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消えたローマ教皇・後編
~シスマの恐怖~
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カペー朝(987-1328)の国王、フィリップ4世(端麗王。位1285-1314)の容赦ない強硬手段によって、ローマ教皇の権威を失墜させていった結果、ローマから教皇の姿が消えた。1303年のアナーニ事件および1309年の教皇のバビロン捕囚(1309-1377)以降、教皇の権力、いやローマ=カトリック教会の威信は大きく揺らいだ。教皇クレメンス5世(位1305-14)は、フランス南東部のアヴィニョンに教皇庁が移され、"ローマ教皇"ならぬ、"アヴィニョン教皇"となった。
ただアヴィニョンに移る前に、クレメンス5世に一仕事があった。彼はフィリップ4世の命により、宗教騎士団(騎士修道会)の1つであるテンプル騎士団に目を向けることとなった。
テンプル騎士団は以前からフィリップ4世から睨まれた存在となっていた。カペー朝はもともと財政悪化が避けられず、対外戦争で発生する戦費捻出のたびに、テンプル騎士団からの援助があった。浄財や土地寄進などで豊富な財力をほこっていたテンプル騎士団は、当時は一種の金融機関と化しており、人脈(兵)・地脈(所領)・金脈(財力)すべてを自在に操る宗教騎士団であった。国王フィリップ4世は莫大な債務を帳消しにするため、債権側であるテンプル騎士団を解体し、資産没収を策謀した。そこでフィリップ4世は教皇クレメンス5世を使い、宗教裁判(異端審問。inquisition)を実行することにしたのである。
宗教裁判を開廷するには教皇庁の許可が必要であったが、教皇クレメンス5世は国王の息が掛かる人物である。裁判許可は容易におりたのだった。かくして、1307年10月、フランス全土に王命が下され、テンプル騎士団の総長、ジャック=デモレー(ジャック=ド=モレー。1244?-1314)を筆頭に全団員が逮捕された。
国王の推薦で集まった裁判官の下で、宗教裁判は行われた。すべて国王側があらかじめ用意した罪状を読み上げ、犯しもしない罪を自白するまで団員は拷問にかけられた。異端の証となる罪状には、偶像崇拝、背教的行為、ソドミー儀式(テンプル騎士団の入団時に行う秘密儀式。ソドミーとは同性で行う性行為のこと)をはじめとする不純・不道徳行為など、団員にとって不当な罪名ばかりが取り上げられた。この裁判でテンプル騎士団の活動禁止の裁決が下された。
教皇庁がアヴィニョンに移ってからも同騎士団への弾圧は続いた。1311年に開かれたヴィエンヌ公会議で同騎士団の解散が決定、全資産没収が決まった(テンプル騎士団解散)。当初は、没収した全財産を聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)に移すとされたが、形式上のことであった。1314年3月、テンプル騎士団の全財産の没収を終えた後、ジャック=デモレーら騎士団の上役をはじめ、団員たちは生きたまま火刑に処された。炎の中でデモレーはテンプル騎士団を滅亡に追いやった国王フィリップ4世と教皇クレメンス5世に対して呪いの言葉を発したとされている。そして、デモレーの予言が当たったのか、同1314年の翌4月にクレメンス5世が、同年11月末にフィリップ4世が没するという事態が起こっている。
カペー王家もフィリップ4世没後は緩やかに衰退していった。フィリップ4世の長男ルイ10世(喧嘩王。位1314-16)を経て、その子ジャン1世(遺腹王。位1316)が即位したが、生後一週間もたたず夭逝(ようせい。幼くして没すること)してしまった。ジャン1世でもってカペー王家の直系男児は途絶えたため、結局フィリップ4世の次男フィリップ5世(長躯王。位1316-22)、次いで三男のシャルル4世(位1322-28)が即位して王朝の延命を果たすも、シャルル4世の男児はみな出産後に夭逝したことで、カペー家支流のヴァロワ家に王位をゆずり、カペー朝は滅亡(1328)、ヴァロワ家のフィリップ6世(位1328-50)が即位し、フランスはヴァロワ朝(1328-1589)の時代に入った。
