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中世最後の騎士・その3
~汝は結婚せよ~
1486年、ドイツ王となったハプスブルク家のマクシミリアン1世(王位1486-1519)。彼の君主としての治世が始まった。
即位後、予想外の問題が起こった。一族間の内紛である。マクシミリアン1世の妹であるクニクンデ(1465-1520)はバイエルン公国(907-1623)のアルブレヒト4世(狡猾公。公位1463-1508)と結婚していたが、そのバイエルン公に対して、チロル伯を兼ねるオーストリア大公が、所領のチロル州を担保に借金をしていたのである。そのチロル伯とはジークムント(伯位1446-90(1439-90の表記もあり)。オーストリア大公位1439-90)という人物で、マクシミリアン1世の父である神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝フリードリヒ3世(帝位1452-93。)の従弟にあたる。ジークムントの借金は行政を放置して遊蕩に耽ったのが原因であった。このため、チロルの隣国であったバイエルン公国に併合される危機があった。チロル伯の怠慢でチロルは政治的・経済的・産業的に腐敗が進行し、住民から反発を受けていた。
そこで、マクシミリアン1世がこの紛争の調整役に出た。1490年、ジークムントは伯位をマクシミリアン1世に譲り(伯位1490-1519)、マクシミリアン1世はチロル伯マクシミリアンとしてその債務を受け入れて和解、インスブルック(現・チロル州都)を都に置いて、諸改革に奔走、借金を完済して、チロルのバイエルン譲渡の危機は免れた。これにより内紛は収まった。この成果はマクシミリアン1世の評価を大いに向上させた。
続く1490年、マクシミリアン1世に縁談が持ち上がった。最愛の妻マリア(1457-82)を失って以後、生涯愛した女性はマリアただ1人であった。マリアとは婚約当時は政略結婚であったが、心から愛した女性だった。しかし次の結婚の狙いは、シャルル8世(温厚王。位1483-98)の率いるフランス・ヴァロワ朝(1328-1589)との抗争に決着を付けるための、純粋な政略結婚であった。その相手はフランス北西部にあったブルターニュ公国(936-1547)の女公アンヌ(公位1488-1514)であった。しかしこの頃はマーチャーシュ1世(ハンガリー王位1458-90。ベーメン王位1469-90)率いるハンガリー軍のウィーン侵攻の問題があった。しかし同年マーチャーシュ1世の死により、マクシミリアン1世は反撃に出てハンガリー軍をウィーンから追放し、しばらくはこの問題の事後処理に負われ、ブルターニュ女公との婚姻は先送りされた。しかしこれがさらに新しい問題を発生させてしまった。
こうした神聖ローマ帝国領内での動きに注目していたのか、フランス王シャルル8世はブルターニュ侵攻を決行した。シャルル8世は、マクシミリアン1世の愛娘であるマルグリット(1480-1530)を反ハプスブルク派との密約で結婚を強要してこれを実現し、マルグリットをフランスに連行していた。そのシャルル8世はマルグリットと離婚した後、ブルターニュ公国の首都レンヌに侵攻してこれを包囲し、女公アンヌに強引に求婚した。アンヌは仕方なくマクシミリアン1世との婚姻を破棄し、マクシミリアン1世の娘マルグリットと離婚したシャルル8世と結婚することになった(1491.12)。離婚したマルグリットはすぐさま返されると思いきや、マルグリットとの政略結婚によってフランスが併合した数々の領土を返還することを渋ったため、マルグリットは妃の座を降ろされたにもかかわらず、フランス王宮に足止めを食らった。そして、ローマ教皇インノケンティウス8世(位1484-92)にマルグリットとの離婚、およびアンヌとの結婚を認めさせた。結果、シャルル8世はブルターニュ公となってアンヌの共同統治者となった(公位1491-98)。こうしてマクシミリアン1世が構想に描いた、ブルターニュ公国との連携が適わなくなった。
マクシミリアン1世は愛娘の返還を何度もフランスに対して要求したのだが、シャルル8世はマルグリットとの政略結婚で得た領土を手放すのを避けるため、フランス国内の貴族と結婚させようとして領土確保に努めた。こうしたシャルル8世の一連の動きに対し、マクシミリアン1世は1492年に軍を率いてフランシュ=コンテに侵攻し、同地を奪還した(1493)。同1493年、フランスとサンリス条約を結び、マルグリットのフランドルへの帰国、そして旧ブルゴーニュ公国(1031-1477)領の分割が約束された。
