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新大陸や新航路の発見に代表される、いわゆる大航海時代が現出された15世紀末以降、当事国スペインやポルトガルの植民地経営は活発化していった。この時、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)は、両国の植民地経営をめぐって起こされた紛争を解決しようとして、勢力の分界線(植民地分界線)を決めた。これが教皇子午線で、ヴェルデ岬(アフリカ最西端)の西方560kmの子午線の西側での発見地をスペイン領とし、東側をポルトガル領とした(1493)。ポルトガルは翌1494年、分界線の移動を要求し、子午線を150km西に移動を決めた(トルデシリャス条約)。これによって、ポルトガル航海者カブラル(1460/67-1520/26)の発見したブラジルはポルトガル領となるなど、分断された大西洋域における両国のそれぞれの管轄権は定められた。西半球の確定後は東半球にも目を移し、1529年、スペインがモルッカ諸島(香料諸島)をポルトガルに売却し、東経144度30分あたりに分界線を決め、東をスペイン、西をポルトガルの勢力範囲とした(サラゴサ条約)。これで地球規模での両国の勢力範囲が確定したのである。これにより、植民地経営は新大陸やアジアへの貿易を両国が独占し、繁栄していった。
ポルトガルでは、まずインドにおいて初代インド総督アルメイダ(1450?-1515)が活躍した。アルメイダはエジプトのマムルーク艦隊をインド西海岸のディウで撃破し(ディウ沖海戦。1509)、海域・航路を守った。その後アルブケルケ(1453-1515)がインド総督になると、インド西海岸のゴアを占領(1510)、ヨーロッパのアジアにおける最初の植民地とした。その後、セイロン(スリランカ。都コロンボ)を1505年に占領、続いてマレー半島南西岸にも侵攻、マレー人の創始したイスラム国家・マラッカ王国(1400?-1511)の重要拠点だった王都マラッカを武力で占領し、マラッカ王国を滅ぼした(1511)。そしてペルシア湾(港市ホルムズなど)や紅海(港市アデンなど)で貿易商を行っていたイスラム商人を抑え、インド洋域を固めていった。逆にアフリカのケープ植民地は放棄した(1510)。
その後も手は緩めず、東アジアにも勢力を拡げたポルトガルは1517年に中国南部の広州に到達、当時の明王朝(みん。1368-1644)と貿易を始め、拠点をマカオに定めた(1557年に居住許可受理)。1543年には戦国時代の日本にも漂着(種子島。たねがしま)、1550年には九州西部の平戸(ひらど)、1571年以降には長崎(ながさき)で貿易を開始した(南蛮貿易)。
スペインでは新大陸経営で繁栄した。ポトシ銀山(南米ボリビア)でインディオを強制に労働させて銀を大量に採掘、これをヨーロッパに流入した。またプランテーション(大農場経営)を中南米に導入、キューバなどでは砂糖を生産させた。苛酷な労働により先住民のインディオの人口は激減、このためアフリカから連行された黒人奴隷がこれに代わり、労働者として同じく酷使された。
スペインの新大陸経営は、エンコミエンダ制度といい、植民地経営者に征服地と居住民の統治を任せていた。これには、先住民をキリスト教に改宗させて保護することを条件としていたが、飽く迄もこれは口実で、実質的には虐待・強制労働・重税賦課など、高圧的な制度が先住民に押しつけられた形となった。ドミニコ会の宣教師であり、司祭であったスペインの聖職者ラス=カサス(1474-1566)は、新大陸布教時、植民者が先住民を酷使する惨状をみて、スペイン国王に進言し、エンコミエンダ制度の撤回を主張した。ラス=カサスの著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告(1553)』では、当時の植民者がインディオを強制労働と肉体的束縛から死に至らしめていたと報告、たとえば、非道なキリスト教徒は、彼らから山へ逃れたインディオたちを、猛犬を使って山狩りを行い、捕まえては猛犬で噛み殺したとある。猛犬はインディオ虐殺用として訓練され、反抗するインディオに容赦なく襲いかかり、食い殺したのである。直接統治をめざす国王にとっては、エンコミエンダ制は快く思わず、しばしば廃止を訴えたが、植民者はすでに新大陸での統治者という威厳でもって国王にも食いかかり、実現できなかった。しかし、ヨーロッパから流れた伝染病の流行で、先住民人口が激減し、16世紀末に事実上の意味は失われた。
