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世界史の目

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ギャラリー

第227話


中世都市

 第4回十字軍(1202-04)がローマ教皇インノケンティウス3世(位1198-1216)の提唱で13世紀初頭におこされ、その活動に介入した北イタリア諸都市。なかでもヴェネツィア共和国(697-1797)の首都ヴェネツィアは、十字軍を最大限に利用して、商敵である東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)の首都コンスタンティノープル現イスタンブール)を攻め落とさせ、その後東地中海から黒海にかけての東方貿易レヴァント貿易)の成功で商業的覇者となった。レヴァント地方は地中海東岸をさし、そこではアジア方面から運ばれてきた胡椒などの香辛料、絹、象牙といった高価な商品が集まっていた。
 ヴェネツィアのような都市は、イタリアではコムーネComune。イタリア語で"共同体"の意)と呼ばれる。現在のイタリアの行政区画では、まず州があり、その下に県がある。県の下に構成されているのがコムーネである。このコムーネに至るまで、西ヨーロッパの都市型機能をもつ定住地は、さまざまな変化を背景に発展していった。

 10世紀以後に安定していった封建社会体制の西ヨーロッパでは、荘園制度における生産物地代の貢納制度が充実していたことにより農業成長がみられ、生産量増加は人口増加をうんだ。さらに生産量増加によって発生した余剰生産を、一定の場所に集って交換しあうも開かれた。当初、市は不定期に催されたが、次第に定期市となって回数も増加、常設化していき、商品の等価交換における現物経済は好況と化した。市の開催場は、国王や諸侯の城館付近や、教会・修道院の門前、そして交易路の要衝などに置かれた。

 商業の活発化により現物経済から貨幣経済へ進展すると、城塞や教会の領主が支配する中心地として、多くの商業地が形成されていった。商業の活発化によって、形成された商業地は荘園内にいる手工業者を吸収し、やがて都市に発展していった。こうした北イタリアやヨーロッパ北西部を中心に、11世紀から12世紀にかけて発展していった都市は中世都市と呼ばれた。この時期における中世都市の発展と商業の活発化を、ベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌ(1862-1935)は、著書『中世ヨーロッパ経済史』において、「商業ルネサンス商業の復活)」と記している。

 中世都市は、市の開催を通じて発展していったのは共通の特徴として挙げられるが、構造的には3つの特徴がある。まず城砦都市であることである(城はドイツ語で"ブルク")。城砦を中心に住宅地や店舗が建ち並び、城壁で囲まれた。2つ目として、都市内に教会や修道院があることも大きな特徴であり、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)末期から活躍する北イタリアのミラノ(ミラノ大司教座)、ドイツのケルン(ケルン大司教座)やマインツ(マインツ大司教座)のような、司教・大司教の管轄する司教座都市もこの時期に商業的発展を遂げた。そして3つ目の構造的特徴として、港湾部や河川など、支配領主層らによって交通の要地に人為的に建設された中世都市である。建設都市と呼ばれ、ザクセン公およびバイエルン公のハインリヒ獅子公(ハインリヒ3世。ザクセン公位1142-80。バイエルン公位1156-80)が建設した北ドイツのリューベックや、バイエルンのミュンヘンなどがそれである。

 都市間の商業取引は、十字軍活動の影響で交通が発達し、遠方との交易路も数多く開かれ、遠隔地商業が可能となった。前述のヴェネツィアをはじめとして、ジェノヴァピサマルセイユといった、地中海で活動していたイタリアやフランスの海港都市はレヴァント地方との東方貿易を精力的に行い、胡椒などの香辛料や絹織物などをと交換して栄えた。すると近隣のフィレンツェミラノといった内陸都市も金融業や毛織物業で繁栄していった。こうして、イタリア諸都市を中心とする地中海商業圏は、東方貿易を基盤に莫大な利益を上げていった。
 地中海商業圏だけでなく、北欧方面においても遠隔地商業が活発化した。北欧では、北海・バルト海貿易を基盤とした北ヨーロッパ商業圏があり、海産物・木材・塩・穀物・毛織物・毛皮といった生活品が取引された。海産物や木材などは、北ドイツ都市リューベックハンブルクブレーメンで盛んに取引され、大いに繁盛した。またフランドル地方のアントウェルペンアントワープ)、ガンブリュージュ、そして北海側のロンドン(イングランド)といった諸都市は毛織物業で繁栄した。さらには、バルト海と黒海を結ぶ貿易においてもノヴゴロドキエフといった都市が活躍した。