1493年父フリードリヒ3世が没した。当時としては異例の長寿(78年)であり、皇帝在位41年という長きにわたった彼の治世は終わった。フリードリヒ3世の治世において、政略結婚によるブルゴーニュ公国領の獲得は、結婚政策によるハプスブルク家の後に生まれる家訓である"戦(いくさ)は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ(Bella gerant alii, tu, felix Austria, nube (Let others wage wars, but you, happy Austria, marry!)!"をようやく踏み出した形となった。
父の死により、次期神聖ローマ皇帝継承者として、マクシミリアン1世が選出された(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。帝位1493-1519)。これ以降、神聖ローマ帝国はハプスブルク家が皇帝を継承することになる。しかし、先代のフリードリヒ3世の時代から、神聖ローマ帝国はカトリック世界(つまり西ヨーロッパ世界)における世俗支配権を持つ最高君主といったこれまでの考え方から、"ドイツ国民の皇帝"という考え方にかわってきており、ローマ教皇からの戴冠なくとも皇帝として立つことができた。"世界帝国"から"ドイツ国民の帝国(第一帝国)"への変化であった。マクシミリアン1世の皇帝即位の際、実際はヴェネツィア共和国(697-1797)の妨害もあったが、ローマに行ってローマ教皇から帝冠を戴くことなく皇帝を称した。マクシミリアン1世はローマで戴冠を受けなかった、初の神聖ローマ皇帝となり(トリエントで戴冠した。なお、マクシミリアン1世が皇帝を自称したのは1508年)、以後、神聖ローマ帝国皇帝のローマでの戴冠はなくなった。
皇帝となったマクシミリアン1世は、内政改革に着手した。当時は国内諸侯間の抗争といった私的な戦争や決闘(フェーデ)が横行し、治安が悪化していた。中には"鉄腕のゲッツ"と呼ばれたゲッツ=フォン=ベルリヒンゲン(1480-1562。鉄の義手を付けた騎士)のように、フェーデを悪用して誘拐や強盗、恐喝を繰り返した者もいて(ゲッツは"盗賊騎士"と揶揄された)、無差別にフェーデに巻き込まれる市民も多発した。マクシミリアン1世はこうした中世の慣習となっていたフェーデによる自力救済を根本から見直すこととなり、1495年のヴォルムス帝国議会で、永久平和令(ラントフリーデ)が定められ、フェーデが制限された。マクシミリアン1世はフェーデで救済できない処置として帝国最高裁判所の設置を提議し、また帝国議会の修正案などさまざまな帝国改造を提起したが、各領邦諸侯や都市の反発もあって皇帝権行使による神聖ローマ帝国の中央集権的態勢は維持できなかった。このため、マクシミリアン1世は皇帝中心の帝国統一を望むよりも、領邦君主は皇帝権とは独立した一国の王として、皇帝が領邦と連合を組む体制で帝国を統一する方向に進んだ。よって司法権は帝国政府から領邦政府に移ることとなり、マクシミリアン1世が定めたラントフリーデを始め、数々の帝国改造は皇帝の執行力を欠いてしまい、効き目はあまり発揮されずに終わった。
マクシミリアン1世は1512年に開かれたケルン帝国議会で、"ドイツ国民の神聖ローマ帝国"という国号を正式に採用し、前述の"世界帝国"としての意識を放棄した。
父が没して3ヶ月後、マクシミリアン1世は、当時ミラノ公国(イタリア北部。1395-1535)を支配するスフォルツァ家の娘ビアンカ=マリア(1472-1510)との再婚にむけて動いた。まさかのフランスの横やりでブルターニュ女公アンヌとの政略結婚に失敗したマクシミリアン1世は、政略結婚による北イタリアの獲得を抱いた。またこれは単なる序章に過ぎず、当時はイタリア半島の掌握も考えていたため、ミラノ公の獲得はその第一歩であった。1494年3月、マクシミリアン1世はミラノ公女ビアンカ=マリアと再婚を果たした。しかし結婚政策はあくまでハプスブルク家のためであり、自身はマリアを愛していたため、ビアンカへの執着は薄かったとされる。子どもに恵まれず、ビアンカは1510年末に38歳で亡くなった。
