10月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

1813年10月16日は、フランス第一帝政時代(1804-14,15)の崩壊を告げるナポレオン戦争晩期における解放戦争の1つ、諸国民戦争が開戦された日です。ドイツ東部のライプツィヒを舞台に激しい戦闘が16日から19日まで4日間続き、多数の死傷者を出したナポレオン軍の敗北により、
皇帝ナポレオン1世(帝位1804-14,15)による1812年のロシア遠征失敗やスペインでの半島戦争劣勢によって、近隣国は対仏大同盟を再始動させ(1813-14)、ナポレオン打倒の解放戦争が行われることになりました。戦場はザクセン王国のライプツィヒ(ドイツ東部)でした。ザクセン王国は神聖ローマ帝国(962-1806)時代は公国でしたが、ナポレオン1世により神聖ローマ帝国は解体となり、ドイツ諸邦はライン同盟(1806-13)を結成、その中のザクセン公国は王国に昇格し、ザクセン王はナポレオンがプロイセンを弱体化させたティルジット和約(1807)で誕生させた、ワルシャワ公国(1807-13)の統治も兼ねました。
対仏大同盟はイギリス、ロシア、プロイセン、スペイン、ポルトガル、オーストリア、スウェーデンら、ナポレオンの絶頂期に痛め付けられた諸国の他、ライン同盟の反仏をうったえる諸邦も少なからずありました。
1813年3月から解放戦争が続き、ドイツ戦線ではライン川を東西に両軍が陣営に集まりました。ナポレオン軍は自国フランス、ワルシャワ公国およびライン同盟、またナポリ王国の軍を集めて、総勢およそ20万の軍を用意、一方の諸国民連合軍(ロシア、スウェーデン、プロイセン、オーストリア)は総勢100万で挑みました。攻防は一進一退が続くものの、徐々にナポレオン軍は劣勢と化していきました。
陽の当たった10月16日、兵力はナポレオン軍は約18万に対し、諸国民連合軍は約26万でライプツィヒの戦いが開戦となりました。戦闘は4日間続きますが、次々と増援が来る連合軍を相手に、ナポレオン軍は防戦一方で、撤退する兵士も続出、ライン同盟軍も5000兵の死傷者が出たためザクセン王国軍は離反、ワルシャワ公国もロシアやプロイセンによって占領され、ワルシャワ公を兼任したザクセン王はロシアの捕虜となりました。
結果ナポレオン軍は30000兵が捕虜となり、合わせて40000近い死傷者が出る大敗を喫しました。しかし諸国民連合軍も5万以上の死傷者が出ました。
これにより、ライン同盟の支配はフランスから諸国民連合軍へ流れていき、フランスのライン川以東でのドイツ支配は崩壊しました。翌1814年にはその諸国民連合軍は隙を見せずフランス包囲網を強化し、3月31日、ついにパリは陥落、諸国民の解放戦争は達成されました。これを受けて、4月11日にナポレオン1世は皇帝の座を降りることになるのでした。

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