 方貿易を基盤とする地中海商業圏と、北海・バルト海貿易を基盤とする北ヨーロッパ商業圏が、ヨーロッパの貿易業の中心となったことで、これら南北の商業圏を結ぶ内陸の交易路ができると、この地域の都市も急速に発展を遂げていった。この内陸商業圏の中心となったのが、シャンパーニュ地方(フランス北東部。パリ東南)で、定期的な大市が開催された。この大市では、「織物の市」→「皮の市」→「秤(はかり)の市(秤で量った香辛料や塩、砂糖、油、金属、染料、雑貨)」の順に取引され、年6回(1回につき40~50日)開催された。
 他にも、ライン川沿いのケルンマインツフランクフルト、ヴォルムスや、現在はバイエルン州の三大都市であるミュンヘン、ニュルンベルクアウグスブルクといったドイツ諸都市、セーヌ川沿いのパリルーアン、ローヌ河谷のリヨン、ガロンヌ下流のボルドーなどのフランス諸都市が繁栄した。

 11世紀から12世紀にかけて、商業の発展に伴い経済力が増した、これら諸都市であったが、元来は国王や領主などの封建的支配者の庇護のもとで活動を行っていた。封建領主は、支配する都市が商業を発展させ経済に潤えば税収も見込めるわけで、商業が拡大するにつれて税率を上げていき、とりたてていた。ところが経済力が向上した諸都市は、商業活動の自由(居住・市場・流通・交易・貨幣の鋳造といった諸権利)を領主から求めて、自治権の要求を主張するようになり、領主と都市間でライン・セーヌ両河域などを中心に大規模な闘争(コミューン運動)が展開された。国王や領主は商業活動の自由権を放棄し、諸都市に委譲するための文書(特許状。特権状。チャーター)を発行した。特許状を賦与された諸都市は自治権を獲得し、封建的支配から脱却していった。
 さらには現スイス一帯やドイツ南西部のシュヴァーベンを支配していた諸侯であるツェーリング家のベルトルド2世(位1078-1111)はフライブルク(ドイツ南西部)や、現スイス連邦の首都であるベルンといった建設都市をつくり、最初から自治を認めて、商人による都市づくりを目指した。こうして都市は自治都市となっていった。13世紀になると自治都市の市民は経済活動だけでなく、それぞれに独特の法律・条例、独特の司法など、商業的権利以外の封建的諸権利も獲得していった。こうして諸侯、聖職者、農民に加え、あらたに"市民"という階級/身分が成立した。

 この自治権力は都市によって差があった。たとえばイタリアは、時のイタリア王およびローマ皇帝ロドヴィコ2世(帝位855-875。イタリア王位855-875)が没してカロリング家が断絶後、政情不安定の状態が続き、9世紀以後はマジャール人をはじめ、シチリア島などに潜伏するイスラム勢力の侵入が著しく、統一者の欠如により商人や地主といった市民は司教を拠り所にして我が都市を守る精神が芽生えた。こうして司教、すなわち教会勢力が中心となって市民が団結し、12世紀には市民が市政を担う、都市共和国の機能が備わった。この都市共和国をコムーネとよぶ。冒頭のヴェネツィアや、ジェノヴァ、フィレンツェ、ピサ、ミラノといった有力コムーネをはじめ、200を超すコムーネが北イタリア・中部イタリアに存在したとされる。
 ただ、イタリアは963年から神聖ローマ帝国(962-1806)の一部に組み込まれて以降、時の皇帝オットー1世(帝位962-973)の外交策、つまりイタリア政策がおこされた。オットー1世の帝国教会政策の一環で行われ、ローマ教皇や教皇領の保護を理由にイタリア遠征を行い、イタリアの都市を統一させて神聖ローマ皇帝の権力を轟かせようとし、北・中部イタリア都市としばしば衝突した。この帝国教会政策というのは、オットー1世の帝国統一策で、彼が皇帝として即位した当時の神聖ローマ帝国は、内部の諸侯・大諸侯(部族大公勢力。ザクセン、バイエルンなど)の勢力増大で分裂状態がすすんでおり、この勢力を超えた存在である高位聖職者に王領地を寄進して行政権を委ね、教会や修道院領を王領として支配することで帝国を安定させようとした政策であり、皇帝は聖職任免権を掌握して帝権拡大をはかった。
 しかし11世紀に神聖ローマ皇帝とローマ教皇が聖職叙任権闘争で対立するようになると市民は地方領主である諸侯に反発して暴動をおこし、やがて自治権を獲得していき、自治都市が成立していった。12世紀以降では、ドイツ皇帝とローマ教皇との対立から、イタリア諸都市では諸侯・領主らの支持による皇帝支持派である皇帝党ギベリン)と、都市の大商人の支持による教皇支持派である教皇党ゲルフ)に分かれて党争を展開した。

