12月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1721年12月29日は、フランス王国・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ15世(1710-74。王位1715-74)の公妾(こうしょう)だった、ポンパドゥール侯爵夫人であるジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721-64)生誕の日です。
 ルイ15世は5歳で即位したブルボン朝第4代の国王です。先代ルイ14世(王位1643-1715)の子どもたちのほとんどは夭逝し、唯一成人に達した王太子ルイ(1661-1711。グラン・ドーファン。大王太子。ドーファンは王太子の意味)も父に先立って没し(1711)、大王太子の息子ルイ(1682-1712)が次の王太子となりました(小王太子。プチ・ドーファン)。しかし小王太子も1712年に病死し(天然痘?)、長男もすでに1705年に、次男は小王太子が没した直後にそれぞれ天然痘等で夭逝したため、次の王太子(ドーファン)は三男ルイがたてられました(王太子位1712-15)。これが1715年に王として即位するルイ15世です。ルイ14世の次期王位を曾孫が受け継ぐのはこのような経緯があったのでした。
 即位したルイ15世は、1725年、ポーランド王の娘マリー・レクザンスカ(1703-68)と結婚し、1737年までに11人の子を産みました(うち1人は死産。2男8女)。しかしほぼ毎年のように妊娠を繰り返しては、王位継承対象となる男児よりも女児を多く出産することで、次第に王妃とは別の情愛を求めるようになっていきます。
 フランスがカトリックを信仰する王国である関係上、王宮に側室を入れることは許されませんでしたので、ブルボン朝ではメトレス・アン・ティートル(Maîtresse-en-titre。メトレス・ロワイヤル、ロイヤル・ミストレス、公式寵姫、公妾などの呼び方があります。国王の公式の愛人)の制度が採用されていました。メトレス・アン・ティートルは王室から生活と身分を保証され、重臣と同等の政務を行うことができました。ルイ15世はマリー王妃とは別に、ネール侯爵家の5人姉妹(ネール姉妹)と関係を持ち、うち長女ルイズ・ジュリー(1710-51。マイイ公爵夫人)ら3人をメトレス・アン・ティートルとして関係を持ちました(1734)。次女のポーリーヌ・フェリシテ(1712-41。ヴァンティミール公爵夫人)もルイ15世のメトレス・アン・ティートルとして権力を手に入れた後は、宰相などの重職に対しても介入し、宰相を置かずに親政することを国王にすすめました。
 オーストリア継承戦争(1740-48)中の1743年、ルイ15世は宰相が死去したのに伴い、親政を開始しました。とはいえ政治にはあまり関心がなかった国王でしたが、同戦争の一環でフランスは1744年にオーストリア領の南ネーデルラント(現ベルギー)に侵攻することになり、ルイ15世みずから親征しました。このとき、ネール姉妹の5女で王のメトレス・アン・ティートルとなったマリー・アンヌ(1717-44。シャトールー公爵夫人)が同行しました。宰相を置かず、しかも政治に無関心な王に対し、マリー・アンヌは姉たち同様、王の執務に口出しし、その存在は国内外にわたって強い影響力を及ぼしたのです。しかしマリー・アンヌは病気のため同1744年末に没し、ルイ15世はその死を悼みました。
 翌1745年、パリから出た一人の女性がルイ15世の目に留まりました。その女性は平民身分でありながら上流ブルジョワ階級の出で、幼少期から才知に富み、類い稀な美貌に恵まれ、1730年の9歳の時に、占術師より「将来国王の公妾になる」と予言され、王室に通用する最高の教育を受けることとなりました。彼女がジャンヌ・アントワネット・ポワソンで、父の莫大な遺産を受け継いで、1741年3月徴税請負人のシャルル・ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール(エティオール。1717-99)と結婚しました。エティオールの居館があるセナールの森は、ルイ15世もよく狩猟などで愛用する森でした。エティオール夫人となったジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、、国王のメトレス・アン・ティートルになることを目指して、狩猟を楽しむためにこの森にやってきたルイ15世に接近を試みましたが、当時マリー・アンヌがいたため、ルイ15世には当初は対面する程度でした。しかし、マリー・アンヌが急死して悲しみに打ち拉がれたルイ15世は、あらたな愛人となるジャンヌ・アントワネット・ポワソンに接近していくのでした。
