外交を否定する形であり、彼の抱いていた四国協商プランが瓦解するからであった。彼はこの"日米諒解案"に強く反対した。しかし反対するまでもなく、6月には独ソ戦が勃発(1941.6.22-45.5.8)、彼の構想は完全に崩壊してしまった。対米強硬論を大前提に物事をすすめる松岡外相であったが、近衛首相は"日米諒解案"に基づく日米交渉を大前提としていたため、両者は対立した。

 独ソが戦闘状態に入り、日本の対応が迫られたが、この際軍部は好機と判断して対ソ戦準備、さらには資源獲得への南方進出、いわゆる南部仏印進駐を主張した。独ソ戦が勃発してしまった以上、ソ連よりも同盟国ドイツの方が大事だと気持ちを切り替えた松岡外相は、大本営政府連絡会議(1941.7.2。天皇臨席の御前会議)において、同盟国によるソ連挟撃を主張、自身が成立させた日ソ中立条約を破棄させる方向に出た。御前会議において、国策決定が出され(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)、"南北併進"が決まった。対ソ戦を想定していた日本陸軍は7月7日、"演習名目"で満州に70万の兵力を大動員し、独ソ戦の戦況次第ではソ連侵攻ができるよう準備した(関東軍特種演習関特演)。しかし日米交渉の継続に努める近衛首相は、"南北併進"を決定したことで、やがて来るアメリカの経済制裁に向けた措置として、対米強硬論の松岡外相を更迭してアメリカを宥めようとし、一旦総辞職して松岡を更迭、新たに第三次近衛内閣を組織した(任1941.7.18-10.18)。そして、同月28日、南方では南部仏印進駐1941.7.28)が行われた(南進決定の結果、対ソ戦計画は中止となる)。

 予想通り、欧米の経済制裁通告が押し寄せてきた。南進する日本に対して、アメリカ、イギリス、オランダ、そして中国の、特に日本を敵対国とする4国は、在外日本人資産の凍結石油対日輸出禁止日英通商航海条約廃棄決定(廃棄通告は進駐実施前の26日)の諸措置を行った。このように対日経済封鎖を実施する4国、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(Chinese)・オランダ(Dutch)の大規模な包囲網が形成されたのである(ABCD包囲陣ABCDライン)。また8月には、アメリカ大統領フランクリン=ルーズヴェルト(第32代。民主党。任1933-45)とイギリス首相ウィンストン=チャーチル(挙国一致内閣。任1940-45,第二次は保守党内閣。任51-55)による大西洋上の艦船で首脳会談が行われ(大西洋上会談1941.8)、領土の不拡大・領土の不変更・軍備の縮小・民族の自決・貿易の自由・労働と社会保障・海洋の自由・平和機構の再建の全8ヶ条を公表した(アトランティック・チャーター。大西洋憲章)。英米は今目の前で行われている戦いは、ファシズムを敵とする民主主義防衛の戦いであることを明確に打ち立てた。

 日本海軍は、2年ともたない国内の備蓄された石油資源を憂慮し、南の地下資源確保と防衛に燃え、対英米即時開戦を主張し始めた。そして1941年9月6日の御前会議で、第三次近衛内閣は、自存自衛のためなら"対戦を辞せざる決意"のもとで、戦争の準備を10月下旬を目途に完了すると同時に日米交渉も継続することとした上で、日本は外交手段を尽くして米・英・蘭に対する要求貫徹に努め、10月上旬になってもなお日本の要求を貫徹する見込みのない時は直ちに開戦を決意するという「帝国国策遂行要領」を決定した。
 その要求とは、

  1. 米英は日中戦争問題に干渉・妨害しない(ビルマルート閉鎖など)
  2. 米英は極東において日本の国防を脅かすような行動に出ない(米英はタイ・蘭印・中国など占領地域に軍事的権益を設定しない。または同地に現状以上の増兵をさせないなど)。
  3. 米英は日本の必要物資の獲得に協力する(通商関係を回復し、必要物資を日本に供給する、日本のタイ・蘭印との経済提携に協力するなど)

というものであった。また、英米蘭に対し日本の約束できる限度として、上記要求を承諾できる場合においては、第一に、日本は仏印において、基地として隣接する地域(中国以外)に武力進出はしない、第二に、極東が平和を確立したら、日本はフランス領インドシナより撤兵する、そして第三に、日本はフィリピンの中立を保証するといった内容を取り決めた。

