10月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

1849年10月17日は、ポーランドロマン派音楽家の代表、フレデリック・ショパン(1810-1849)の没年月日です。
19世紀初頭、当時はポーランドという国名はなく、その地にはフランス皇帝ナポレオン1世(帝位1804-14,15)の支配によってつくられたワルシャワ公国(1807-13)がありました。ワルシャワ公国が誕生するまでは、ポーランドは歴史的に見ても最悪の状態でした。16世紀後半に全盛期だったヤゲウォ朝(1386-1572)の支配が終わり、選挙王制を柱とするポーランドの世襲貴族階級(シュラフタ)の独裁と富裕化、農奴制強化による農民への圧迫を背景に、ロシアやスウェーデンなどの干渉による政情不安定が続きました。やがてこの干渉は3度にわたるポーランド分割(1772,1793,1795)の結末をもたらし、ポーランドは消滅したのです。
しかしナポレオンによって樹立したワルシャワ公国においても、当然ナポレオンの傀儡国家として作られたにすぎず、ポーランドという国家的規模は到底小さいものでした。ワルシャワ公国はナポレオンの政策でフランスと同盟を結ばされ、ライン同盟(1806-13)の1つであるザクセン王国(1806-1918)の王フリードリヒ・アウグスト1世(ザクセン王位1806-27)がワルシャワ公を兼任しました(ワルシャワ公位1807-15)。しかしこの公国の実質の最有力者はフランス大使であり、ナポレオン支配は厳しく続いていたため、公国の独立は許されませんでした。ポーランドにとっては、ワルシャワ公国時代も暗黒時代そのものだったのです。
公国が誕生して3年目の1810年3月1日(?)、ワルシャワの西郊にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村に、ひとつの生命が誕生しました。それはポーランドに帰化したフランス人講師ニコラ(ミコワイ。1771-1884)を父に、シュラフタの出であるユスティナ(1781-1861)を母にもつ、”ピアノの詩人”と呼ばれた男、フレデリック・フランソワ・ショパンです。
ポーランドでは、マズルカやポロネーズといった、4分の3拍子のリズムをもつ民族舞踊・舞曲が古くから愛されていました。ショパンは生来身体が弱かったですが、幼少にして豊かな才能に溢れ、やがて音楽を志しました。6歳の時、父ニコラが連れてきたボヘミア出身の音楽家・ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニー(ジヴヌィ。1756-1842)の専門的な音楽教育を受けました。7歳になると、ショパンはジヴニーから本格的にピアノを教わり、『ボロネーズ第11番(ト短調)』を作曲しました(1817)。ジヴニーはショパンの音楽的才能をさらに引き出すため、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)などを教え、約6年間の音楽指導を行いました。ショパンが8歳の時、ワルシャワで初めてピアノ公演を行い、”ポーランドのモーツァルト”と高い評価を得ました。その後ショパンは1823年から6年間、ワルシャワ音楽院の学院長だったユゼフ・エルスナー(1769-1854)に師事して、この頃に『”ドン=ジョヴァンニ”の”お手をどうぞ”の主題による変奏曲(ラ・チ・ダレム変奏曲。1827)』『葬送行進曲 ハ短調 作品72-2(1827。出版は1855年。1827年はショパンが妹を肺結核で亡くした年)』や『ピアノソナタ第1番(1828)』など優れた楽曲を作曲し、エルスナーは彼を”天才”と言わしめたのです。
エルスナーのもとで作曲に磨きがかかったショパンは1829年に同音楽院を首席で卒業しましたが、この頃、彼は声楽を志していた女性、コンスタンツィア・グワドコフスカ(1810-89)への初恋を経験しています。彼は友人宛の手紙で、『ピアノ協奏曲第二番(1829)』の第2楽章にこの頃の想いを込めたと述べていますが、実際は完全な片思いであったとされています。
この間、ナポレオンの没落によりワルシャワ公国は崩壊、ヨーロッパ全体はウィーン体制の渦に巻き込まれます。1815年に定められたウィーン議定書で、ポーランドは立憲王国(ポーランド立憲王国。ポーランド会議王国。広義1815-1918。狭義1815-1916)として国名を再登場させましたが、国王はロシア・ロマノフ王朝(1613-1917)の皇帝(ツァーリ)が兼任したため、ワルシャワ公国時代がフランス支配だったのと同様、今回もロシアの皇帝専政支配となりましたので、実態はロシア領ポーランドであり、ポーランドの暗黒時代は依然として続きました。立憲王国であるにもかかわらずロシアは憲法無視による暴政を続け、ポーランド人の自由を奪っていきました。