中世のイタリアは領主権力が弱かったため、自治都市が形成した主権国家、都市共和国(コムーネ)が乱立していた。当時のイタリア半島の中心は、北のミラノ公国とヴェネツィア共和国、南のナポリ王国(1282-1816)、中央のフィレンツェ共和国(1115-1532。13世紀より共和政。1532年より公国化)、そしてローマ教皇庁であった。
マクシミリアン1世の再婚によって、揺れ動いたのがフランスであった。フランス国王シャルル8世は、ナポリ王国の王位継承問題に触れ、継承を主張し、翌1495年2月に軍を率いてナポリ入城を果たし、同王国を占領してナポリ王となった(位1495)。イタリア戦争(1494-1559)が始まったのである。しかしフランスはローマ教皇をはじめとして、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、そしてイタリア進出を図る神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ら、フランスのイタリア介入を嫌う勢力(対仏神聖同盟。リガ。実質の旗揚げは1511年)と戦闘する羽目となり、この戦闘に敗退した。その後シャルル8世は不慮の事故で1498年に亡くなり、直系ヴァロワ家は断絶、傍系のヴァロワ=オルレアン家がこれを引き継ぎ、ルイ12世(位1498-1515)が即位、同時にナポリ王にも即位した(位1501-04)。ルイ12世はミラノ公国も攻めてこれを征服、ミラノ公としても立った(公位1499-1512)。その後は対仏神聖同盟軍とフランス軍が激戦を交わすが、のちルイ12世は1513年にミラノを離れた。
ナポリをはじめ、シチリアやサルディーニャといった島は当時、スペインの支配に置かれていた。スペイン王家においてもフランスのイタリア介入は気に入らず、対仏神聖同盟に入ってフランスを牽制していた。マクシミリアン1世は、フランスを東西から封じ込めるため、スペインと手を組むことを決め、スペインもこれを望んだ。スペインは1479年にアラゴン王国(1035-1715)とカスティリャ王国(1035-1715)が統合して成立したカトリック王国で、アラゴン国王フェルナンド2世(位1479-1516)とカスティリャ女王イサベル1世(カスティリャ王位1474-1504)夫妻の共同統治国として成立していた。
マクシミリアン1世は、ナポリ、シチリア、サルディーニャなど、イタリアにおける権益を是非ともフランスから守りたいのでハプスブルク家と手を組みたいと、7歳上のフェルナンド2世から縁組みを依頼してきた。よって1496年、マクシミリアン1世は長男フィリップ美公(ブルゴーニュ公フィリップ4世。公位1482-1506。フィリップ=ル=ボー)をフェルナンド2世・イザベル1世夫妻の次女ファナ(1479-1555)と、長女マルグリットを同夫妻の唯一の男児でアストゥリアス公(公位1478-97)をつとめていた王太子フアン(1478-97)とそれぞれ結婚させた。ハプスブルク家の結婚政策である。
しかしマルグリットは、アストゥリアス公フアンが翌1497年に若くして病没し、彼との間にできた男児も死産したため、1500年にネーデルラントに戻った。マルグリットの悲劇の最中、帝国では1499年にスイスの離反があり(1499。スイス独立)、マクシミリアン1世にとっては皇帝即位後の大きな苦悩であった。ちなみにマルグリットは翌1501年イタリア北西部のサヴォイア公フィリベルト2世(公位1497-1504)に嫁ぐも、1504年、フィリベルト2世の不慮の事故(生水の中毒死)で死別、その後は独身を貫きネーデルラントに残った。
アストゥリアス公フアンの没後もスペイン王家では悲劇の連続であった。フェルナンド2世・イサベル1世両王の王位継承者はフアンの姉イサベル(1470-98。アストゥリアス公位1470-78,97-98)に移るが、イサベルも男児出産後に産褥熱で夭逝、男児も産後2年で早世したため、ブリュッセルにいた両王の次女でフィリップ美公に嫁いだファナをスペイン王位継承者として呼び戻すことになった。
