12月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 37年12月15日は、ローマ帝政期(B.C.27-A.D.395)における第5代皇帝、ネロ(37-68)の生誕年月日です。
 アウグストゥス(オクタヴィアヌス。位B.C.27-A.D.14)没後、2代皇帝ティベリウス(位14ー37)、3代皇帝カリグラ(ガイウス。位37ー41)、4代クラウディウス(位41ー54。カリグラの叔父)と、ユリウス・クラウディウス家から古代ローマ帝国皇帝に次々に即位しました(ユリウス・クラウディウス朝。B.C.27-A.D.68)。
 クラウディウス帝は先帝カリグラが41年暗殺されて即位した皇帝で、自身も殺害されるという恐怖感に満ちた統治生活を余儀なくされました。4度結婚しましたが、3人目のメッサリナ(23ー48)といたときは、まさしく彼女に振り回された時代でした。皇帝の恐怖と警戒を利用して、メッサリナは多くの敵とみなした人物を死に至らしめていきました。
 メッサリナは48年に自身の不倫問題で処刑されますが、クラウディウス帝はアウグストゥス帝の曾孫アグリッピナ(小アグリッピナ。カリグラの妹。15ー59)と結婚しました(41)。アグリッピナはそれまで結婚しており、前夫(39年病没)との間にできたのがネロです。
 クラウディウス帝とメッサリナとの間にオクタヴィア(40ー62)とその弟ブリタニクス(40ー55)がいました。養子となったネロは彼らとは義兄弟関係となります。皇位継承権を得たネロは、53年オクタヴィアと結婚しました。これらの背景には母アグリッピナの働きがありました。アグリッピナは、メッサリナと同様に悪妻として知られ、ネロに皇位を継承させるためにあらゆる策略を練ったとされます。ネロがブリタニクスより年長であっても、皇帝の実子はブリタニクスのため、皇位継承者はブリタニクスになると予感したアグリッピナは、ネロを、別の婚約者がいた姉オクタヴィアと結婚させて、ブリタニクスの完全な兄に仕立て上げました。オクタヴィアの婚約者はアグリッピナによって自殺させられたとも言われます。
 54年、アグリッピナは遂に夫であるクラウディウス帝をも毒殺し、同年、16歳のネロを皇位につけさせることに成功しました(位54-68)。ネロの治世の初期5年間は、近衛隊長ブッルス(1?-62)や、もと元老院(ローマ帝国の最高機関)議員で、ストア哲学や修辞学を研究する家庭教師セネカ(B.C.1?ーA.D.65)らの後見を得、善政をしいていましたが、アグリッピナは、彼女自身による政権掌握を考えており、あくまでわが子である若きネロ帝に対しては、母親の指示するがままに統治すれば良いという志向でした。ネロがアグリッピナの指示を拒否すると、アグリッピナは、相姦でもってネロを誘惑するなど、あらゆる手段をとったとされます。やがてアグリッピナの思惑が表面化し、ネロは師セネカらと組んで対立しました。そこでアグリッピナはネロを廃位してネロの義弟ブリタニクスを擁立しようと考えました。ネロは55年、弟であるブリタニクスを毒殺、さらに59年、刺客をつかって実の母アグリッピナを刺殺しました。この頃から、ネロは暴虐・凶暴な性格を現わすようになります。
 ネロの妻オクタヴィアは不妊症のため、夫婦関係も良くなかったとされます。母メッサリナ・父クラウディウス・弟ブリタニクスの死から来る恐怖と孤独に悩まされたオクタヴィアをよそに、ネロは旧友であり、のち69年に皇位につくオト(32~69)の妻ポッパエア(30-65)と愛人関係にありました。62年、ネロはオクタヴィアに対し、不妊を理由に離婚を言いつけ、姦通の罪でオクタヴィアを処刑、その後人妻ポッパエアと結婚しました。義弟・実母・妃の殺害を貫いた帝の姿を見て、師セネカは身の危険を感じ引退しました。同年にブルルスが没したことで、ネロの良き指導者は姿を消し、ネロは悪臣のティゲリヌス(?-69)を重用、結果ローマの国政は大いに乱れました。皮肉にも後世では”パックス・ロマーナ(ローマの平和)”と呼ばれた、アウグストゥス帝から五賢帝末期までの約200年間の黄金期のさなかでした。ポッパエアは妊娠したが、65年、単純な理由による口論から、身重にもかかわらず、ネロによって腹を蹴り殺されたといわれています(諸説あり)。ポッパエア死後は、ポッパエアに酷似した解放男性奴隷(スポルス・サビナ)を去勢し、”侍女”として側近に置くなど、ネロの性格破綻はますます顕著になっていきました。
 こうした中、64年にローマで大火がおこり、市の大半が焼失、これをローマ市民はネロ帝が”黄金宮殿”の建設を口実として放火したと噂するようになりました。この噂を抑圧するため、ネロ帝は当時増えつつあったキリスト教徒に目を向け、大火の責任を彼らに転嫁しました。この時代の皇帝は現人神(あらひとがみ)として崇拝(皇帝崇拝)する観念を重んじ、皇帝の権威を強力なものとしていました。崇拝を拒否すると謀反罪に問われるため、キリスト教徒は、常に標的となっていました。ネロ帝は皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒を謀反とみなし、未曾有の大弾圧を行いました。歴史上初めてのキリスト教徒への大迫害です。キリスト教の始祖イエス(B.C.7/B.C.4?-A.D.30?)の十二使徒の1人ペテロ(?-A.D.64?)や、十二使徒ではないが伝道に尽力したパウロ(?-A.D.64?。”異邦人の使徒”)らは、この迫害で殉教したと伝えられています。
 ネロ帝の動向に困惑した元老院や軍隊は、彼を見限るようになりました。65年には元老院議員のネロ帝暗殺の陰謀が発覚し、これに加担した多数の人物を処刑しました。かつての師セネカも事件に関与したとされ、ネロに自殺を強要されて、死に至ったとされております。この事件によってネロ帝の恐怖政治はエスカレートし、属州(イタリア半島以外の征服地。総督や徴税請負人によって、属州民は束縛された)に重税を負担させ、富裕者から財産を略奪し、拒む者は処刑されました。ネロにかわる次期皇帝候補の人物も次々に殺していきます。66年には、A.D.6年から属州となっていたユダヤで、4年に及ぶユダヤ戦争(66-70)が勃発しましたが、総督による皇帝崇拝の強要、徴税請負人による重税賦課などからくるローマ帝国への怒りが大反乱となりました。その間、ネロはギリシア文化を好み、ギリシア旅行の際、オリンピアやデルフィの競技に強引に参加したほか、詩作や歌唱にも興じたりするなど享楽に耽っていました。
 これによりネロ帝に対する信望は薄れ、68年、ガリア(現フランス地方)の総督が反乱を起こしました。これがヒスパニア(現スペイン地方)に波及し、同地のガルバ総督(B.C.3-A.D.69)が挙兵しローマに進軍しました。この年ガルバは皇帝即位の宣言を行い(位68-69)、元老院はこれを認め、ネロを”敵”とみなし、ネロ本人が不在のまま”死刑”を宣告しました。元老院、軍隊、市民から見放されたネロはローマを逃れ、同68年、”世界は偉大なる芸術家を死して失う”という言葉を残して、自殺を選んだのです(享年30歳)。これにより、アウグストゥス帝から続いたユリウス・クラウディウス朝は遂に断絶したのでした。
引用文献:『世界史の目 第38話』より

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