2月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

1405年2月8日は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)最後の皇帝、コンスタンティノス11世の出生年月日です(1405-53。帝位1449-53)。
1449年、ビザンツ帝国パラエロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)の皇帝としてコンスタンティノス11世は即位しました。彼の治世では、オスマン帝国との対戦に終始します。オスマン帝国(1281-1922)のメフメト2世(位位1444-46,1451-81)の攻撃が始まりました。奇策である”艦船の山越え“でもってビザンツ帝国領内に入り、首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)を包囲しました。
コンスタンティノープルを包囲したメフメト2世は、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世に対して即時降伏および首都明け渡しを要求しました。またこれを条件に、皇帝の退位後の保障や、ギリシア南部のモレアス専制公国領の領有権を約束しました。
当時のビザンツ帝国は10万のオスマン軍に対し、わずか7千のローマ軍と少数のジェノヴァの援軍という不利な状況でしたが、コンスタンティノス11世はそれでもローマ皇帝として帝国を残すことを選択し、オスマン軍からの防衛を貫くことを決意、メフメト2世の要求をすべて拒否しました(1453.5.23)。これにより、オスマン軍の総攻撃が始まりました。
オスマン軍の出陣からほぼ2ヶ月経った1453年5月28日、すでに防戦一方の展開となっている東ローマ軍も、徐々に力が尽きていきました。同日夜、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は宮殿内にて、帝国の最期を予感するも最後まで戦い残った家臣や兵士たちに、これまでの健闘に対して賛辞を送りました。そして全員は最後まで戦うことを誓い合い、別れの言葉をお互いに告げました。皇帝コンスタンティノス11世は祖国の誇るハギア・ソフィア大聖堂にて、多くの人々とともに最後の祈りを神に捧げた後、自身の愚かさで首都陥落の危機を迎えたことを家臣に一人ずつ謝罪したのです。
防戦一方だったビザンツ軍もとうとう力尽きてしまいました。翌1453年5月29日未明、遂にオスマン軍は中心であるイェニチェリの執念によって城壁を突破することに成功しました。城壁になびくオスマン帝国旗を見たコンスタンティノス11世は、身につけていた東ローマ帝国の紋章”双頭の鷲“を剥ぎ取り、絢爛たる帝衣を脱ぎ捨て、剣を抜いて、自軍とともに首都を制圧したオスマン帝国の軍隊に突入していきました。異教徒の敵軍に飛び込んだコンスタンティノス11世は「私の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、果敢にオスマン軍と戦いましたが、帝はこの戦いで没したとされており、その後の消息はさだかではありません。これにより、首都コンスタンティノープルは陥落、初代ローマ皇帝アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)にはじまるローマ皇帝の継承はここで断絶を迎えビザンツ帝国こと東ローマ帝国は滅亡したのです(1453.5.29)。
引用文献『世界史の目 第202話』より

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