1月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
紀元前49年1月10日は、共和政がしかれたローマで、ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100-紀元前44)がルビコン川の渡河を決行した日です。
内乱の一世紀の渦中にあった古代ローマでは、紀元前60年、カエサルはグナエウス・ポンペイウス(紀元前106-紀元前48)、マルクス・リキニウス・クラッスス(紀元前115?-紀元前53)と密約を結び、3人で当時の統治機関だった元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意、第1回三頭政治(紀元前60-紀元前53)によって実力による支配体制を強行、カエサルは翌紀元前59年にコンスル(ローマの執政官)に選出されました。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススは強国パルティア(紀元前247?-紀元後224)と支配を巡り争っているシリア地方、そしてカエサルはいまだ未開のガリア地方(現フランス地方)の軍令権を得て、統治しました。
紀元前58年、カエサルはケルト系民族のいるガリア地方やブリタニア(現イングランド地方)地方へ赴き、同民族を平定、そして初めてライン川も渡ってゲルマン人も抑えました(ガリア遠征。紀元前58-紀元前51)。この時カエサルに従軍した部将の中に、のちにカエサルの副官として活躍するアントニウス(紀元前82-紀元前30。閥族派出身)もいました。アルプス以北をローマ領としたカエサルは、遠征地に高額の租税を課し、巨富を得ました。ガリア遠征が終わったカエサルは、紀元前51年、簡潔な文体で遠征の経過を記述した『ガリア戦記』を発表しています。こうしてカエサルは三頭政治以上の活躍を見せ始めたので、とりわけポンペイウスは彼を嫉視するようになりました。カエサルの娘ユリア(紀元前83?-紀元前54)はポンペイウスの妻となっていましたが、紀元前54年にユリアが死亡し、姻戚関係が途切れたことで、カエサルとポンペイウスとの破綻は決定的となりました。一方でクラッススはコンスルに再選出され(紀元前55)、遠征地パルティアとの戦争のため、息子とユーフラテス川を渡ってシリア地方にむかうも、パルティア軍の反撃にあい、紀元前53年、同川沿いの町カルラエで息子と共に戦死し、ここに第1回三頭政治は事実上終結しました。
クラッスス戦死による三頭政治の崩壊は、残されたカエサル、ポンペイウスの統治権も喪失したのも同様でした。元老院は威信回帰のため、カエサル軍の解散とローマへの召還を決議しました。カエサルを妬むポンペイウスも遂に妥協・結託して元老院と手を結び、カエサルと戦闘を交えることを決意しました(紀元前49)。
生まれ故郷ローマが敵となったカエサル軍は、この時ガリアから南下し、イタリア北国境を流れるルビコン川にいました。陽の当たった紀元前49年1月10日、カエサルは「賽(さい)は投げられた」と発して、軍を率いてローマに進撃しました。カエサル自ら内乱に身を投じた形となり、ローマを占領するのでした。
引用文献『世界史の目 第30話』
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