その王女ファナはフィリップ美公との間に長女レオノール(1498-1558)、長男カルロス(1500-58)、次女イサベル(1501-26)、次男フェルナンド(1503-64)、三女マリア(1505-58)、四女カタリナ(1507-78)の6子を授かった。結婚当初のファナと美公は仲睦まじいというよりも情熱的に激しく愛し合っていたが、6子に恵まれた家庭とは裏腹に、"美公"の名にふさわしく美青年だったフィリップは生来遊び好きであり、次第に妃に対して冷めていき、宮廷女官など他の女性にも目を向けるようになっていった。猜疑心の強いファナは彼の浮気癖に対する嫉妬から次第にヒステリックになっていき、美公に対して宮廷内の女性との接触を厳禁し、あるいは美公と接触した女官を多くの面前で丸刈りにするなど奇行が目立つようになっていった。
1504年にスペインを構成するカスティリャ王国の女王イサベル1世が没した。さらにカスティリャ王の共同統治者であった夫のアラゴン王フェルナンド2世はカスティリャ王の地位を離れ、新しいカスティリャ王はファナが即位することが決まった(王位1504-55)。これによりフィリップ美公は共同統治者を主張し、自身もカスティリャ王を名乗った(フェリペ1世。位1504-06。ただし公式には認められず、僭称とされた)。しかしフィリップ美公は1506年、カスティリャ王国の古都ブルゴスで球技を楽しんだ後、冷たい生水にあたってしまい中毒死してしまった。美公の突然死は毒殺の噂も出回った。美公の死はファナの精神状態をより混乱させ、正気を失った。ファナは夫の埋葬を拒否し続け、夫の棺を誰にも近づかせず、王国中の町々を夫の亡骸とともに徘徊したとされている。女王としての政務が執れなくなったファナは"狂女王"と渾名され、1508年、再び政務代行のため戻ってきたフェルナンド2世によりトルデシリャスのサンタ=クララ修道院の一角に幽閉された(40年以上幽閉されたファナは亡くなる1555年まで女王の座を退かなかった)。
マクシミリアン1世は、1506年フィリップ美公亡き後のブルゴーニュ公を、長男のカルロスをシャルル2世(公位1506-56)として即位させた。翌1507年には長女マルグリットをネーデルラント総督に任命して(任1507-30)、さらにシャルル2世らフィリップ美公の遺児たちを養育させた。
1515年、晩年に差しかかったマクシミリアン1世は、当時ポーランド=リトアニア連合王国(1385-1569)を統治するヤゲウォ家に接近した(ヤゲウォ朝。1386-1572)。ヤゲウォ家は当時、ハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)やベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918)も支配していた。マクシミリアン1世は、人生における最後の大政策とする政略結婚をヤゲウォ家に選んだ。
マクシミリアン1世は同1515年にヤゲウォ家のポーランド王ジグムント1世(ポーランド王位、リトアニア公位ともに1506-48)、ハンガリー王のウラースロー2世(ハンガリー王位、ベーメン王位ともに1471-1516)らとウィーン会談を開いた。そこで皇帝は孫でフィリップ美公の次男フェルナンドをウラースロー2世の王女アンナ(1503-47)と、そして三女マリアをアンナの弟でウラースロー2世の王子ラヨシュ(のちのラヨシュ2世。ハンガリー王位、ベーメン王位ともに1516-26)とそれぞれ結婚させることを決めた。スペイン王家に続く二重結婚であった。
1516年、スペイン王フェルナンド2世が没し、彼の遺言によりフィリップ美公の長男で19歳のブルゴーニュ公シャルル2世(カルロス)がスペイン王位を継承、母である女王ファナ(幽閉中)と共同統治者としてカスティリャ王となり、他アラゴン王など連合体制をとるスペインの諸王諸伯に即位し、そして遂にスペイン王カルロス1世(位1516-56)が誕生した(スペイン=ハプスブルク朝。アブスブルゴ朝。1516-1700)。本土のイベリア半島だけでなく、ナポリ、シチリア、サルディーニャ、アメリカ大陸(スペイン領アメリカ。イスパノアメリカ)もハプスブルク家の支配圏となった。のちにハンガリー王国やベーメン王国では1526年にラヨシュ2世がオスマン帝国(1281-1922)のスレイマン1世(スルタン位1520-66)とモハーチで戦って18歳の若さで敗死し(モハーチの戦い)、姉アンナと結婚したフィリップ美公の次男フェルナンドがフェルディナーンド1世としてハンガリー王に即位(位1526-64)、同時にフェルディナント1世としてベーメン王にも即位し(位1526-64)、ハンガリーとベーメンもハプスブルク家領となっていく。マクシミリアン1世の政策は孫の代で結実となるのであった。
