12月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1906年12月30日は、パキスタン建国のきっかけとなった、全インド・ムスリム連盟の発足年月日です。
 1906年当時、国民会議派(12月28日の項を参照。イギリスからの解放とインドの自治が目標)はヒンドゥー教徒からの支持力が強かったため、イギリスは少数派のイスラム教徒に近づき、イギリスの支援で12月30日に全インド・ムスリム連盟を結成、イスラム教徒を親英、反国民会議派の立場をとらせ、国民会議派との対立を増長させようとしました。1909年にはインド担当国務大臣モーリー(1838-1923)とインド総督ミント(任1905-10)が、モーリー・ミント法と呼ばれるインド統治法を改定して、イスラム教徒の代表選出する選挙区を別個に設け、ヒンドゥー教徒より有利に導かせていきました。
 1914年、第一次世界大戦(1914-18)が始まり、イギリスは大量の兵士と物資をインドから供給するため、インドはイギリス側に立って参戦させられ、メソポタミア戦線で40万人以上の戦没者を出しました。さらに1915年にはインド防衛法を制定して、インド総督にインドの反英運動を取り締まる権限をさらに強化させました。これにより、インドはこれらの代償として自治要求が高まりました。また全インド・ムスリム連盟においても、連合軍イギリスが同盟国側にいるイスラム帝国・オスマン・トルコ(オスマン帝国。1299-1922)と戦うことに不満を抱き、1916年、インド北部の都市ラクナウで、全インド・ムスリム連盟は国民会議派との協調を約束しました(ラクナウ協定)。カリフ擁護を目的とするインドのイスラム教徒の反英・反帝国主義運動(キラーファット。ヒラーファト)と呼ばれる運動はこれを機に動き出しました。
 このため1917年、イギリスはインド担当国務大臣モンタギューの宣言によって、大戦後、インドに自治を与える約束(漸次自治権)を取り付けました。これにより、100万人以上のインド人がイギリスを信頼して軍隊に奉仕したとされています。しかし大戦終了後、インド人はこれまでにない大きな代償を受けることとなるのです。これが1919年にインド政庁が発布したローラット法と呼ばれる法です。ローラット法はインド政庁のローラット委員長の率いる委員会が、大戦中に制定されたインド防衛法をさらに強化して、弾圧を継続させるために制定された法律です。違反者は、令状なしで逮捕され、裁判を通さずに投獄されるなど、インド人の人権を度外視した、大胆で高圧的な政策を押しつけたのです。これによりローラット法を撤廃する運動が各地で勃発し始めていき、こうした中から、マハトマ・ガンディー(1869-1948)が登場するのでした。
 その後の全インド・ムスリム連盟では、これまで国民会議派と提携してイギリスに立ち向かっていたきましたが、1937年以降は反ヒンドゥー・親英路線に代わり、国民会議派との対立を深めていきました。その後も第二次世界大戦勃発(1939)にともないインドは再び参戦させられ、国民会議派は必死にイギリスからの弾圧に抵抗していきました。一方の少数派の全インド・ムスリム連盟は富裕層が主導してパキスタンの建設を主張していき、ムスリム、ヒンドゥー両宗派がそれぞれイギリスから独立するのは、終戦後の1947年8月まで待たなければなりませんでした。

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