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我が胸を撃て!!・その1
~ファッショ誕生!~
1915年、第一次世界大戦(1914-18)勃発後のイタリア(イタリア王国。1861-1946)では、オーストリアによって回収できていない領土("未回収のイタリア"。イタリア・イレデンタ。トリエステ、南チロル、フィウメなど)の問題を抱えていた。この問題に際し、イタリアは三国協商(1907-17。イギリス・フランス・ロシア)との間に結ばれたロンドン秘密協定(ロンドン条約。1915.4.26)によって、"未回収のイタリア"の返還が保障されたため、当時初属していた三国同盟(1882-1915。ドイツ・イタリア・オーストリア)を離脱し、三国協商側にまわってオーストリアに宣戦布告した(1915.5)。
1918年に大戦が終わり、三国協商側(連合国側)が勝利となった。戦勝国となったイタリアのヴィットーリオ=エマヌエーレ=オルランド首相(任1917-19)は1919年パリ講和会議に出席し、未回収のイタリアの返還がすすめられた。大半の返還が実現できたものの、全人口の9割近くがイタリア人で占められたフィウメ(現クロアチアのリエカ)が回収できず、同地はユーゴスラヴィア領となり、全回収とならなかったオルランド内閣は崩壊した。1919年9月、イタリアの耽美主義詩人で右翼過激派のガブリエーレ=ダヌンツィオ(1863-1938)はこの決定に激怒し、フィウメを武力占領する一幕もあったが、翌1920年、占領は解かれてフィウメは独立自由市となった(ラパロ条約。1920)。
しかしダヌンツィオのこの行動はイタリア国民に鮮烈に頭に刻み込まれた。ダヌンツィオは右手を挙げた敬礼、身振り手振りを交えて大衆へ呼び掛ける演説、黒シャツ隊と呼ばれる武装集団の、武力・暴力による弾圧方法などの政治活動は、ある男に大いなる影響を与えたとされる。その男こそ、イタリア=ファシズムを確立させた人物、ベニート=ムッソリーニ(ベニート=アミルカレ=アンドレア=ムッソリーニ。1883.7.29-1945.4.28)である。
ムッソリーニは1883年7月、北イタリアのプレダッピオ(エミリア=ロマーニャ州)に生まれた。父は鍛冶屋で、母は教師であった。かつてメキシコで保守派に勝利して大統領となり、フランスの圧力に抵抗したベニート=フアレス(1806-1872。メキシコ大統領任1861-63,67-72)に因んで、無神論者であり社会主義者である父よりベニートと名付けられた。やがてムッソリーニは社会主義と愛国心からくる国粋主義の双方を合わせ持つ思想を主張するようになった。教職時代を経て、20代前半に、スイスへ移住し、そこで亡命中のウラジーミル=レーニン(1870-1924)に出会う。レーニンの影響を受けたムッソリーニは次第に政治に関心を抱くようになった。帰国後は1906年まで兵役に就き、その後は教職に復帰しながら政治活動を続け、1908年にイタリア社会党(PSI。1892-1994)に入党した。
1892年創立のイタリア社会党は、創立時はイタリア社会主義を中心とする左翼政党であった。イタリアが第一次世界大戦への参戦する前、党は反戦論を掲げていたが、ムッソリーニは自ら編集長をつとめた党機関紙『前進(アヴァンティ)』にて大戦参戦論を主張したため、1914年、党から除名処分を受けた。
翌1915年、ムッソリーニは二度目の結婚を果たした(社会党入党時に最初の結婚を経験するも離婚)。相手はラケーレ=グイーディ(1890-1979)といい、5子をなした。しかしムッソリーニには生涯を通じて、家族とは別に幾人かと愛人関係があったとされている。
大戦終了後、戦勝国でありながら、不十分な領土獲得、戦後インフレによる社会混乱などで、農民や労働者らによる労働運動・社会運動が拡大する(1919年から翌20年にかけて激化した左翼運動を"赤い2年間"と呼ぶ)。こうした中でイタリア社会党はこれらを支持基盤に規模が拡大していった。そして、1919年11月の総選挙で、イタリア社会党は156議席を獲得して第1党に躍り出た(ちなみに第2党は100議席を獲得したイタリア初のカトリック政党であるイタリア人民党。キリスト教民主党の前身)。左翼勢力の台頭で、これまでの自由主義路線のイタリア統治から、大きな転換期に直面した。一方ムッソリーニはミラノでナショナリストを集結してファッショ(ファッシ。古代ローマ時代の独裁官や執政官の従者が携えていたファスケス【外部リンクから引用】に由来。"権威"を表す斧の柄のまわりに"一団"を意味する木棒が束ねられている、権力・結束・団結の象徴)を結成し、発展してナショナリズムを主張する国家的組織"イタリア戦闘ファッショ(イタリア戦闘者ファッシ)"の結党へと至った(1919.3)。
イタリア戦闘ファッショは、結成当初はサンディカリスム(労働組合中心主義。ゼネストによって革命をおこすことを考え、議会や政府に対して否定的)の内容が多かった。労働者の最低賃金制度の見直し、自作農の助成、そして共和主義・国粋主義の立場から主張した、イタリア王政の廃止などである。11月総選挙でイタリア社会党が154議席を獲得したのに対し、イタリア戦闘ファッショからは当選者は出ず、勢力としてはかなり弱かった。