 近衛首相は駐日大使ジョセフ=グルー(1880-1965。任1932.6-1941.12)を通じて日米交渉に関する首脳会議開催をアメリカに持ちかけたが、10月2日、アメリカ側から会談拒否の通告をつきつけられた。アメリカは日本の要求に対し、日本軍の中国・仏印からの撤退、三国同盟解体を強く主張していたため、日本の要求に妥協する気はなかった。陸軍大臣東条英機(とうじょう ひでき。1884-1948。大臣任1940.7-1944.7)はこれを日米交渉打ち切りと判断して、開戦を主張した。しかし近衛首相は最後まで交渉妥結を望んだ。

 閣内不統一のまま閣議を行った結果、近衛文麿は首相を退任、内閣総辞職となった(1941.10.18)。同日、天皇からの優諚(ゆうじょう。思し召しの厚い天皇の仰せ)による、「帝国国策遂行要領」を白紙に戻すことを条件に、東条英機内閣が誕生した(首相任1941.10.18-1944.7.22)。東条は近衛内閣から続く陸軍大臣も兼任、さらに内務大臣にも着任した(任1941.10.18-1942.2。日米交渉を継続することによって開戦派の多い軍部を統率する上で東条が首相適任であったとする説がある)。条件通り、東条内閣は日米交渉を続行することになった。

 東条内閣は11月5日の御前会議の結果、"対戦を辞せざる決意"のもとで、戦争準備を12月初旬を目途に完了すると同時に日米交渉も日本側妥協案(甲案と乙案)に基づいて継続することとした上、ドイツ・イタリアと提携強化、武力発動前にタイとの軍事関係を樹立させ、日米交渉が12月1日午前0時までに成立すれば武力発動を中止するという、新たな「帝国国策遂行要領」を決定した。その、日米交渉を続ける上での日本側妥協案(甲案と乙案)だが、まず甲案とは、

  1. 通商は全世界無差別が原則ならば、日本は太平洋地域すなわち中国との通商も原則に則って承認する。
  2. 自衛権の解釈を拡大する意図がなく、三国同盟の解釈と履行については、日本での決定に基づいて行動する。
  3. 中国政府との和平が成立した際、2年以内に占領地から撤兵するが、華北及び海南島からは25年後に撤兵する。
  4. 中国政府との和平が成立した際、仏印から撤兵する。

 甲案で妥結できなかった場合、暫定措置として乙案が提示された。その内容とは、

  1. 日本とアメリカは、仏印以外の南アジア地域および南太平洋地域で戦闘を行わないこと。
  2. 日本とアメリカは、蘭印において必要物資の獲得が保障される様、相互協力すること。
  3. アメリカと日本は、相互に通商関係を資産凍結前の状態に戻すべきであり、アメリカは日本に対し必要分の石油を供給すること。
  4. アメリカは日中和平の努力に関して支障をきたす行動に出てはならない。

 というものであった。7日、駐米大使・野村吉三郎ハル国務長官と会談、甲案を手渡した。しかし交渉は行き詰まり、甲案は撤回された。20日、日本は野村大使だけでなく熟練外交官の来栖三郎(くるす さぶろう。1886-1954)も派遣し、ハルと会談、今度は暫定協定案である乙案を提示した。暫定協定案といっても、日本にとっては、これが正真正銘、最後の協定案である。アメリカ側は協議の結果、日本側と同様に本協定案と暫定協定案の2つの協定案を用意し、まず暫定協定案をABCD4国に打診した。それは、

  1. 日本は南部仏印撤兵と、北部仏印の兵力25,000人以下を認めよ。
  2. 日本とアメリカの通商関係において、南部仏印進駐以前(正確には7月25日)の状態に戻すこと。
  3. この協定は3ヶ月間有効とする。

 というものであった。しかし蔣介石率いる中国政府より撤回を強く主張してきたため、この暫定協定案は放棄された(蔣介石の説得に応じたイギリス・チャーチル首相も反対に転じた)。この結果、11月26日、日本の乙案に対するアメリカの回答が示された。これである。

