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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第271話


グラキュースのユートピア
~平等という名の陰謀事件~

 フランス革命(1789-99)が勃発して5年、ジャコバン最左派である山岳派が行ったジャコバン独裁、いわゆる恐怖政治1794年7月27日に穏健共和派が敢行したテルミドール9日のクーデタによって終わりを告げた(テルミドールは革命暦で、7月下旬から8月下旬の「熱月」。革命暦11番目の月を示す)。クーデタを敢行した反山岳派のジャコバン穏健共和派はブルジョアジー階級に支持されたテルミドール派(テルミドリアン熱月派)と呼ばれ、その中心でクーデタの首謀者ポール=バラス(1755-1829)やジャン・ランベール=タリアン(1762-1820)らは国民公会(1792-95間に革命政治を主導した一院制議会の立法府)より地方に派遣された議員(国民公会派遣議員。Representative on Mission)だった。

  クーデタ翌日以降、テルミドール派は恐怖政治を主導したマクシミリアン=ロベスピエール(1758-94)ら山岳派の主要人物を断頭台に送り、11月には革命を牽引してきたジャコバン派の源泉であったジャコバン=クラブ(フイヤン派ジロンド派、山岳派を産み出した政治クラブ)も閉鎖された。
 テルミドール派の主導となった1794年後半の国民公会では、まず経済政策に踏み切った。かつての山岳派による恐怖政治下では、ブルジョアジーや富農家の経済抑制を図り、価格統制(1793年5月発布の最高価格令)による物価の高騰や、貿易統制による輸出入の自由化が抑えられていたが、テルミドール派はこれらを撤廃して価格と貿易の自由化を促した。
 外政においても、まず革命戦争による講和を急いだ。1795年4月にはプロイセン王国(1701-1918)、翌5月にはオランダ、7月にはスペインと講和を締結した。また信教の自由の側面から、革命初期の1790年に発布されていた聖職者民事基本法(カトリック教会をフランス国家が管理する法律)を撤廃して政教分離を促し、ローマ教皇庁との融和を図った。
 憲法では、"ジャコバン憲法"と呼ばれるも施行に至らなかった1793年憲法を改正し、1795年8月にて新憲法が制定され、9月23日に正式公布された(1795年憲法共和暦3年憲法とも)。憲法に基づいて国民公会は10月26日にて解体が決まり、二院制(上院に当たる"元老会"と下院にあたる"五百人会"で構成)の立法府、行政府は任期5年の5名の総裁が行政を担当する。これが「総裁政府(Directoire。1795-99)」で、1795年11月2日に樹立することが決まった。「総裁政府」樹立に伴い、"公安委員会"、"革命裁判所"、"保安委員会"といった恐怖政治を推進した機関は解散・廃止の方向へ向かった。

 民主化、自由化、対外和平を推進したテルミドール派であったが、外政ではオーストリアとの講和は実現されず、戦闘は続いた。また経済の自由化は革命政府紙幣であるアッシニア紙幣の乱発を招き、その後インフレーションに見舞われた。こうした失政が続いてもブルジョアジー有利の共和政策が続いたことで、特に第一共和政(1792-1804)の反対を主張する王党派中心の反政府派は、総裁政府への不満から1795年10月5日に反乱を起こし、国民公会のあるテュイルリー宮殿を襲撃した(王党派の反乱ヴァンデミエール13日のクーデタ。ヴァンデミエールは革命暦で、9月下旬から10月下旬の「葡萄月」。革命暦1番目の月を示す)。総裁政府樹立直前での反乱勃発により、バラスは軍司令官を任され、副司令官としてナポレオン=ボナパルト(1769-1821)が任命された。砲兵隊を率いたナポレオンは、パリのサン=ロック教会(サントノレ通り286番地)一帯を砲撃して反政府派を圧倒し撃退に成功、バラスは軍功をあげたナポレオンを軍の総司令官に昇格させた。