こうした中での1830年10月、20歳のショパンはウィーンへ旅立つ決心をし、ワルシャワでの告別演奏会で、第二番よりも後に作られた『ピアノ協奏曲第一番(1830)』をピアノ独奏、祖国ポーランドを後にしました。ショパンのポーランドへの愛国心は非常に強く、ポーランドの主権復活の望みを抱きながら、富裕な貴族社会、圧力が増すロシア支配、そして農奴制に苦しむ農家たちといった当時の現状を憂い、それが後の作品にも大きく影響しました。ショパンがポーランドを去る日、彼の友人が祖国ポーランドの土を、馬の餞(はなむけ)として出国する彼に贈呈したという逸話が残っています(実話か否かは諸説あり)。
ショパンがウィーンに到着した11月、母国ポーランドで非常事態が起こりました。11月29日、フランス七月革命(1830)の影響により独立を達成したベルギーに対し、ロシアはポーランド軍を動員してベルギーに出動させようとしたのです。これをきっかけとして、ロシアの暴政に不満を募らせていた、ロシアが監督する陸軍士官学校の生徒たちや、ロシアからの独立を要求するポーランドの領主貴族(シュラフタ)、さらにはポーランド市民がロシアのこの行為を憲法違反であるとして武装蜂起、ワルシャワの武器庫を占拠し、反乱軍とロシア帝国軍との戦闘が展開され、ワルシャワは火の海と化しました(1830。ポーランド騒乱。ポーランド反乱。ワルシャワ11月蜂起。11月の夜)。この武装蜂起は翌1831年10月までほぼ1年近く続きましたが、結果的にはロシア軍の格の違いを見せつけられて鎮圧され、敗北を喫しました。
ウィーンではウィーン会議を通して、全ヨーロッパに流行したウィンナーワルツが本場ともいうべき流行りぶりで、ショパンの活動はほとんど注目されず、しかもウィーン会議主催国オーストリアではワルシャワ11月蜂起を反ウィーン体制ととらえ、反ポーランド精神が芽生えていったため、ウィーンにいるショパンは完全に孤立し、ウィーンでの演奏の機会を失いました。音楽の発展を求めてウィーンに旅立ったショパンは、こうしたオーストリアの国情に失望し、父ニコラの母国であるフランス行きを決断しました(1831)。この頃、ショパンは自身の身体の弱さと当時祖国を離れていたことから、この騒乱に参加できない苛立たしさ、そして蜂起失敗に対する絶望感から、『エチュード(練習曲)・作品10・第12番・ハ短調』を作曲したとされています(1831)。世に言う『革命のエチュード』です。この曲を含む『12のエチュード(練習曲)・作品10』には、一般的に「別れの曲」としてあまりにも有名な『第3番・ホ長調』も含まれています。
フランスではウィーン体制の反発からリベラリズム(自由主義)やナショナリズム(国民主義)の運動も活発化し、七月革命によってウィーン体制の動揺をもたらしましたが、文化的にはこれまでの古典主義や、理性絶対の啓蒙主義に対する反発から、形式の自由化、個性尊重、非現実的発想、そして感情の強調といったロマン主義が流行し、音楽においてもロマン主義音楽が流行していました。1831年9月にパリに足を踏み入れたショパンは、ハンガリー出身でショパンより早くパリに移り住んでいたロマン派ピアニストであり作曲家のフランツ・リスト(1811-86。”ピアノの魔術師”)と親交、『革命のエチュード』を献呈した。またドイツのロベルト・シューマン(1810-56)は、この頃ショパンのワルシャワ音楽院時代に作曲した『”ドン=ジョヴァンニ”の”お手をどうぞ”の主題による変奏曲』を絶賛しています。また1833年にエクトル・ベルリオーズ(1803-69)の演奏会に来ていたショパンは、これを機に彼と親交を深めるようになりました。ドイツ・ロマン派音楽家では他にもフェリックス・メンデルスゾーン(ドイツ。1809-47)とも交流を持ち、またドイツ・ロマン派文学の”革命詩人”ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)や、後の写実主義作家の代表であるフランスの文豪オノレ・ド・バルザック(1799-1850)といった文筆家とも親交を深めていきました。またショパンは3歳下でポーランド・シュラフタの出であるデルフィーナ・ポトツカ伯爵夫人(1807-77)という親友もおり、ポーランドを離れても両者間の友情は長く維持されました。
1832年、ショパンは演奏会を行いました。これはパリでは初めての開催でした。1833年には『華麗なる変奏曲』『ボレロ』『夜想曲(ノクターン)第6番』『ワルツ・華麗なる大円舞曲(1834出版)』『ロンド・変ホ長調』など、後世に残る名作を次々と作曲しました。