一方アヴィニョンの教皇庁においてもクレメンス5世没後、教皇空位時代が2年ほど続いた。1316年、フランス南西部カオール出身のジャック=デュエーズ(1244?-1344)がヨハネス22世として第2代アヴィニョン教皇として選ばれた(位1316-34)。しかし教皇権の回復に至らない時期であり、ローマ教皇からの戴冠を必要とする神聖ローマ帝国皇帝(962-1806)はアヴィニョン教皇を異端としたため、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(王位1314-47、帝位1328-47)によってローマに"対立教皇"ニコラウス5世が擁立される(位1328-30)という暴挙をおこした。これは失敗に終わったが、1309年のアヴィニョン捕囚以降では、初めてローマで擁立された対立教皇であった。しかしこの事件はただの序章にすぎなかった。
次のアヴィニョン教皇ベネディクトゥス12世(位1334-1342。フランス人)の時、アヴィニョンの教皇宮殿が建造された。しかし神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世との対立は収まらず、皇帝はアヴィニョン教皇をローマ=カトリック教会の教皇とは認めず、ドイツ王は戴冠せずとも神聖ローマ皇帝となり得ると主張し、普遍論争で唯名論を主張した哲学者で知られるウィリアム=オヴ=オッカム(1290?-1349?)も皇帝側に立ってアヴィニョン教皇を批判した。
その後フランスは百年戦争(1339-1453)の時期に入った。次のアヴィニョン教皇クレメンス6世(位1342-52。フランス人)は溝の埋まらない神聖ローマ帝国に対し、皇帝ルートヴィヒ4世の退位を命じ、この時アヴィニョン教皇が推したベーメン王カレル1世(位1346-78。対立王位1346-47。ルクセンブルク家)をルートヴィヒ4世の対立国王として擁立した。これが金印勅書(1356)で有名なカール4世(王位1346-78。帝位1355-78)である。
フランス王・シャルル5世(賢明王。位1364-80)の時、王権強化を活かして王太子時代から幣制・税制・兵制の諸改革を実施して功績を挙げ、百年戦争においてもイギリス王のフランス王継承権破棄(1360。ブレティニ=カレー条約)にこぎ着けるなど、国王集権化で功績を挙げたが、一方、アヴィニョン教皇はクレメンス6世没後、インノケンティウス6世(位1352-62)、ウルバヌス5世(位1362-70)とフランス人の教皇が依然として続いた。次のグレゴリウス11世(位1370-78。クレメンス6世の甥)もフランス人教皇であり、依然としてフランス王に支配され続けて、権力は衰退する一方であった。
この頃ローマでは、ローマ教皇庁の領地だったローマ教皇領(752-1870)が、教皇のバビロン捕囚による教皇支配力が弱まったことでシニョーリア(僭主)が台頭し、内戦が頻発するなど教皇領存続の危機にさらされていた。教皇領を支配するのはローマ教皇庁であり、そのトップであるローマ教皇であったが、当の教皇本人は同地にはおらず、アヴィニョンである。こうした危機は教皇の威信失墜をなお一層加速させた。しかも教皇領からの財源が入らないため、聖職売買(シモニア。聖職の経済的取引)に走っていくという悪循環であった。教皇の威信を回復させるには、ローマ教皇領を安定させるしか手がなかった。
1376年、アヴィニョン教皇グレゴリウス11世は、トスカナのシエナ出身である、ドミニコ修道会の尼僧カタリナ(シエナのカタリナ。カテリーナ。1347-80)と会見した。カタリナは聖餐以外は断食で通し、貧民や傷病者の救済に生涯を捧げる人物であった。その彼女が最も悲嘆に暮れていたことが、教皇のバビロン捕囚であった。ローマ教皇庁がアヴィニョン教皇庁になって以降、ローマの教皇領は荒廃と化している。暴動に次ぐ暴動で、神聖なる地の面影はなかった。カタリナは教皇庁をアヴィニョンからローマに戻し、ローマ教皇が教皇領をしっかりと支配することが、教皇権回復につながることだと主張し、教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を希った。
教皇グレゴリウス11世は、激戦と化している百年戦争の戦地がアヴィニョン周辺にも及んでいること、また聖地ローマがフランスに反する危機状態であったこと、同時に教皇領が神聖ローマ帝国(962-1806)や戦争相手のイギリス・プランタジネット朝(1154-1399)などに手渡るかもしれない状況にあったことなどを理由に、1377年1月、ついに教皇庁をアヴィニョンからローマへ戻し、教皇のローマ帰還が実現した(教皇のローマ帰還。1377)。