 一方ドイツの都市は、14世紀になって、諸侯(領主)から独立して神聖ローマ皇帝・ドイツ国王に直属する都市、いわゆる帝国都市となっていった。これら都市は諸侯と同地位を認められ、皇帝に忠誠を誓って貢納と軍役の義務を負ったのである。ただ帝国都市の中で、もと司教座都市で、司教や大司教から独立して皇帝直属の地位を得た、ケルンマインツなどといった都市は自由都市と呼ばれて、貢納・軍役の義務はなかった。しかし帝国都市の増大化と皇帝権・王権の弱体化がおこると、帝国都市の義務である貢納や軍役はなくなり、自由都市と同じ機能となったことで、帝国自由都市自由帝国都市)と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国を構成する領邦と同格となって国政に参入することも可能となった。

 こうして、都市は諸侯と同地位を得て自立を果たしていったが、都市における領域内の規模は、人口や行政力の面で皇帝・国王や諸侯と比べて小さい場合も多く、これらの圧迫に対抗する必要から、諸都市は共同に軍事的な都市同盟を結んだ。その中の1つ、北イタリアの教皇党を支持する諸都市が集まったロンバルディア同盟(1167-1250。ミラノ、ボローニャなどが集結)は、イタリア政策を掲げる神聖ローマ帝国シュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン朝。1138-1208,1215-54)の皇帝、フリードリヒ1世赤髭王。あかひげおう。帝位1152-1190)やフリードリヒ2世(帝位1220-50)のイタリア侵攻に抗戦した(フリードリヒ1世には勝ったが、フリードリヒ2世には敗れた)。
 ドイツではリューベックを盟主にしたハンザ同盟(1143-1669)が強力であった。"ハンザ"とは"商人の仲間"を意味し、ハンブルクブレーメンケルン、ブランデンブルク、ハノーファー、といった強力なドイツ諸都市ばかりか、北欧のストックホルム、ロシアのノヴゴロド、ポーランドのグダニスク(ダンツィヒ)やクラクフまでも所属する大同盟であった。

 そのドイツでは、農村から都市に逃げ込んできた農奴が、1年と1日、都市に定住すれば農奴身分から解放され、自由な身として認められた。領主支配から逃れられない農奴とは対照的に、領主支配から解放され自由な身分となった農奴は、都市の空気に1年浸ったことで自由を獲得したと表現され、その後、"都市の空気は自由にする(Stadtluft macht frei)"というドイツの格言が生まれた。しかし実際は市民階級の中でも有産無産の区別があり、財産をもつ有産市民のみ市政参加が可能であった。また都市における手工業界においても親方職人徒弟(見習い)の厳格な身分制度(徒弟制度)があり、親方は市政参加が可能(後述)であるのに対して、有給の職人、住み込み無給の徒弟の市政参加は認められず、親方に忠誠を尽くして労働に従事した。

 さらに諸都市では商工業発展と市政拡大に伴い、有産市民による職業別の組合(ギルド)を結成し、特に都市発展に関わり、商品市場を独占した大商人が結成した商人ギルドは市政を独占するほどの絶対的権力を掌握した。商人ギルドは11世紀頃から各都市においてその成立がみられ、13世紀以降における自治都市の市政運営は商人ギルドの構成員によるものが大きかったとされている。しかしこの市政を牛耳る商人ギルドに反発した同一業種の手工業者の組合が同職ギルドで、"ツンフト"のドイツ語呼称がある。ツンフトは12世紀前半ごろからその成立がみられ、ツンフトを構成する親方層は市政参加を求めて商人ギルドに対抗したが、13世紀後半からこの抗争は闘争へと発展し(ツンフト闘争)、アウグスブルクなどのツンフト勢力の強いドイツ都市では親方層の市政参加が実現した。しかし多くの手工業者がこの闘争の責任を負わされ裁判で処刑されるなど犠牲者も多く発生した。
 14世紀後半になって、フィレンツェの毛織物工業界で大事件が起こった。織り元の仕事場で梳毛(そもう。繊維をくしけずり、短い繊維を取り除いて長い繊維を平行に引き揃えて紡ぐ毛織物の一工程)に従事する下層労働者は"チョンピ"と呼ばれて蔑まされ、市政にも参加できず、諸権利も持たない状況であった。フィレンツェの毛織物ギルド(フィレンツェでは毛織物や金融業らのツンフトがあり、アルテと呼ばれる)による高圧的な態度で奴隷同様に扱われていたチョンピは不満が爆発、1378年暴動と化した(チョンピの乱。1378)。チョンピの代表者であった梳毛工ミケーレ=ディ=ランド(1343?-?)がアルテや市政に反発する有産市民階級と手を組み、フィレンツェの市政に参入し、執政官に相当する"正義の旗手(ゴンファロニエーレ)"に就任、政権を勝ち取った。そこでミケーレはチョンピだけでなく染色工、仕立工の計3つのアルテの設立を公認した。
 チョンピの乱は1382年にミケーレの追放で鎮静化したが、事件の裏ではチョンピ派に味方してこれを利用し、当時市政運営の代表であったアルビッツィ家の転覆を狙うフィレンツェの新興商人・メディチ家の策謀も大きかった。その後メディチ家はドイツ・アウグスブルクの大財閥フッガー家と並び、15世紀の大金融家として富と名声を得ることになる。フッガー家は神聖ローマ皇帝と結びつくなど権力を発揮し、メディチ家ではローマ教皇を輩出するなど、コムーネのみにとどまらず国家の歴史にも強く刻み込まれる存在となっていった。

