5月14日は何に陽(ひ)が当たったか?

1614年5月14日はフランス・ブルボン朝の創始者、アンリ4世(在位1589-1614)が暗殺され、これに代わって、アンリ4世の子であるルイ13世(在位1610-43)が即位した日であり、また1643年5月14日は、そのルイ13世(在位1610-43)が崩御し、これに代わって、ルイ13世の子であるルイ14世が国王として即位した日です(在位1643-1715)。強引なこじつけではありますが、有名な3人が5月14日に関わりがあり、しかもルイ13世は即位日と退位日が同じであるという珍しさがあります。まさに5月13日は、ルイ13世に陽が当たったといっても過言ではありません。
アンリ4世暗殺によって、ルイ13世は8歳で即位することになったため、国内に混乱が生じました。よって当初はアンリ4世の夫であり、ルイ13世の母であるマリー・ド・メディシス(1575-1642)が摂政を務めました。
フランスではアンリ4世時代にカトリックとプロテスタントを融和させるナントの勅令がしかれていたこともあって平和な時代が続きましたが、マリーは敬虔なカトリック信者であり、プロテスタント以上にカトリックを優先させました。象徴的な一件として、子のルイ13世に対して、フランスの政敵であるスペイン・ハプスブルク家の娘アンヌ・ドートリッシュ(1601-1666)と結婚させるなど、政治的・宗教的混乱も想定されました。
こうした混乱した背景がある中で、1614年にフランスの身分制議会である三部会が召集されますが、身分別意見の衝突が激しく、結果的には決議されることはなく尻すぼみとなったまま解散に至り、フランス革命勃発年の1789年まで三部会召集は停止状態になりました。これがかえって、ブルボン朝国王の威厳を持たせることに成功し、1624年にフランス宰相として枢機卿(ローマ教皇の最高補佐官)だったリシュリュー(1585-1642)が行政をコントロールするようになって以降は、ブルボン朝はフランス国王の絶対王政化を推進していくことになります。
折しもヨーロッパは宗教的な混乱が激化していました。当然カトリック側はハプスブルク家が中心であり、プロテスタント側はスウェーデンやデンマーク、ドイツのルター派諸侯などで構成されておりました。こうした情勢下のもとで、リシュリューはルイ13世の王権強化につとめ、スペインとドイツ・オーストリアという、フランスを囲むハプスブルク家の勢力に対抗しなければならないため、この宗教戦争では、カトリック国であるフランスは、宗教では同じカトリックながらも政治的には対立するハプスブルクを敵国と見なす姿勢をとり、プロテスタント側について宗教戦争に介入することを決めました。この戦争は1648年まで続き、三十年戦争と呼ばれます。
リシュリューは三十年戦争の決着を見ることもなく1642年に没し、後を追うようにルイ13世も翌1643年5月14日に崩御しました。自身がハプスブルク家出身のカトリック信者であるにもかかわらず、カトリック国でしかも母国スペインを敵に戦い、ルイ13世に先立たれた妻のアンヌ・ドートリッシュは、つねに王室とは対立姿勢がありましたが、王とは不仲でありながらも、1638年にルイ14世を出産、ブルボン家の血統を守りました。そして、ルイ14世の治世で、フランス絶対王政が確立していくのです。

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