 国民公会は1795年10月26日にて解散し、31日、総裁政府の5総裁が選出された。結果、バラス、ラザール=カルノー(1753-1823)、ジャン・フランソワ=ルーベル(1747-1807)、ルイ・マリー=ド=ラ=ルヴェリエール・レポー(1753-1824)、エティエンヌ・フランソワ=ル=トゥルヌール(1751-1817)といった、戦功のあった軍人やもと国民公会議員で構成された。そして11月2日、立法府は五百人会と元老会による二院制議会、行政府は総裁政府の樹立が誕生した(総裁政府1795.11.2-1799.11.10)。バラスはもともとジャコバン派出身の貴族であるために改革肌の政治家で、ルーベルやルヴェリエールも思想は異なるもののジャコバン系で、同じく改革肌の政治を目指していた。
 
 総裁政府は、まず不安定な経済政策に着手した。急落の止まらないアッシニア紙幣を1796年3月に停止することを決め、紙幣回収に乗り出した。代わりに土地手形(マンダ=テリトリオと呼ばれる)を紙幣として発行するが、ブルジョア階級にしてみれば、大量に保有するも無価値となったアッシニアの代わりに、所有する土地手形が新たな紙幣となったためありがたい救済となり、非ブルジョア階級にしてみれば不満が噴出、国内では総裁政府に対する支持が早くも揺れ動きだした。
 外交軍事面では、軍司令官ナポレオンがイタリアにむけて軍事活動を開始した(イタリア遠征。1796-97)。4月に始まった対オーストリア戦、対サルディーニャ戦での連戦連勝で、5月にはミラノ進駐を果たし、サヴォイとニースを含むサルディーニャの大陸領土をオーストリアから獲得した(ケラスコの休戦協定。1796.4.28)。経済不安定からくる社会不安とは対照的に、軍事面ではナポレオンの活躍で、フランス国民の大きな拠り所となっていった。

 国民の社会不安はなにも経済問題からくるだけではなく、政府が過激に変貌を遂げることも恐れていた。総裁政府は憲法に基づいていたことで、革命前のアンシャン=レジーム(絶対王政期の封建的特権重視)や、革命後における山岳派独裁時代の恐怖政治のどちらにも傾かない姿勢で行政を安定させようとするものの、政府決定には王党派の反発は当然としてあり、さらに政府は自由主義的なブルジョア共和政治を前提に推進するため、ブルジョワ階級が優先される政治に対して、全国民が支持するわけがなかった。一部では、ブルジョワジー有利にはたらく共和政を批判して、国民社会の平等化を主張する勢力も現れるのである。その第一人者がフランソワ=ノエル=バブーフ(1760-97)という人物であった。

 バブーフは、北フランスのサン=カンタン(現オー=ド=フランス地方エーヌ県)において、1760年、長男として出生した。父はもと軍人だったが大成せず、失業していたため、家は貧困に喘いだ。1780年に父が没し、翌々年に結婚、3児を儲けた。アンシャン=レジーム時代の1784年、土地台帳の監査役人となったバブーフは、封建領主の不正を取り締まるも、私有土地制度の法網をかいくぐる封建領主が後を絶たず、現状での自身の立場での限界を感じ、抜本的な改革がなければ現状は変えられないと痛感し、こうした現状の腐敗が貧富の差を産み出していると考えるようになっていった。バブーフはジャン・ジャック=ルソー(1712-78)のような啓蒙思想の書物を好んで読むようになり、この影響から制度の啓蒙化をうったえるようになっていった。こうしてバブーフは、革命精神を育んでいくのであった。

 1789年、バブーフはパリで"Cadastre perpétuel(『永久土地台帳』)"を著して、領主裁判権などに代表される封建的特権の現状や、封建領地の均分や地代是正などを主張していたが、矢先の7月にフランス革命が勃発した。バブーフは市民の暴動を目の当たりにし、ジャコバン=クラブに入会して自身も活動を開始を決め、地方の役職にも身を置く一方で、税制や封建的特権への反発運動で幾度か逮捕歴を重ねた。
 ジャコバン最左派とされた山岳派の中では中心のロベスピエール派のほかにも穏健派のダントン派と急進派のエベール派が存在し、バブーフはジャコバン派の中でも過激な急進派である、エベール派寄りの思想を信奉した(もともとはロベスピエール派寄りであったが、独裁時代では恐怖政治を主導する同派の行政手法や施策に賛同できなかった)。リーダーのジャック=ルネ=エベール(1757-94)は主にサン=キュロット層(貧困層。賃金労働者や手工業者ら無産市民)に支持され、王党派やブルジョアジーらを批判する他、キリスト教を百害として否定し、新たなる祭祀"理性の崇拝"を企画するなどの凄腕で知られた。