しかし待望のローマ帰還でローマは安泰と化すと思いきや、翌1378年、グレゴリウス11世が逝去する事態に遭う。もともとフランス・ヴァロワ朝は教皇のフランス支配が解かれることを怖れて、教皇のローマ帰還を快く思っていなかった。事実、グレゴリウス11世没後、コンクラーヴェ(教皇選挙)によって選出されたローマ教皇は、アヴィニョン時代に輩出されたフランス出身教皇ではなく、イタリア出身(ナポリ)の教皇であった(ウルバヌス6世。位1378-89)。フランス人教皇が選出されなかったことで、フランス人枢機卿はローマ帰還とこのコンクラーヴェを無効と主張して、ジュネーヴ出身で、フランス王家に親しいロベール枢機卿(卿位1371-78)をアヴィニョン対立教皇クレメンス7世として選出し(位1378-94)、アヴィニョンに教皇庁を復活させて教皇ウルバヌス6世に対抗した。こうして1378年、ローマ教皇庁に置かれた教皇ウルバヌス6世、アヴィニョン教皇庁に置かれた対立教皇クレメンス7世がともにローマ=カトリック教会の最高権威として並び立つという現象がおこった。
今回は、前回の対立教皇ニコラウス5世のような単純・短絡的なものではなかった。アヴィニョンの対立教皇クレメンス7世にはフランス・シャルル5世をはじめナポリ、シチリア、スコットランドといった諸国君主が支持し(のちイベリア諸国も中立後、支持)、ローマ教皇ウルバヌス6世には神聖ローマ帝国・カール4世、イングランド・リチャード2世(位1377-99。エドワード黒太子(1330-76)の子)、イタリア北部・中部が支持につくなど、国際的において完全な分裂状態となった。これをシスマ(教会分裂)という。しかもローマ教皇領からの財源が確保できないアヴィニョン側は修道院に課税するなどして権力を保持した。1389年にローマ教皇ウルバヌス6世が没すると、ローマの枢機卿はコンクラーヴェによってナポリ出身のボニファティウス9世(位1389-1404)を選出する一方、アヴィニョン側も1394年クレメンス7世が没すると、イベリアのアラゴン出身・ベネディクトゥス13世(位1394-1417)をアヴィニョンの対立教皇として選出した。
実は、かねてからこうした一連の教会の動揺に連動していた改革運動があった。イギリスではプランタジネット朝・エドワード3世時代(位1327-77。エドワード黒太子の父)に、オックスフォード大学教授であり、牧師のジョン=ウィクリフ(1320?-84)がでて、ローマ=カトリック教会を大々的に批判して聖書英訳に努めたことによってロラード運動("ロラード"は"聖書の人"の意味)が広まり、リチャード2世時代の1381年には教会財産没収を要求したワット=タイラー(?-1381)の農民一揆(ワット=タイラーの乱。戦費調達のための重税賦課に反対)が起こった。また15世紀に入り、ウィクリフの影響がベーメン(ボヘミア)にも及び、当時プラハ大学(カール4世創設。現カレル大学)教授を務めていたヤン=フス(1369-1415)はローマ=カトリック教会に対する改革の必要性を訴えていった。こうした運動と相まってシスマはまずます加速し、教会の権威のみならず、存続まで危ぶまれていった。
シスマは長期化が予想されたため打開策を掲げなければならず、1409年にピサで教会会議が開かれた。この頃ローマ教皇位にはボニファティウス9世のあと1人経て、ヴェネツィア出身のグレゴリウス12世(位1406-15)が就いており、一方アヴィニョンの対立教皇は依然としてベネディクトゥス13世であった。ピサの会議では、このローマ教皇グレゴリウス12世もアヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世も出席しなかった。シスマ打開策として両教皇の廃位を決めるからであった。
会議の結果、全会一致で両教皇の廃位を決め、新たに教皇アレクサンデル5世(位1409-10。ミラノ大司教出身)が擁立された。しかしローマ教皇グレゴリウス12世もアヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世もこれを認めず、廃位に反対した。新教皇アレクサンデル5世は翌年没したため、新たにヨハネス23世(位1410-15。ナポリ出身)が即位したことも手伝い、ここにローマ教皇グレゴリウス12世、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世、そしてピサ教会会議によって選出されたヨハネス23世の3教皇が鼎立する異常事態となった。この時点ですでに教皇という地位としての権威は完全に失墜しており、1378年から始まる一連のシスマは歴史上、教会大分裂(大シスマ。大離教。1378-1417)と呼ばれる。それはかつて聖像崇拝をきっかけに1054年に起こった東西教会の分裂(ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互に破門した事件)以来の大規模な分裂であった。