 こうした大富豪の登場により、市民の商業活動や貨幣経済の発展をいっきに加速させた。これまでの荘園制度に基づかれた自給自足経済にかわり、土地や現物ではない、貨幣で富を蓄えるという新しい経済が浸透していき、この富を蓄えた市民たちによって、ルネサンスに始まる新しいヨーロッパの時代を迎えることになる。


 第227話目にして、ようやく中世都市の紹介ができました。大学受験世界史にとって、このような抽象的な分野は文化史と同じで、時代の流れがピタッと止まったような状態で学習してしまいがちです。ましてや多くの都市を地図で見ながら覚えていくのは本当に至難の業です。時期的には十字軍ルネサンスの間で、十字軍の結果、遠隔地交易が盛んとなり、多くの都市が栄え、市民が富裕化し、メディチ家やフッガー家が誕生し、彼らが芸術家を支援して西欧文化が栄え、ルネサンスとなる、といった具合です。

 さて、今回の受験世界史における学習ポイントをみてまいりましょう。まず中世都市は商業・交易の発展なくしては語れません。本編に登場したレヴァント貿易、北海・バルト海貿易の存在は大きく、これによって多くの都市が栄えました。本編にもあるように、レヴァント貿易を基盤とした地中海商業圏(ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ・フィレンツェ・マルセイユ)、北海・バルト海貿易を基盤とした北ヨーロッパ商業圏(リューベック・ハンブルク・ブレーメン・ブリュージュ・アントワープ・ガン・ロンドン・ノヴゴロド)、この南北の商業圏を結ぶ内陸商業圏(シャンパーニュの大市、リヨン、パリ、ニュルンベルク、ケルン、マインツ)の3つに大別してまず覚えましょう。旧課程の用語集では、シエナ(トスカナ地方)、バルセロナ、ルーアン、ボルドー、フランクフルト、アーヘン、ミュンヘン、ウルム(ドナウ上流左岸)なども記載されておりました。
 さらに自治権獲得の流れも大事です。君主から特許状を取得した都市は自治都市となります。ドイツでは諸侯の支配から解かれた都市が神聖ローマ帝国に直属する帝国都市があり、しかもそこから軍役や貢納の義務が解けた都市は自由都市となります。整理しておきましょう。またドイツのことわざ"都市の空気は自由にする"、都市同盟(イタリアのロンバルディア同盟とドイツのハンザ同盟。ハンザ同盟の盟主はリューベックであることに注意)も知っておく必要があります。ハンザ同盟は穀物などの生活品貿易を取り締まる商業的性格の濃い都市同盟でしたが、ロンバルディア同盟はイタリア政策を掲げる神聖ローマ皇帝と張り合うなど商業同盟には留まらない政治的・軍事的な性格も合わせ持っています。

 最後にギルドも登場しました。商人ギルドと同職ギルドの名前は知っておきましょう。同職ギルドはツンフトの名で登場することもあります。また市政参加をめぐっておこされたツンフト闘争の名前も余裕があれば知っておきましょう。チョンピの乱は以前では難関私大に登場することはありましたが、最近はめったに見かけません。また手工業者の階級で徒弟制度がありましたが、市政に参加できたのは親方層で、職人、徒弟には参加資格は得られませんでした。チョンピの乱で市政参加の実現はあったものの一時的に終わっています。