 しかし1794年3月にはエベールが反乱失敗の咎めを受けて処刑され、エベール派は潰滅、さらには7月27日のテルミドールのクーデタで山岳派を含むジャコバン派自体の活動は終焉を迎えた。こうした情勢のもとで、バブーフはブルジョア階級擁護のテルミドール派に対して否定の立場を取っていった。9月、バブーフは"Le Journal de la liberté de la presse(『出版自由新聞』)"を発刊、これは翌10月には"Le Tribun du peuple(『人民の護民官』)"と改題して発刊した。"護民官"とは、共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の平民階級(プレブス)の代表であり、国家体制の主流だった貴族階級(パトリキ)に阻まれて政界進出できないプレブスの拠り所であり、プレブスの台頭を促すための価値ある存在であった。政界進出に阻まれていたサン=キュロット階級の本当の平和が実現できる時代を夢見て、バブーフは古代ローマを手本にとり、貧富の差のない平等社会を現出できるまで、活動を続けていった。この頃から、バブーフは古代ローマ時代の代表的なポプラレス(平民派)出身で護民官にまで昇りつめ、大土地所有者の土地兼併の抑制法案「センプロニウス農地法」の施行にむけて尽力しながらも、体制に阻まれて非業の死を遂げたグラックス兄弟(ティベリウス=グラックス。B.C.163-B.C.132/B.C.133?。ガイウス=グラックス。B.C.154-B.C.121)の共鳴者であると主張し、土地所有の格差廃止をうったえて、自身も兄弟の名を取って「グラキュース=バブーフ」と自称するようになった。バブーフは『人民の護民官』の中で、"Manifeste des Plébéiens「プレブスのマニフェスト(宣言)」"と表現して、私有財産の否定、土地相続の廃止、物品の平等配給、1793年憲法の復活などをうったえた。

 テルミドール派の総裁政府が誕生した1795年11月も『人民の護民官』を発刊し続け、政府より危険分子として3度目の逮捕を受け、投獄された。前述の通り、恐怖政治を現出したロベスピエールを批判していたバブーフであったが、ブルジョア共和政を施行するテルミドール派の台頭後はロベスピエールを擁護する側にまわっていた。
 バブーフは獄中でロベスピエールの信奉者と出会った。彼の名をフィリッポ=ブオナロッティ(1761-1837)といい、名からイタリア=ルネサンスの代表的芸術家であるミケランジェロ(本名はミケランジェロ=ブオナロッティ。1475-1564)の子孫といわれた、イタリア・ピサ出身の活動家であった。彼もバブーフ同様、総裁政府より危険分子として投獄された人物の一人であった。ブオナロッティはバブーフと意気投合、他にもシルヴァン=マレシャル(1750-1803)ら、反総裁政府派とされた同志が次々とバブーフのもとに集まっていった。

 釈放後のバブーフらは、失政の連続で王党派などの反政府派に抵抗されもがき苦しんでいる総裁政府を後目に、秘密結社"Club du Panthéon(パンテオン=クラブ。'平等者の会'とも。結成場所の近くにパンテオンがあったことから)"を結成し(1795.11)、呼びかけに応じた共和派(特にもとジャコバン派や反王党派)らが集まり、所属者は2000人規模に拡大した。総裁政府内ではカルノーが中心になって主張する王党派との和平案とバラスが中心になってうったえる王党派との主戦案とで意見の相違も甚だしかった。結局総裁政府は内外部それぞれの事態打開案を見いだせず、規模が拡大したパンテオン=クラブに反共和派や王党派の打倒の協力を提案した。しかしもともとパンテオン=クラブに集まった人たちは共和派の中でも急進派であり、総裁政府も目の敵にしていたため、クラブの議長にブオナロッティが任命されると、総裁政府への敵意も露わにし始め、徐々に政府批判も顕在化した(ただしクラブ内では政府協力に対して賛同者と反対者で内紛もあったとされる)。総裁政府のカルノー総裁は、パンテオン=クラブとの協力を打ち切りを発表、急進派の危険分子として同クラブの弾圧を指示、結果パンテオン=クラブは1796年2月末にて閉鎖され、バブーフらの野望は打ち砕かれたにみえた。
 