  1. アメリカ、イギリス、中国、オランダ、日本、ソ連、タイとの間で多辺的な不可侵条約を結ぶこと。
  2. アメリカ、イギリス、中国、日本、オランダ、タイとの間に仏印の領土主権尊重に関する協定を締結すること。
  3. 日本は、中国及び仏印から陸海空全ての兵力及び警察力を撤退させること。→日本の中国・仏印からの撤兵
  4. 日本とアメリカは、中華民国政府(重慶国民政府)以外のいかなる政権をも支援しないこと。→汪兆銘政権の否認
  5. 日本の中国租界(租借地)と関連権益を含む治外法権の放棄について、諸国の同意を得るために努力せよ。→日本の中国における治外法権放棄義和団事件時に締結した北京議定書内で規定された治外法権も含む)。
  6. 日本とアメリカは、新通商条約締結の交渉に入ること。
  7. 日本とアメリカは、資産凍結を解除すること。
  8. 円ドルの為替レート安定に関して協議すること。
  9. 日本とアメリカは、第三国と結んだいかなる協定も、太平洋全地域の平和維持に関する本協定に矛盾するような解釈であってはいけない。→日独伊三国同盟の廃棄
  10. 日本とアメリカは、本協定によって定められた政治的・経済的基本原則を他国に推奨し、施行させるよう促すこと。

 この本協定案がハル=ノートであり、日本の乙案に対する、日本の期待とはあまりにもかけ離れた、アメリカの強硬な回答であった。アメリカ側にしてみれば、日本がアメリカに日米交渉を続けようとして、心血注いで出し続けた諸提案は、日米交渉による平和的解決と言いながらも自国の有する諸権益を守るための"悪あがき"にしか映らなかった。これぞまさしく、日本に突きつけた"最後通牒"だった。1941年11月26日、日本がこのハル=ノートを手交された瞬間は、日本はアメリカとの日米交渉が決裂した瞬間であると同時に、日米開戦が不可避となった瞬間でもあった。

 東条内閣は12月1日の御前会議で、日米交渉の不成立を判断し、8日の開戦を決定した。
日本時間の12月8日未明、日本陸軍がイギリス領マレー半島北部コタバルに奇襲上陸し(1941.12.8マレー半島上陸。マレー作戦。E作戦)、イギリスとの戦争が始まった。そして、同じく日本時間の日本時間の12月8日未明、日本海軍がアメリカ領ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し(1941.12.8真珠湾攻撃)、アメリカとの対戦も開始された。太平洋戦争の勃発である(1941.12.8-1945.8.15)。

 日本はこの対米英戦を、並行する日中戦争と合わせて"大東亜戦争"と呼び、各域に出撃していった。 


 連載167話目にして、初めて太平洋戦争関連をご紹介することができました。と言っても内容は開戦前の話ですが。実は太平洋戦争関連になると、受験世界史と言うよりも、受験日本史寄りになると思うのでこれまでためらってきましたが、今回は思い切って日本史もメインになり得る形で紹介致しました(ある意味開き直りですが...)。今回は開戦直前までの日米関係についてご紹介しましたが、今後の展開次第で、マレー作戦並びに真珠湾攻撃以後の戦況についても触れることができればと思っています。

