12月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1608年12月9日は、17世紀のピューリタン文学の代表的詩人、ジョン・ミルトンの生年月日です。
 1600年代のイギリス(イングランド)王室は、国王ジェームズ1世(位1603-25)が統治する第一次ステュアート朝(1603-49)で幕を開けました。ジェームズ1世は、王権神授説に基づき、イングランド国教会を重視、議会を圧迫あるいは無視する姿勢をとる専制君主主義、いわゆる絶対王政を敷いていきました。一方でプロテスタントのピューリタン(清教徒)は、王室の絶対王政に抵抗を示し、宗教的・政治的対立を徐々に深めていきました。
 そんな中で、陽の当たった1608年12月9日、イギリスのロンドンにて、1人の男児が誕生しました。彼こそがジョン・ミルトン(1608-1674)です。父は公証人と金融業を営み、生活は裕福であったとされています。そして、一家はピューリタンでした。
 1616年、エリザベス1世(王位1558-1603)の時代に活躍したウィリアム・シェークスピア(1564-1616)が没しました。彼は後に四大悲劇と呼ばれる名作群(『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』)を1601~08年頃の間に発表しており、衰退期にさしかかっていたイギリスのルネサンス文学を再び呼び起こし、文学者のみならず、文化的・社会的に大きな影響を与えました。彼の作品は、その後世界文学の原点として永遠に愛されていきましたが、母国イギリスではピューリタニズムの影響と相まって、ピューリタン文学と呼ばれる新しいジャンルが確立していった。ミルトンはこのブリティッシュ・ルネサンス文学とピューリタニズムの融合がはかられた時代に生きた人物でありました。
 1625年、ミルトンはケンブリッジ大学のクライスト・カレッジに入学しました(1625-32在籍)。学生時代は、”キリストの淑女”・”貴婦人”とあだ名され、女性と見紛われるほど、端麗な容姿・容貌でした。在学時から詩作にとりかかりましたが、本格的に活動を始めたのは大学卒業後でした。父の援助で別荘を借り、6年間詩の創作に耽りました。そこで仮面劇『Comus(1634)』、哀詩『Lycidas(1637)』を発表し、その名が知られるようになりました。1638年、母と死別したミルトンは、一思いにフランスやイタリアなど、ヨーロッパ諸国を1年かけて周り見聞を広めました。途中晩年期のガリレオ・ガリレイ(1564-1642)にも対面しています。
 この頃イングランドでは、国王チャールズ1世(位1625-49)のもと、スコットランドと国教会論争をおこし、スコットランドでは反乱が勃発していましたので、11年ぶりに議会を召集して戦費捻出をはかりましたが失敗(短期議会。1640.4)、11月には再度議会を召集しましたが議会派から強い反発を受け、ついに王党派と内戦が勃発しました(1642)。このピューリタン革命(清教徒革命1642-49)は、ミルトンにも大きく影響を及ぼしました。帰国後のミルトンは、国内の動揺を肌で感じ取り、しばらく詩作を中断、一人のピューリタン信仰者として論争を展開、宗教改革の必要をもとに、多くの散文を執筆してイングランド国教会への非難を主張しました。
 革命勃発の年、ミルトンは、自身のちょうど半分の年齢にあたるメアリー・ポウエル(1625?-52?)と最初の結婚を果たしました。4人(1男3女)の子宝にも恵まれたが、家庭を持つことになれず、夫婦間は別居生活となってしまいました(1643年頃)。このときミルトンは離婚の教義や人生の自由についての論文を執筆しています。これが世に出ると大きな批判を浴び、その結果としてミルトンは、当時の王政を批判して革命を成し遂げようとし、王権縮減を主張する独立派(Independents)に加入しました。独立派は、あのオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)が指導していたグループでした。
 独立派が国王軍を破り、ついに国王処刑が果たされ(チャールズ1世処刑。1649.1)、イギリスに共和政がもたらされました。独立派に属していたミルトンは国王処刑後、クロムウェルの外交秘書となって国王処刑の正当化を主張する政治論文を矢継ぎ早に発表、革命擁護の理解者として世に示しました。
 しかし革命達成後のミルトンは激務でした。彼の過労は両目にふりかかり、視力が衰退、1652年頃にはとうとう完全に失明してしまいました。また同年には離別した妻メアリーと長男に先立たれました。こうした中、クロムウェルは、1640年11月から行われてきた長期議会を解散(1653.4)、終身の護国卿(ごこくきょう。Lord Protector。政治・軍事の最高官職。任1653-58)に就任、クロムウェルの軍事独裁が始まりました。
 クロムウェルが政権をとる間はミルトンの生活も安定していたわけであり、1656年には二度目の結婚を果たしました。しかし翌々年(1658年)に妻が出産による体調悪化で死亡、子も早世しました。しかしとりわけ重要なのは、この年はクロムウェルが没した年でもあります。護国卿就任後は厳格なピューリタニズムを展開しましたが、これが災いして国民の反発を買い、軍隊と議会に再度対立が生まれ、王政の復古策が叫ばれて独裁国家の存亡が危ぶまれていたのです。結局クロムウェル没後には長男のリチャード・クロムウェル(1626-1712)が護国卿に就任し(任1658-59)、共和政はしばらく維持できると思われましたが、リチャードの無能さにより支持は失われ、彼は護国卿就任8ヶ月後に辞任に追い込まれてしまいました(1659)。
 大クロムウェル没後も共和政擁護を主張し続けていたミルトンでしたが、護国卿職消滅により王政復古が成立(1660)、ミルトンも職を剥奪となってしまいました。ミルトンの著書は発禁・焚書処分され、私有財産もすべて没収させられる憂き目にあいました。ミルトンは逮捕を怖れて数ヶ月の潜伏生活を強いられ、その後革命派の処分が執り行われましたが、ミルトンは友人の努力により恩赦令を受けることができ、辛うじて処刑を免れました。しかし直後は逮捕されて、莫大な罰金を支払わされました。ミルトンにおける人生最大の危機でした。その後ミルトンは政界を完全に引退しました。
 1663年、ミルトンは三度目の結婚を果たし、”詩人“としての活動を再始動した。盲目の身であるため、口述による詩作活動となったが、政界にいたよりも充実していました。結婚生活も成功し、彼の詩作は大作へと展開していきました。こうして1667年、ミルトンの代表作であり、ピューリタン文学における不朽の傑作と謳われた一大叙事詩『失楽園(しつらくえん。Paradise Lost)』が誕生したのです。
 ”失楽園”の原点は旧約聖書の『創世記』にみられます。この『創世記』の1章から3章にかけての内容を題材としていますが、内容は以下の通りです。