 バブーフとブオナロッティらはパンテオン=クラブ閉鎖後も地下活動を行っていた。バブーフらの計画としては、活動メンバーを総裁政府内に潜り込ませて諜報活動を行い、1795年憲法の廃止と1793年憲法の施行を決起するクーデタを起こすことであった。貧富の差と不平等をなくすための理想郷を掲げたバブーフら平等主義者たちを勝利に導くための、文字通りの政府転覆計画であった。
 しかしこの計画は脆くも崩れ去った。1795年5月10日(フロレアール21日。革命暦で、4月下旬から5月下旬の「花月」。革命暦8番目の月を示す)、決起は未然に発覚、バブーフを筆頭に、計画を起こした同志は全員逮捕された。
 すべての計画が水泡に帰した。実は、バブーフの仲間に裏切り者がいたのである。名をジョルジュ=グリゼル(1765-1812)という軍人で、バブーフの組織に同志を装って活動メンバーの中に潜り込んでいた、総裁政府が放ったスパイであった。バブーフの計画は決起寸前にグリゼルが政府に密告して発覚されたのであった。総裁政府は反政府クーデタを決起前日にて未然に防ぐことができたのである。グラックス兄弟の改革の再現にむけて計画されたバブーフのユートピアは、幻に終わった(バブーフの陰謀事件)。
 1796年10月にバブーフ、ブオナロッティらは裁判にかけられた。その後は、総裁政府はオーストリアとの戦争や、王党派の多数議会進出とこれらの排斥をバラス総裁らで実行したクーデタ(フリュクティドール18日のクーデター。フリュクティドールは革命暦で8月下旬から9月下旬の「実月」。革命暦12番目の月を示す)、インフレ抑制の失敗(アッシニアに続きマンダ=テリトリオも廃止)など多忙を極め、判決が出たのは翌1797年5月26日であった。バブーフ、ブオナロッティらは死刑が宣告された(ただブオナロッティに関しては親しい関係であったナポレオン=ボナパルトの尽力により死刑を免れた)。翌27日、バブーフはギロチン(断頭台)にかけられ、処刑された(バブーフ処刑。1797.5.27)。

 総裁政府はその後も革命戦争、財政再建、王党派の策動、憲法改正要求、総裁の内紛などが続き、しかもブルジョア擁護の政策は続いたことで、情勢は非情に不安定となり、頼みのナポレオンも1798年から始めているエジプト遠征(エジプトおよびシリア遠征。1798.7.1~1801.9.2)で、当初は勝利を収めつつも政府による救援がなかったため、海上戦で徐々にイギリス海軍相手に制圧され(アブキール湾の海戦)、苦戦を強いられていた。しかしフランス国民は自国の社会安定はもはや政府では解決できないと考えており、むしろナポレオンを中心とする軍に希望を託すようになっていた。総裁政府は国民の希望を無視するかのように、部下を置き去りにして敵前逃亡し帰国したナポレオンを非難していた。ナポレオンはこうした政府の対応を逆手に取り、政府転覆を計画、1799年11月9日、軍事クーデタを起こした。これにより総裁政府は倒れ、ナポレオンを第一統領とする統領政府(1799.11.10-1804.5.18)が誕生した。世に言う、ブリュメール18日のクーデタである(ブリュメールは革命暦で10月下旬から11月下旬の「霧月」。革命暦2番目の月を示す)。市民によって起こされたフランス革命は、ここに終結を向かえ、ナポレオン時代は統領政府からやがて第一帝政(1804.5.18-1814-4.11。百日天下1815.3.20-1815.7.7)まで続き、ナポレオン失脚後のフランスはウィーン体制へと向かう。