 アメリカは日本が南部仏印進駐を実行に移した時点で、日本の帝国主義を抑え込む目的で、武力行使する決意を持っていたよな気がします。実際は経済制裁でしたが、アメリカは日露戦争(1904-05)以前の日本に戻ることを望んでいたのではないでしょうか。事実アメリカも日本やヨーロッパにやや遅れて中国進出を果たして以降、アメリカ式の帝国主義をスタートさせました。その後アメリカは日露戦争後の日本に対する嫌悪感を示したり(日露間のポーツマス講和条約の仲介は門戸開放を主張するアメリカが行いましたが、日本は依然として満州・朝鮮死守に固執し、門戸開放に反対しました)、カリフォルニアで日本人排斥問題が起こったり、第一次世界大戦(1914-18)の同じ戦勝国でありながらも、パリ講和会議で日本が人種問題(人種差別撤廃案)について主張したことをアメリカに退けられたり、排日移民法が施行されたりなど、以前から日米関係は変に張り詰めた空気が漂っていました。やがて、ワシントン会議1921.11.12-1922.2.6)では相当叩かれて、やがて満州事変(1931-32)・国際連盟脱退(1933)へとつながっていきます。米英からすれば日本が悪く映る一方です。
 日本の帝国主義要素がある事件の最初は日露戦争だと思いますが、自信たっぷりに強硬な帝国主義を見せたのは1915年の(対華)二十一ヶ条の要求からだと思います。ですので、今回の日米交渉によって、アメリカは日本帝国主義の姿がはっきり見えたような気がしたのではないでしょうか。東条内閣の「帝国国策遂行要領」の甲案3番目においても、25年後の撤兵なんて、ほとんど永久に駐留するのと同じように聞こえますし、華北経営を日本における完全な特殊権益として、欧米から死守しようとした精神が窺えます。自国の海外権益を守ることが大前提で、これが当時の帝国主義時代の大きな特徴です。日米交渉が行われた期間では、日本が行うことすべてがアメリカ・イギリスにとって気にくわないことばかりだったと思います。三国同盟、日ソ中立条約、仏印進駐、陸軍出身の東条内閣組閣など、時を追う毎にアメリカは日本への嫌悪を増していったのではないですかね。そればかりか、野村大使だけでは心細いからと言って、日独伊三国同盟に調印したベテラン外交官の来栖氏を日米交渉に連れて行ったことも、アメリカにしてみれば交渉打ち切りの決め手の一つだったかもしれません。

 いろいろ勝手な意見を言ってすみません。では、今回の学習ポイントを見てまいりましょう。まずは受験世界史分野から。
日独伊三国同盟は1940年9月、ベルリンで調印です。難関私大ではベルリンを答えさせる問題が日本史でも出されたことがあります。またベルリンではその前の防共協定の調印も行われました。あと、日ソ中立条約の1941年4月も重要、ここから日米交渉が始まります。他、ABCDラインのそれぞれの国家名、大西洋憲章を大西洋上会談のルーズヴェルトとチャーチルの名前、太平洋戦争の勃発年(1941)は知っておきましょう。

 そして日本史分野です。日本が中国・仏印政策をすすめる一方で、アメリカがこれを防ごうとする状況は重要です。たとえば、1939年の日米通商航海条約破棄通告、翌年失効は私大受験にも出されます(過去に年代を問う問題も出されました)。

 続いて第2次近衛内閣ですが、新体制運動はよく出ます。大政翼賛会・大日本産業報国会も知っておきましょう。この内閣は日独伊三国同盟と日ソ中立条約を成立させましたが、このときの外相松岡洋右の名前も知っておきましょう。松岡は対米強硬論者、近衛は日米交渉継続論者です。他、東亜新秩序のスローガンは「八紘一宇」、仏印進駐は北部が南部より先に行われたこと、蔣介石政権の重慶国民政府は米英の援蒋ルートがあったこと、三国同盟結成後に航空用ガソリン対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止があり、南部仏印進駐後に在外日本人の資産凍結と石油対日輸出禁止があったこと、独ソ戦が開始され、関東軍特種演習が行われたこと("特種"を"特殊"と書かないこと)、1941年7月の御前会議で決まったのが「帝国国策要綱」で、9月の御前会議で決まったのが「帝国国策遂行要領」であること、そして日英通商航海条約廃棄通告があったことなど、このあたりは流れも含めて知っておいた方が良いと思います。
 そしてメインの日米交渉ですが、人名はしっかり覚えておきましょう。近衛、松岡、東条はもちろんですが、野村吉三郎、来栖三郎、ハルの3名は要注意人物です。本編に登場しなかった人物としては、東条内閣時の外務大臣東郷茂徳(とうごう しげのり。1882-1950)、第3次近衛内閣瓦解で次期首相を決める際、天皇の白紙還元の優諚を伝えた内大臣(天皇補佐機関)・木戸幸一(きど こういち。1889-1977。木戸孝允の孫。たかよし。1833-77)あたりも知っておくと良いでしょう。最後に11月末に出されたハル=ノートですが、中国・仏印の撤兵、汪兆銘政権否認、三国同盟廃棄があるといった内容で覚えておいて下さい。

 先にも述べましたように、ホントは戦争勃発後のポイントも記述したかったのですが、スペースの関係上、今回は割愛させていただくといたします。時機を見てまたご紹介いたします。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。蔣介石(しょうかいせき。"蒋"のへんが爿)。