10月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1905年10月30日(グレゴリオ暦。ユリウス暦10月17日)は、ロシア帝国皇帝、ニコライ2世(1894-1917)が十月勅令(十月詔書)を発した日です。
 20世紀初頭より、ツァーリズム専政支配を貫くニコライ2世に対し、労働者や下層兵士らには平等と改善を求めて反政府、反帝政の動きが出てきました。こうした中で、時世に憂いを感じたガポン神父(ゲオルギー・ガポン。1870-1906)が、モスクワの保安部長長官であるセルゲイ・ズバートフ(1864-1917)に接近しました。ズバートフは警察監督下の合法的労働運動を推進していた社会主義者で、ガポンはズバートフから人脈と資金を得たらしく(真相不明。諸説あり)、1903年ペテルブルクで、工場労働者の組合を組織しました。やがてこの組合は生活難にあえぐ労働者の拠り所となっていきました。
 折しもこの頃は労働条件の改善を求めて大規模なストライキがおこされていました。また日露戦争も勃発したことも重なり、ガポンは労働者の窮状を皇帝ニコライ2世に示すため、労働条件の向上化と戦争中止における平和を請願することを決意しました。
 そして、1905年1月22日(ユリウス暦1月9日)の日曜日、「プラウダ(=正義、真実)」を求める請願書を持ったガポン神父は家族と、ストライキ中のプチロフ工場の労働者を率いて、ペテルブルクの宮殿にむけて示威行進しました。見物者も多く詰めかけた冬宮広場にガポンら行進者が集まったところ、宮問警備隊は彼らに対し、突如、無差別発砲を行いました(血の日曜日事件)。行進者だけでなく見物していた民衆も犠牲となり、2000名をこえる死傷者が出(うち死者は100人以上。諸説あり)、冬宮広場は流血の惨状と化しました。これが”1905年の革命(ロシア第一革命)”の勃発となります。
 事前に内相との打合せがあったにもかかわらず、民衆を巻き込む大惨事となったこの事件で、ガポン神父は現場を逃れ、ロンドンに亡命しました。これを機に、ストライキは全国的に広がっていき、また日露戦争においても日本に連敗を喫しました。特にロシア・バルチック艦隊の壊滅は水兵にも悲嘆や政府への怒りをもたらし、1905年6月、黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキン号内で水兵による暴動が起こり、政府は戦争続行を断念し、9月に講和しました(ポーツマス条約)。
 10月にはゼネストが決行されました。鉄道・郵便・電話の機能が停止する中、ペテルブルクである大会が開かれました。これは、革命勃発以降、労働者と兵士が自発的に形成した評議会であり、”ソヴィエト(労兵会。「会議」の意味)”と呼ばれた、労働者と兵士の代表選出機関です。
 ソヴィエトが結成されてから、ニコライ2世の反動体制は徐々に批判の色を強めました。こうした中、1905年10月30日(ユリウス暦10月17日)、ニコライ2世は「十月勅令(十月宣言。十月詔書)」をヴィッテ(もと蔵相で、ポーツマス条約のロシア全権代表。1849-1915)に起草させて、これを発しました。この内容は、立憲政治の必要から憲法の制定と、ドゥーマ(国会)の開設を約束したもので、翌年ドゥーマが開会され、憲法が発布されました。これにて第一革命は終結の方向に向かいました。しかしドゥーマは開設されても、代表は地主貴族ばかりで、ニコライ2世の反動支配体制はあまり変わりませんでした。またヴィッテは首相となりましたが(任1905-06)、数々の自由主義改革を断行したことにより、ニコライ2世の怒りを受け翌年解任されてしまいました。これにより、ロシア革命は次の段階に入っていき、1917年に歴史的に世界を揺るがす大きな革命が勃発するのでした。
引用文献:『世界史の目 第44話』より

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