イタリアの戦後インフレは1920年になっても続き、4月から9月にかけて、北イタリアによる農業労働者の大規模なストライキが起こり、トリノでも労働者の工場占拠などがおこった(北イタリアのストライキ。1920)。これらは失敗に終わったが、こうした社会革命に期待した労働者や小市民層らを支持基盤にしていたイタリア社会党左派は、1921年はじめにイタリア共産党(PCI。1921-91)を結党し、イタリア社会党から離脱した。その後も小規模ながら小作争議や工場占拠などの革命的な暴動は頻繁に起こり、"赤い2年間"の不安定情勢は続いた。イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(位1900-46)はこの混乱を当時の自由主義政権(フランシスコ=ニッティ政権(1919-20)およびジョヴァンニ=ジョリッティ政権(1920-21)の両政権)では収拾できないと嘆き、サヴォイア王家支持を維持する目的もあって、国民に人気のあるムッソリーニのファッショに期待をかけるようになっていった。
こうした革命的暴動に対して、大きな危機感を持つ地主層や、退役軍人、あるいは中産階級層である中小産業資本家や都市商工業者、中小自営農民らは、1920年後半より一連の社会運動・労働運動を暴力で押さえ込む武装行動隊(農村ファシズム、スクァドラ)を結成した。イタリア戦闘ファッショはこれらの支持を取り付け、彼らと連携して黒シャツ隊を組織して勢力を拡大していくと、軍部や官僚の一部からも支持を取り付け、武器や資金の援助を受け、農民や労働者の革命的行動を暴力的に鎮圧した。
1921年5月の総選挙では、初の2議席を獲得して躍進、党員数も10万人規模に達した。ムッソリーニは同年秋、すでにイタリア戦闘ファッショを改組して「(国家)ファシスト党(Partito Nazionale Fascista。PNF)」を誕生させた(1921.11.9-1943.7.27)。翌1922年は2度のゼネスト(1922.5,22.8)が勃発したが、当のイタリア自由党政権(ルイージ=ファクタ政権。任1922.2-22.10)では解決できず、ムッソリーニの黒シャツ隊によってすべて鎮圧された。これによりファクタ政権はヴィットーリオ=エマヌエーレ3世にあまり支持されなくなった。
そして、ムッソリーニにとって、運命の時が来た。1922年の秋のことであった。10月24日のナポリでの党大会で、ムッソリーニは政権奪取とファクタ首相の退陣要求の宣言を行った。そして、1922年10月27日夜、ムッソリーニの指示のもと、党書記長ミケーレ=ビアンキ(1883-1930)、黒シャツ隊リーダーのイタロ=バルボ(1896-1940)、党の共同設立者で大戦期は陸軍元帥だったエミリオ=デ=ボーノ(1866-1944)、そして代議士チェザレ=マリア=デ=ヴェッキ(1884-1959)といったムッソリーニの良き理解者であり、ファシスト党をまとめる4首脳(ファシスト四天王)の尽力で、ファシスト党員による黒シャツ隊による、首都ローマに向けての軍事的示威行動が行われた。史上初のファシズム政権を誕生させるためのローマ進軍が行われたのである。このクーデタに対し、ファクタ政権は進軍阻止による戒厳令の指示を国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世に求めたが、ファクタ首相の要求は却下、ファクタを罷免した。進軍完了(10月30日)の直後、ミラノからローマに入ったムッソリーニは、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世より正式に組閣を命じられ、ムッソリーニは首相に就任(ムッソリーニ首相就任。任1922.10.31-43.7.25)、史上初のファシズム政権が誕生した。ムッソリーニはファシスト党統帥(Duce。ドゥーチェ。統領。首席。総統)であり、イタリア王国首相、名実ともにファシズムによるイタリア統治を実行することになったのである(他に内相、外相、陸・海・空軍の大臣にも就任)。ただし第一次世界大戦中に軍功をおさめ、参謀総長をも歴任していたピエトロ=バドリオ(1871-1956。参謀総長任1919-21,25-28,33-40)は、常にファシスト党の存在を否定し続けた。
首相に就任したムッソリーニは同1922年12月、政府首脳とファシスト党幹部で構成するファシズム大評議会(Gran Consiglio del Fascismo)の設置を決定した。評議長はムッソリーニで、党最高幹部であるファシスト四天王が脇を固め、ファシスト党および黒シャツ隊の調整・統制・審議を行う機関である。1923年1月、ローマで第1回の評議会が開催された。同年秋では、この大評議会を、ファシズムに関するあらゆる組織・団体をとりまとめる最高機関として決められた。