一方、この頃のポーランドはロシア皇帝ニコライ1世(帝位1825-55)がポーランド王でしたが(王位1825-55)、1830年のワルシャワ11月蜂起後、ニコライ1世はポーランド立憲王国における自治権を外させて直轄領とし、専政を敷いていました(1832)。ショパンは音楽に携わる限り、祖国ポーランドへの愛国感情を忘れることなく、ポーランドの伝統民族舞曲であるマズルカやポロネーズを取り上げ、数多くの作品を生涯にわたって作り続けていきました。ポロネーズは18曲、マズルカに至っては50曲以上にものぼり、故郷であるポーランドへの想いを込めた表れです。ウィーンおよびパリでこれらを披露したことで、ポーランドの伝統舞曲がヨーロッパ全土に知られるようになりました。
1836年、ショパンはリストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人(1805-76)のサロンに行き、そこで女流作家ジョルジュ・サンド(1804-76)と対面しました。彼女は1822年に貴族と結婚し2子を持ちましたが、愛情のない結婚でしたのでうまくいかず、その後は不特定多数の男性と関係を持ちました。また男性の衣服を装い、葉巻を愛好する風変わりな女性でしたが、当時ショパンが求婚した相手と破談になったことで(この頃に書かれた『ワルツ第9番』が通称”別れのワルツ”と呼ばれる所以)、次第にサンドに惹かれるようになっていきました。2人はそのうち周囲の雑音を避けてマヨルカ島(西地中海)へ向かいました(1838)。実はこの頃からショパンは結核を患っており、喀血もたびたび起こるなど危険な状態でしたので、転地療養の目的もありました。ショパンは病身でありながら翌1839年に有名な『雨だれのプレリュード(第15番・変ニ長調)』を含む『24のプレリュード(前奏曲)・作品28』を同島で完成させました。
しかしマヨルカ島での生活で、転地療養どころかますます病状を悪化させたショパンは、半年ほどでマヨルカ島を後にし、パリに戻りました。1847年まで、ショパンは冬場にパリに滞在して、夏場はサンドの生家があるノアン(フランス中部・現アンドル県)に出向く生活を続けました。しかしこの間、一人の人間を一途に愛せないサンドの男遊びが次第に復活し、サンドとの関係も悪化、またショパンの父ニコラが没したこともあって(1844)、ショパンの健康状態はさらに悪くなりました。1847年、サンドの子どもに関するトラブルもあって、同年夏、遂にショパンはサンドと破局を迎えたのでした。
1848年初頭、七月王政下のフランスでは市民が中心となって結成された、改革宴会と呼ばれる革命組織が選挙法改正運動を展開しており、政情がかなり不安定になっていました。2月16日にサル・プレイエル(現パリ8区にあるコンサートホール)で演奏会を開催しましたが、同月22日にフランスで二月革命が勃発したことで、ショパンはイギリスで療養することになったため、フランスではこれが最後の演奏会となってしまいました。4月にブリテン島に渡ったショパンはロンドンなどで演奏会を開くなど体力の続く限り活動を行いましたが、病魔には勝てず、同年末にパリに戻ることとなりました。
1849年、ショパンは現在のパリ1区のヴァンドーム広場の住居に身を寄せ、10月17日未明、いまだ革命熱冷め切らない騒然とした同地で没しました。享年39歳でした(1849.10.17。ショパン死去)。『マズルカ第49番・ヘ短調(作品68の第4番)』が遺作となりました。パリのマドレーヌ寺院で葬儀が行われ、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました(映像はこちらwikipediaより)。この時、墓地に土がかけられたといわれますが、この土はショパンがポーランドを去る際に友人から贈呈された祖国ポーランドの土であると言われています。そして、生前の彼の要望により、心臓だけはポーランドに戻され、ワルシャワ聖十字架教会に納められたのでした。
ショパンが作曲した作品のほとんどがピアノ独奏曲でした。その魅力とは、半音階和音技法を駆使し、ピアノで可能な表現を無限に出し尽くし、その旋律の美しさ、悲しさ、優しさを、彼自身の愛国心から芽生える祖国ポーランドの伝統音楽と結びつかせ、ショパンであるからこそ生まれる独特の奏ででした。そのすべては、後世においてもその名を知られ、現在においても多くの愛好家によって愛され、生き生きと奏でられております。まさに”ピアノの詩人“と呼ばれるべき、音楽に革命をもたらした天才音楽家だったのです。
引用文献:『世界史の目 第201話

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