 1745年2月、ルイ15世の長子でドーファンのルイ・フェルディナン(王太子位1729-65)がスペイン・ブルボン朝(1700-1931)のフェリペ5世(位1700-24,24-46)の娘であるマリー・テレーズ・ラファエル(1726-46)と結婚することになり、これを祝した仮面舞踏会がヴェルサイユ宮殿で開催され、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンも出席しました。ローマ神話に登場する狩猟の女神ディアーナ(ダイアナ)に扮したジャンヌは、国王が参上するのを心待ちにしていましたが、妃のマリー・レクザンスカをはじめ、今回の主役で羊飼いに扮したドーファンのルイ・フェルディナンと彼に嫁いだ同じく羊飼い姿のマリー・テレーズ・ラファエルが姿を現しても国王は登場しませんでした。やがて、彼らの後に登場したのは、8体のイチイの樹木に扮した人たちでした(【外部リンク】から引用。wikipediaより。パリの美術家シャルル・ニコラ・コシャン作。1715-90)。王宮の女たちは国王の寵愛を求めて、そのイチイの樹木に扮した人たちに接近しましたが、さきにイチイの仮面を脱いでその場を離れた人物がおり、その場には7人しかいませんでした。しかも、その7人は国王ではありませんでした。さきに仮面を脱いだ人物はすでにエティオール夫人であるジャンヌ・アントワネット・ポワソンに近づいていました。彼がルイ15世だったのです。ルイ15世はセナールの森でジャンヌを見初め、彼女を次なるメトレス・アン・ティートルとして迎え入れるつもりだったのでした。事実、後日に開催された舞踏会でルイ15世はジャンヌを同行させ、その後王室の行事や会食に彼女を招きました。そしてジャンヌは夫のエティオールから離れて宮殿に居座るようになっていきました。23歳にして、ジャンヌ・アントワネット・ポワソンの悲願が果たされたのでした。そして5月、国王よりポンパドゥールの爵位を賜り、同侯爵領を与えられ、ジャンヌはポンパドゥール公爵夫人(ポンパドゥール夫人)と呼ばれるようになり、1745年9月14日、彼女は正式にルイ15世のメトレス・アン・ティートルとなったのです。ブルジョワの階級とはいえ、これまでの貴族階級とは違い平民階級から初の誕生でした。そして、ポンパドゥール公爵夫人の残したあまりにも有名な言葉、”私の時代が来た“を象徴する、フランスの歴史にその名が刻まれる数多くの実績を残すのでした。
 ポンパドゥール公爵夫人は次々と城館を与えられて国王の厚遇を受けました(有名なのは1753年に与えられた現フランス大統領官邸のエリゼ宮殿など)。夫人が30歳になった1751年頃から、体調面などの理由で情事を重ねることはなくなったが、夫人は国王の寵愛を失わないために、ヴェルサイユ市内にル・パルク・オ・セール(Le Parc-aux-cerfs。”鹿の園“、”鹿の苑“などの呼称がある)を活用しました。ル・パルク・オ・セールはその名が示すとおり、もともと歴代の国王が趣味としていた狩猟で捕らえられた鹿を入れておく場所でしたが、しだいに人々が住み着き、居住区となりました。夫人はこの地を利用し、町の若い娘たちを言い聞かせて居館に住まわせ、情事を求める国王の相手を担いました。これは、国王の寵愛を独占させて権力を維持し、新たなメトレス・アン・ティートルを求めなくとも国王の欲情は町の若い娘が充足してくれるという、ポンパドゥール公爵夫人の施した制度でした(ただし夫人が自発的にこれらを施したかどうかは諸説あり)。こうしたことから”鹿の園”は娼館、売春宿を表す場合があります。ポンパドゥール公爵夫人はこれを機会に、ヴェルサイユ宮殿から離れて自身の館に移りました。
 こうして宮殿を離れた後も、ポンパドゥール公爵夫人はルイ15世によって王政の助言を求められ、権力は維持されました。また同1751年には啓蒙思想の風潮から登場したドゥニ・ディドロ(1713-84)やジャン・ル・ロン・ダランベール(1717-83)ら百科全書派による『百科全書』の発刊を支援し、結果『百科全書』は1772年までに全28巻刊行されることになります。夫人はサロンを開いて、ディドロやヴォルテール(1694-1778)ら啓蒙思想家と交友を結んだ他、絵画、歌、演劇など芸術を奨励し、当時流行したロココ芸術のパトロンとなり、フランス文化を積極的に振興させました。