その間ベーメンでもフスの改革は進んだ。ベーメンを構成する西スラヴの民族・チェック人(チェコ人)の愛国心を高揚させつつ、プラハ大学をそのチェコ人が大多数を占める改革派で埋め尽くし、プラハ市からカトリック教会支持派を追放するなど(1409)、シスマで失墜するカトリック教会を堂々と批判した。ベーメンはカトリック帝政である神聖ローマ帝国に属するため、チェコ人だけでなくドイツ人も多く植民していたが、この改革でドイツ人の多くはフスの教義に従わうことができず、プラハを離れていった。フスはその後も教皇ヨハネス23世が贖宥状(免罪符。戦費捻出による)の販売(1411頃)を行ったことを痛烈に批判したことにも支持が集まり、フス派はベーメンにとどまらずヨーロッパ中に拡大を見せた。この勢いは教皇権失墜に拍車を掛けた。
こうした教皇権の失墜した状況の中、神聖ローマ皇帝ジギスムント(帝位1411-37)は君主権が教皇権よりも優勢であることを立証するため、1414年、彼の提唱により公会議を開くことを決め、教会改革と称してカトリックの教義を批判したウィクリフ(1384没なのでこの時既に故人)及びウィクリフの影響を下に活動するフスの異端性、そして大シスマによって鼎立する3教皇の正統性をそれぞれ審議することとなり、ドイツのコンスタンツで開催されることとなった。これがコンスタンツ公会議である。
会議の結果、ウィクリフとフスらをはじめとする異端とされた宗教改革者は有罪とし、彼等の教説を誤謬(ごびゅう)として撤回され、ローマ教皇グレゴリウス12世、アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世、ピサ教会会議選出教皇ヨハネス23世は廃位となった。まずウィクリフは遺体が掘り出されてテムズ川に彼の著書と共に投じられた。続いてフスは火刑に処されることが決まり、翌1415年刑が執行された。杭に縛られたフスは"異端者"を表す言葉が記された帽子をかぶせられ、生きたまま炎の中に消えた(1415。フスの火刑)。そして、3教皇に関しては同じく1415年に廃位が言い渡された。アヴィニョン対立教皇ベネディクトゥス13世は最後まで抵抗したものの、1417年にようやく同意して退位した。そして正統なローマ教皇・マルティヌス5世(位1417-31。ローマ出身の枢機卿)が選出され、約40年続いた教会大分裂はついに解消された(1417。大シスマ解消)。コンスタンツ公会議以降、フランス人によるローマ教皇は選出されていない。
シスマは解消されたが、フスを失ったフス派勢力の多いベーメンで異変が起こった。ルクセンブルク家が支配するベーメンでは(ベーメンのルクセンブルク朝。1310-1437)はカレル1世の後、次男のヴァーツラフ4世(ベーメン王位1378-1419。神聖ローマ皇帝ヴェンツェル。帝位1378-1400)が統治していたが、フス派の拡大は黙視していた。そして、コンスタンツ公会議が行われ、フス火刑が決まった。フス派勢力の中心となったベーメンのプラハでは、フス派住民(フシーテン)におけるフス火刑の抗議が行われ、またプラハ市庁舎では、ドイツ人市長がローマ=カトリック教会復活に抗議するフス派によって窓から投げ落とされる事件がおこり、ショックでヴァーツラフ4世は急逝した。直後、ベーメン王の継承が行われた。
次のベーメン王は、君主権を強める手段としてコンスタンツ公会議を提唱し、フスを火刑に処した神聖ローマ皇帝ジギスムントであった(ベーメン王ジクムント。王位1419-37)。フス派の、特に急進過激派(ターボル派)はジギスムントのベーメン王即位に抵抗を示し、皇帝軍と戦乱状態となった(フス戦争。1419-36)。こうしてコンスタンツ公会議への不満は宗教戦争へと発展するほどであり、ローマ=カトリック教会への不満は解消されてはいなかった。シスマ解消後のカトリック教会および教皇庁は完全に威信を取り戻せたと言えず、すぐさま教皇権の安定・伸張には至らなかった。それだけに、教皇権の衰退とそれにつながるシスマによって、後世に及ぼした影響力はあまりにも大きかった。