 バブーフ処刑後のブオナロッティは、皇帝となったナポレオンによって釈放が認められ、1806年以降はジュネーヴやブリュッセルで革命結社を組織して活動を続け、あるいはイタリアの反ウィーン体制によるカルボナリ党(立憲自由主義とナショナリズムを掲げるナポリの革命組織)にも関わった。ウィーン体制下のヨーロッパは保守反動に包まれ、フランスにおいてもブルボン復古王政(1814-15,15-30)下だった1828年、より革命の気運が高まっていた中で、ブオナロッティは共和主義者の心をくすぐらせようと、同志だったバブーフが実現を望んでいた平等主義による改革を世に知らしめるため、"Conspiration pour l'Égalite, dite de Babeuf(『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』または『バブーフ陰謀史』)"を著し、ブリュッセルで発刊、陰謀事件とされた全貌を明らかにした。当初は話題にのぼらなかったが、1830年にフランス七月革命(1830.7.27-7.29。栄光の3日間)が起こるも王政が続いたことを嘆いた共和主義者たちの間でバブーフの名が広まった。さらにブオナロッティは同著において、未来を背負う階級が旧体制を倒して政治権力を握り、新しい社会を構成するために国民を啓蒙していく"革命独裁(Revolutionsdiktatur)"の概念を打ち立てたのである。

 平等社会実現にむけた改革は、フランスでは1848年の二月革命(1848.2.23-12.2)において、ブルジョアジー階級ではなく、無産階級(プロレタリアート)を主体とした平等社会の実現が試され、1871年でのパリ=コミューン(1871.3.26-5.28)は一時的な活動であったが、バブーフの理想社会に近づいており、バブーフを信奉して止まなかったルイ=オーギュスト=ブランキ(1805-81)は人民による独裁を主張して、パリ・コミューン政権から大いに慕われた。プロレタリアートによる革命的な階級独裁で、完全なる平等主義を実現しようとしたバブーフの思想は、その後の"共産主義"との接点を数多く産み出し、"平等主義のバブーフ"だけでなく、"共産主義のバブーフ"としても評価されるようになったのである。  

 "独裁"、"共産主義(コミュニズム)"という言葉を初めて使用した人物とされているバブーフの生涯を、終盤に差し掛かったフランス革命期の歴史内容と合わせてご紹介しました。およそ一年ぶりの『世界史の目』の更新であります。

 ヨーロッパの歴史の中で、過激かつ華やかな時代と言えばフランス革命が真っ先に思い起こされますが、本編では革命期の中でも最も地味な印象が強い、"総裁政府"の時代をクローズアップしました。直前の段階がジャコバンの恐怖政治、直後の段階がナポレオン時代なので、余計に地味な印象を与えてしまうと思いますが、バブーフの陰謀だけでなく、ナポレオンが台頭してくるのも総裁政府の時代ですし、イタリア遠征やエジプト遠征もこの時代が始まりです。

 では大学受験での学習ポイントを見て参りましょう。テルミドールのクーデタ(1794)、総裁政府(1795-99)、ブリュメールのクーデタ(1799)、統領政府(1799-1804)....言うまでもなくこの流れは重要です。総裁政府絡みでは、ブルジョアジー階級主体の革命政府であること、不安定な政府であったこと、1795年憲法を制定したこと、王党派との対立が甚だしかったこと、王党派の反乱をナポレオン軍が鎮圧したこと、そしてバブーフの陰謀事件があったことあたりをチェックしておきましょう。言うまでもなくバブーフ陰謀事件は革命を起こす前に発覚され、彼も処刑されたので、未遂事件です。1795年憲法はブルジョアジー階級有利の憲法で、参政権も資産のある人(納税者)に限られるなど制限選挙が敷かれたことも大事です。難関私大などでは"テルミドリアン(熱月派)"、"総裁は5人で構成"、"バブーフは私有財産を認めなかった"なども知っておくと便利です。

 余談ですが、本編にバラス総裁という人物が登場しました。総裁職を一貫して保持し続けた人物で、政治の腐敗が進む中でも私腹を肥やし、最後まで生き残る図太さからあまり良いイメージは沸きませんが、実は彼の愛人はナポレオンの最初の妻であるジョセフィーヌ(1763-1814)でした。交際期間はテルミドールのクーデタ以降からナポレオンと1796年に結婚するまでの期間だったとされていますが、バラスの総裁政府がそのナポレオンに倒されるのは、非常に興味深いですね。

【外部リンク】wikipediaより
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。