 また、高級な磁器収集を趣味とするポンパドゥール公爵夫人は、国内の磁器が材質が悪いため、マイセン(ドイツのザクセン州都ドレスデン北西。現在でも陶磁器の名産地で有名)の陶工が1738年にヴァンセンヌ(パリ東部)に開いた磁器製陶所に着目し、ルイ15世を口説いて王室がこの製陶所を買い取り、1756年製陶所をセーヴル(パリ~ヴェルサイユ間の都市。1920年のセーヴル条約で知られる)に移し、優秀な陶工を招き入れ、1759年国家事業として磁器の製造を奨励しました(セーヴル焼)。夫人はセーヴル焼をフランス国民の誇れる産業とするため、徹底してこの事業に取り組みました。
 しかしオーストリア継承戦争での戦費だけでなく、王室の財力を壟断していくポンパドゥール公爵夫人の存在は、国家の経済情勢を切迫させていきました。財政問題解決のため、歳入の捻出を当時の財務総監ジャン・ド・マショー(任1745-54)に命じて増税を全ての身分に課しました。貴族や聖職者ら免税特権身分までも課税対象となったことで、貴族階級を擁護するパリ高等法院も増税に反対しました。こうした状況の中で、ルイ15世は1756年、プロイセンやイギリスを敵とする七年戦争(1756-63)に参戦しました。この戦争は、フランスは、ロシア、そして長年の宿敵だったハプスブルク・オーストリアと手を組むという、いわゆる”外交革命“が果たされて勃発した戦争ですが、この”外交革命”は、オーストリアのマリア・テレジア(1717-80。オーストリア大公位1740-80)、ロシアの女帝エリザヴェータ(帝位1741-62)、そしてフランスのポンパドゥール公爵夫人ら3人の有力な女性たちがプロイセン打倒という共通の意志でもって為し得た革命的同盟であり、これまでの固定された国際関係が大きく変わった瞬間でした。これを”3枚のペティコート作戦“と呼ばれました。こうしてポンパドゥール公爵夫人は国際情勢を動かすほどの存在となっていきました。そしてこの革命の後、フランスのブルボン王家に、マリア・テレジアの11女であるマリ・アントワネット(1755-93)が、1765年のフランス王太子ルイ・フェルディナン没後、子ルイ・オーギュスト(ルイ15世の孫。1754-93。王太子位1781-89。のちのルイ16世。王位1774-92)に嫁いだのです。
 こうしたことから、ブルボン王家は行政、軍事、財政のすべての面において無頓着のルイ15世に対し、これらに介入したポンパドゥール公爵夫人の意のままとなりました。ルイ15世はフランス国王としての人気が凋落していき、ブルボン王政の国家運営に不満が立ちこめてきました。七年戦争が勃発して半年後の1757年1月、ルイ15世は、貴族に仕えていた使用人ロベール・フランソワ・ダミアン(1715-57)に襲撃され、世間を震撼させた(ルイ15世暗殺未遂事件。1757.1)。腹部を刺されましたが、傷は浅く命を取り留めました。ダミアンは捕らえられ、八つ裂きの公開刑に処されました。
 ポンパドゥール公爵夫人はかつての増税政策で王室不支持者が増加し、さらには夫人自身の浪費や権益の壟断への非難も高まったことで、その増税政策の実施者で財務総監退任後、海軍大臣を務めていたジャン・ド・マショー(任1754-57)を罷免させました。この出来事でルイ15世は心に深い傷を負うこととなりました。七年戦争は結果的に敗北を喫し、新大陸で展開されていた英仏植民地争奪戦争の一環であるフレンチ・インディアン戦争(1755-63)も敗北して広大な植民地を失い(1763年パリ条約)、フランスは内憂外患こもごも至る状態となってしまいました。
 そして、1764年4月15日、ついにこの日が訪れます。フランスを混乱に陥れ、社会不安が増大する中で、どうすることもできないルイ15世に厳しい追い打ちをかけたのでした。ポンパドゥール公爵夫人は、肺と心臓の疾患によりヴェルサイユ宮殿にて没したのです(ポンパドゥール公爵夫人死去。1764.4.15。享年42歳)。ルイ15世が夫人のためにヴェルサイユ宮殿内に離宮として建築中であったプティ・トリアノン宮殿の完成を見ることができませんでした(1768年完成)。”Après moi le déluge !(我が後に大洪水あれ!。後は野となれ山となれの意味) “の言葉はルイ15世、あるいはポンパドゥール公爵夫人が呟いたか、時の情勢を嘆く言葉として流布されたものとされております。そして、前述の通り、夫人没後の翌1765年にはドーファンのルイ・フェルディナンも没し、ルイ15世の後継者はルイ・オーギュストに託すこととなった。そして1768年には王妃マリー・レクザンスカも没した。ポンパドゥール公爵夫人没後はマリー・アデライード(1732-1800。ルイ15世とマリー妃の四女)が執務を担うことになりました。
引用文献『世界史の目 第246話』より

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