その後、各国君主は百年戦争終戦後(1453年以降)に展開される封建制度の崩壊(諸侯・騎士の没落)を背景に王権強化に邁進し、16世紀以降の絶対王政の時代を呼び起こすこととなる。一方でローマ=カトリック教会では、依然と世俗化と聖職売買といった腐敗が横行し、ローマ教皇および各聖職階層への批判はその後も消えることなく続き、やがて16世紀に訪れる大規模な宗教改革の渦に巻き込まれていくこととなる。
ヨーロッパ中世史の柱とも言える、受験世界史の中でも重要な部分です。堕ちていく教皇、権力が拡大する国王・皇帝の対照的な経緯は中世史ではこれでもかというくらいに取り上げられます。受験世界史ではカノッサの屈辱(1077)、第1回十字軍提唱(クレルモン公会議。1095)といった11世紀における「教皇権>王権」の状態から、アナーニ事件(1303)→教皇のバビロン捕囚(1309-1377)→テンプル騎士団解散(1311)→大シスマ(1378-1417)といった14世紀における「教皇権<王権」の状態へと移り、15世紀のコンスタンツ公会議(1414)へ至るまでのプロセスがよく出題されます。フランス王家が加わったことによって、教皇庁は大いに乱れ、ローマ教皇がローマからフランスのアヴィニョンに移るという事件が起こります。ローマにローマ教皇がいなくなった事件です。
なお、本編ではローマ教皇はアヴィニョン捕囚時代にはアヴィニョン教皇と称しましたが、ローマにあった教皇庁がアヴィニョンに移ったという表現ですので、教皇はアヴィニョンにいても正式名称はローマ教皇です。アヴィニョンにいたローマ教皇をアヴィニョン教皇という言い方でわかりやすく表現した次第です。"消えた"という表現はローマにいたローマ教皇がアヴィニョンに行ってしまい、ローマからローマ教皇が消えた、と解釈していただければ幸いです。
ちなみに、"教皇のバビロン捕囚"という呼び名ですが、"捕らわれ(囚われ)の身"といった表現は近代にも起こります。イタリア統一(1871)が果たせるところまできていた1870年に、その統一のシメとしてローマ教皇領を占領します(教皇領占領。1870)。そして翌1871年にローマ遷都を果たします。イタリアの首都ローマの誕生です。教皇領は当時独立を保っていたため、当時のローマ教皇ピウス9世(位1846-78)は占領された状態を"ヴァチカンの囚人"と称してイタリアと対立する姿勢を見せるという事件です。約60年後の1929年、イタリアと教皇庁との間にラテラノ条約(ラテラン条約)が結ばれてヴァチカンは"ヴァチカン市国"となって独立を果たし、"囚人"の状態から解放されます。
さて、今回の学習ポイントです。教皇のバビロン捕囚までの学習ポイントは前回で確認いたしました。前回から登場しているフランス国王フィリップ4世ですが、王権を最大限に利用して財政確保につとめ、これがテンプル騎士団解体へとつながります。テンプル騎士団の解散は入試には登場しませんが、用語集ではテンプル騎士団の項でフィリップ4世に解散させられたとの記述があります。なにかのキーワードで覚えておくのも良いでしょう。
このフィリップ4世の財政政策ですが、ホントに手段を選びません。テンプル騎士団解散を強行してまで資産を没収するやり口以外でも、ユダヤ人を国外追放して資産を没収するといった政策も行うなど、王権強化にむけたとはいえ、悪評を得ることになったでしょうね。
そしてシスマですが、1378年から1417年の約40年間は、教皇が1人で君臨していなかった時代です。ローマとアヴィニョン、はたまた1409年以降はこれに加えもう1人教皇が立ち、結果3人の教皇が鼎立します。大分裂状態です。この間に登場した教皇名は覚える必要はありませんが、シスマがだいたい14世紀終わりからコンスタンツ公会議(1414)までと覚えておけばよろしいでしょう。
最後にコンスタンツ公会議ですが、1414年を"いよいよ始まるコンスタンツ"と受験時代に覚えたことがあります。これはシスマを終わらせた公会議だけでなく、本編に登場したウィクリフとフスを異端と決定した会議でもあります。かなり重要です。ウィクリフのキーワードはイギリス、オックスフォード大学神学教授、聖書の英訳の3つです。すべて覚えましょう。フスはベーメン、プラハ大学神学教授、フス戦争の3つです。これもすべて覚えましょう。この2人は宗教改革の先駆けともされています。
さて、次回は超大作です。とある国家の古代から現代までの歴史を数編に渡ってお送りする予定です。この国家をメインに据えるのは今回が初めてです。お楽しみに!