1519年、マクシミリアン1世はオーストリア北部のヴェルスで没した。マクシミリアン1世の心臓は最初の愛妃マリア姫の眠るブリュージュの教会に共葬された。同時にカルロス1世はドイツ王及び神聖ローマ帝国皇帝カール5世(王位・帝位1519-56。戴冠1530年)として即位し、続行するイタリア戦争で敵国フランスと戦いながらも広大なハプスブルク君主国(ハプスブルク帝国。1526-1806。弟フェルナンドのハンガリー・ベーメンの王に即位した1526年を成立年としている)を形成していくのであり、この礎を築いたのは、無駄な戦争を行わず、婚姻でもって自家を発展させた、祖父マクシミリアン1世の功績にほかならなかったのである。
騎士の衰退期に現れ、最も騎士たる姿で戦い、最も騎士たる精神で文化を守り、自家の発展を願った、まさに"中世最後の騎士"であった。彼の治世において最大限に活用したハプスブルク家の家訓、"戦(いくさ)は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ!"は、文字通り大帝国を築く証となったのであった。
マクシミリアン1世の60年の生涯をつづった3部作、いかがでしたか?ハプスブルク家のお話はどこをとってもドラマになるので非常に面白いのですが、マクシミリアン1世は同家に登場する中で個人的にも最も好きな君主で、今回ようやくご紹介することができました。大きくなっていく前のお話ですので、大学受験の内容からしてみれば地味な時期ともとれますが、イタリア戦争がスタートする時期ということは、イタリアのルネサンス全盛期から後退/衰退期に向かう頃でもあります。
ドイツ・ルネサンスの先駆的画家で、マクシミリアンの晩年期を描いたアルブレヒト=デューラー(1471-1528)の作品(【外部リンクから引用】)が有名ですが、フランドル派の画家ピーター=ポール=ルーベンス(1577-1640)が描いたマクシミリアン(【外部リンクから引用】)の肖像が非常に好きで、甲冑姿のかっこいいマクシミリアン1世です。実は彼の時代にフリューテッドアーマー(溝付甲冑。 【外部リンクから引用】)と呼ばれる従来よりはぐーんと軽量となった西洋甲冑がマクシミリアン1世の命で開発されました。これも興味深いです。
またマクシミリアン1世の息子フィリップ美公ですが、フィリップ美公といい、孫のカルロス1世といい、はたまたカルロスの子でスペイン王のフェリペ2世(位1556-98)もまた、顔は面長で本当によく似ています。フェリペ2世はカルロス1世が、父フィリップ美公の名をとって名付けられました。フィリップ美公は当時スペイン王フェリペ1世としては認められませんでしたが、カルロス1世が即位してスペイン=ハプスブルク朝が始まると、初代国王として認められましたので、カルロスの子はフェリペ2世になります。ちなみに本編に登場したカルロスの弟でハンガリーやベーメンの国王に即位したフェルナンドはカール5世退位後にフェルディナント1世として神聖ローマ皇帝に立っています(帝位1556-64)。この人もやや面長です。
ハプスブルク家は広大な版図を築きましたので、各支配地の君主名が異なる場合があります。大学受験における世界史では、神聖ローマ皇帝カール5世=スペイン王カルロス1世は言うまでもなく頻出項目です。別人ではないことに注意が必要です。
受験世界史の学習ポイントです。マクシミリアン1世は入試項目としてはマイナー系ですが、カルロス1世(カール5世)の祖父であるというキーワードで知っておいても良いでしょう。スイス独立もマクシミリアン1世の時代ですが、あまり関連させての出題は見られません。また、本編ではヴァロワ朝国王のルイ12世が登場しました。彼は入試にはほとんど登場しませんが、彼の次に即位した国王は非常に重要です。カール5世の宿敵となる人物・フランソワ1世(位1515-47)です。イタリア戦争関連、1529年のウィーン包囲関連で二人は敵対しますので彼の存在も要注意です。
さて、「世界史の目」は再び充電期間に入ります。ストックはすでに何話かありますが、微修正などもあり、充電明けにご紹介したいと思います。どうぞお見捨てにならないよう、気長にお待ち下さいませ。
【外部リンク】・・・wikipediaより