12月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1241年12月11日は、チンギス・ハン(1162-1227。太祖。帝位1206-27)の三男でモンゴル帝国(狭義1206-71。広義1206-1634)の第2代皇帝、オゴタイ・ハン(オゴデイ。1186-1241。帝位1229-41)の没年月日です。
 チンギス没後の2年間は空位時代が続きましたが、1229年、チンギスの四男トゥルイ(1193-1232)の召集によって、ハン継承者選定のクリルタイ(モンゴル語で”集会”の意味)が開催され、オゴタイが次期皇帝として選出されました。次男チャガタイ(1178?/1185?/1186?-1242)やトゥルイの名も挙がりましたが、チンギスの子の中では、オゴタイが最も温厚な性格で、長男ジュチ(1177?/84?-1224?/25?)と次男チャガタイが不和になるとすかさず調停するという役割を果たし、チンギスもオゴタイを後継者として認めていたとされています。トゥルイは末子ということでチンギスから最も寵愛を受けましたが、チンギスの遺命と、トゥルイ自身による兄弟関係の安定を重視して、オゴタイを推挙しました。帝国では末子相続の慣習でモンゴル本国の領有権が与えられますが、トゥルイは皇帝にも立候補せず、監国(執政)を担当して、オゴタイ擁立後、本国領有権もオゴタイに譲ることによって兄弟間の亀裂(つまり帝国分裂)を未然に防ぎました。よって、モンゴル帝国第2代皇帝としてオゴタイ・ハン(オゴタイ・カァン)が即位し(廟号:太宗。位1229-41)、チンギスの遺志を継承することを宣言しました。オゴタイは父の時から仕えていた、遼(916-1125。契丹族の国家)の遺臣で諸学問に通じた耶律楚材(やりつそざい。1190-1244)を続けて重用し、都をオルコン川右岸のカラコルム(和林)に定めて、ジャムチ制度(主要道路に駅を設けて管理人を置き、宿泊や交通、搬送手段を提供する駅伝制。駅を”ジャム”、管理人を”ジャムチ”といいます)を拡大して公道を多数建設しました。また新しい領土に戸口調査を実施して新しい税制を定め、帝国進展に努めました。また1231年には再び勢いづいたホラズム・シャー朝(1077-1231。アムダリア川下流域のホラズム地方に興っていたトルコ系イスラム国家)を完全に支配下に入れました。
 そして、父の果たせなかった偉業、つまり王朝(1115-1234。中国東北地方。女真族完顔部の王朝)の征討の準備を練りました。チンギスは幼少期、金にそそのかされてモンゴル征討を任されたタタール部(モンゴル高原東部原住のモンゴル系部族。中国名は韃靼。だったん)の襲撃で、父イェスゲイ(生没年不詳。モンゴル部の首長)を亡くし、また妻も他部族に略奪された悲しい過去を経験し、打倒金王朝を掲げていました。オゴタイは父チンギスが無念にも金追討の前に没したことで、その遺志を引き継いでいました。オゴタイは中国・南宋(1127-1279)に使を遣わして、宋に河南地方譲渡を条件に、南北から挟撃する共同征討策を決めました。その間にトゥルイが病死する不幸もありましたが、1234年、スベエディ(スブタイ。1176-1248。チンギス時代からの名将)率いるモンゴル軍と南宋軍は、金の首都開封を包囲し、開城に成功、金の皇帝・哀宗(あいそう。位1223-34)を南宋国境の蔡州(さいしゅう)にて追撃し(金滅亡)、悲願の金征討を遂に果たせたのです。
 その後、オゴタイ・ハンは、ヨーロッパ遠征軍の総司令官バトゥ(1207-55。ジュチの次男)にヨーロッパ遠征(大西征。1236-42)を命じて、キエフやノヴゴロドといったロシアの有力公国や都市を次々と攻略しました。1241年には、副司令官スベエディ率いる支軍もドイツ・ポーランドの諸侯連合軍をリーグニッツ東南のワールシュタットで破りました(ワールシュタットの戦い)。
 しかしオゴタイ・ハンは深酒が原因でこの年の12月11日に没し、長男のグユク(1206-48)が第3代皇帝(帝位1246-48)として帝位を継ぎました。
引用文献『世界史の目 第41話』より

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