神によって天地が創られ、地にはエデンの園がつくられ、園の中央に”善悪を知る木”を生えさせた。さらに園においてこの木の実を守らせた人間、すなわちアダム(男性)とイヴ(女性)が神によってつくられた。神より善悪を知る木の実を食することを禁じられた人間であるイヴが、最も狡猾な生き物である”へび”にそそのかされ、アダムとともにその禁断の木の実を食べてしまい、楽園を追放させられてしまった(“楽園喪失”)….

 
 ミルトンの『失楽園』では、神と戦い暗黒に落とされたルシファー(神に反逆して堕天した最高位の天使。サタン)が登場します。ルシファーは蛇に化けて、アダムとイヴをエデンの園から追放させようとします。神の被造である人間が、神の命令に背いて禁断の木の実を食したという人類最初の罪、すなわち原罪(original sin)により、”死”という運命を与えられますが、これは、蛇に化けたルシファーがイヴに禁断の木の実を食するように誘導させたものなのです。ミルトンは、天使から悪魔に堕ちたルシファーと、罪を背負った人間とのたたかいを通じて、これらを創造した父なる神の摂理を説き、神の尊さや偉大さを訴え、これを哀れと憂いに満ちた当時の現世にたとえたのでした。
 神の絶対的意志や人間の理性の無力さといった主張を持つピューリタニズムは、国王を主張とするイングランド国教会を不徹底と批判し続けました。そして、国家権力と教会は別個の物であり、神の至上権からくる真の自由は、神意への絶対的服従が必要であるという思想を、ミルトンは『失楽園』において力説したのです。真の教会制度の徹底、共和政と自由主義の必要性といった政教両面を常に論文を通して主張してきましたピューリタン、ミルトンの集大成とする作品でありました。
 その後もミルトンは神の摂理をさらに深く主張し続け、『復楽園(Paradise Regained)』・『闘士サムソン(Samson Agonistes)』などを執筆し、1674年11月、65歳で没しました。ピューリタニズムを全生涯にかけて全うし、その精神は革命を通して絶頂に立ちました。内なる様々な苦悩を乗り越えて生きた、まさに大詩人でありました。
引用文献『世界史の目 第123話』より

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