1923年には新選挙法を制定してファシスト党の議席獲得を容易にし、権力集中がなおいっそう強化された。また黒シャツ隊は国防義勇軍として国家の軍として編入され、国王の承認を得た。翌1924年3月には、ムッソリーニ首相は自由市フィウメを併合し(フィウメ併合。1924.3)、ファシスト政権では初の海外領土の領有となった。またムッソリーニ政権を批判していた社会主義者ジャコモ=マッテオッティ(1885-1924。イタリア統一社会党書記長)暗殺事件(1924)ではファシスト党員が逮捕されたが、すぐに全員釈放された。続く1925年には労組解散と言論出版規制、そして翌1926年にはついに他の政党を次々と解散させて一党独裁体制をうち立てた。なおこの年はアルバニアの首都ティラナで条約を結び、アルバニアにイタリア軍を駐屯させることを取り決めた年でもあり、事実上の保護国化であった(イタリアのアルバニア保護国化。1926)。
1928年12月、ファシズム大評議会は正式な国家機関として法制化され、"ファシズムの諮問機関"であると同時に"国家の諮問機関"となった。党関係だけでなく、上院・下院の各議長や政府の官僚、組合長、王立学会長、裁判所長、軍総司令官も参加し、議会、政府、軍隊、労働組合といった各部門にもその諮問と審議が及んだ(ただし各部門の決定権までは握っていない)。そして翌1929年、イタリア統一後も断交状態にあったローマ教皇庁(ヴァチカンおよびラテラン宮殿)とは、ラテラン条約(ラテラノ条約)で和解し、イタリア政府とローマ教皇庁との関係を正常化した。よって教皇庁の囚人状態から解放され、ヴァチカン市国が誕生(1929)、ローマ教皇ピウス11世(任1922-39)はムッソリーニを大いに讃えた。ムッソリーニ政権は、ローマ教皇およびカトリック教徒の支持をも取り付けた。
国民に対しては、労働の後の余暇を通じてファシズムに親しませる組織"ドーポ=ラボーロ(全国余暇事業団)"を導入した。労働と同規模の娯楽を提供することで、ファシスト政権への理解と、労働力の増大を狙った。これはのちのナチス=ドイツにおいてアドルフ=ヒトラー(1889-1945)の行った"歓喜力行団(KDF)"として受け継がれた。
やがて世界恐慌(1929)の波がイタリアにも押し寄せ(1930)、農業生産の水準が大きく落ち込んだ。また英仏列強のブロック経済政策の影響をまともに受けたため、貿易部門も急激に下降線をたどっていった。ムッソリーニ政権は恐慌対策として、まず週40時間労働制を採用して失業者増加を抑えたが、景気回復がなかなか進まなかったため、国民のムッソリーニ政権への支持率が下がり始めた。イタリアは天然資源を有せず、植民地も"アフリカの角"に相当する東アフリカのエリトリアとソマリランド(現在のソマリア南部)を領有するのみで、いわば"持たざる国"であったが、イタリア国民の不満をそらす意味でも、対外進出は不可欠であった。
ムッソリーニは数少ない植民地である北のエリトリアと南のソマリランドに挟まれたキリスト教国家・エチオピア帝国(1270-1975)に向けて入念な侵略計画を立て、1935年、遂に大規模な対外進出を開始することになる。
208話にして初めてムッソリーニをメインにたててご紹介しました。ヒトラー同様、ファシズムの代表格として挙げられる人物です。まずは世界恐慌に突入した時代までをご紹介しました。
さて、今回における受験世界史の学習ポイントです。北イタリアのストライキが発端でファシズム勢力が発展し、ミラノでムッソリーニによって結成されたファシスト党による1922年10月のローマ進軍によって政権を勝ち取り、ムッソリーニは首相となり、ファシズム大評議会を結成して党の規模を拡大し、一党独裁体制を築き上げ、1924年にフィウメを併合して、1926年にアルバニアを保護国化して、1929年にラテラン条約でヴァチカン市国を誕生させた、といった流れは非常に重要です。年号、事件名、内容はすべて入試頻出事項です。人物では、今回はムッソリーニだけ覚えておけば大丈夫ですが、余裕があれば当時の国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世、併合前のフィウメで武力占領したダヌンツィオあたりはマイナー系ですが、問題文でたまに登場することがあります。ファシスト四天王や、ローマ進軍時のファクタ政権などは入試に登場することはないと思います。
またファシズム大評議会が登場しましたが、1928年に党の機関から国家の機関となったことも大事で、世界恐慌の前年です。恐慌によって"持てる国"である各先進国がブロック経済という排他的市場操作を行ったため、市場から締め出された"持たざる国"であるファシズムのイタリア、ナチズムのドイツ、ミリタリズム(軍国主義)の日本が、対外進出によって現状を打破していくという流れになっていきます。その中で、いち早くファシズムの政権として国家を支配していたイタリアが(ドイツはヒトラーの首相就任が1933年、日本では諸説ありますが大政翼賛会が成立した1940年)、遂に対外侵攻を企てます。続きは次回にて。
【外部リンク】・・・wikipediaより