一方アジア経営においては、サラゴサ条約のために抑えられたが、唯一認められたのがフィリピンで、首都マニラを建設し(1571)、ここをアジア貿易の拠点とした。
スペインとポルトガルによって植民地経営は繁栄したが、この動きは16世紀末になってオランダ、イギリス、フランスといった他の西欧諸国にも波及した。スペインは1580年にポルトガル併合が実現し、アジア植民地をも従えた、"太陽の沈まない国"を現出したものの、オランダに独立され(1581)、1588年にはスペインの誇る無敵艦隊(アルマダ。Invincible Armada)イギリスの海軍により壊滅的打撃を受けて大敗した(アルマダ海戦。1588.7)。威信を喪失したスペインは西欧のトップから急落・衰退していったのである。一方ポルトガルも併合後は多くのアジア拠点を失っていき、1640年に再独立してからはイギリスに従属する地位まで下げられ、この時点で貿易拠点はブラジルに絞られる結末であった。
スペイン・ポルトガル衰退後の世界貿易と植民地経営は、17世紀になってオランダ、イギリス、フランスが台頭した。重商主義政策が巧みなこの3国は貿易業を中心に繁栄していくのである。これがやがて3国間における壮絶な植民地獲得競争へとつながり、中には大規模な戦争へと発展していくことになる。中心となるのが、東インド会社で、イギリスではエリザベス1世(位1558-1603)時代の1600年に、オランダは1602年に、フランスはアンリ4世(位1589-1610)時代の1604年に、それぞれ設立された。またオランダは新大陸・アフリカ貿易の独占を目指して、1621年、西インド会社も設立した。
まずオランダは、アジアの拠点をインドネシアに置いた。当時ジャワ島では、東側には、ヒンドゥー王国マジャパヒト(1293-1520?)の後、ジョクジャカルタを中心にイスラム国家のマタラム王国(16C末-1755)が米貿易で、西側にはバンテンを都にイスラム国家・バンテン王国(1526?-1813)が胡椒貿易で、それぞれ栄えていたが、オランダはバンテン王国を服属させ、バンテン東方のジャヤカルタ市にアジア貿易の本拠地を築き、ジャヤカルタ市は1619年にバタヴィア市と改称された(現・ジャカルタ市)。ジャワを拠点としたオランダは、17Cの間に、モルッカ諸島・マラッカ・セイロン・ケープといったかつてのポルトガル領を次々と占領した。以前パレンバン市を都にシュリーヴィジャヤ王国(7-14C)が栄えたスマトラはオランダ介入当時、北西部のバンダ=アチェにイスラム国家・アチェ王国(15C末-1903)がおり、オランダは同国と17C後半から抗争を展開した。また日本の平戸には1600年に訪れ、その後長崎で貿易を行った。また日本は、1639年の鎖国政策以降、中国とオランダのみを貿易相手国としたため、オランダは日本の産出する銀を輸入し(日本銀)、これを全アジア貿易の重要資金源とした。
オランダは台湾でもゼーランディア城を設けて、同地を支配した(1624-61。鄭氏台湾に取って代わるまでの間)。新大陸では、西インド会社によってハドソン下流域一帯にニューネザーランド(ニューネーデルラント)を入植、ハドソン川のマンハッタン島にニューアムステルダム市を建設した。
オランダがアジア貿易を有利に動かしていた時、モルッカ諸島で大きな事件が勃発した。オランダは1607年にポルトガルから同諸島を領有していたが、1600年に東インド会社を設立したイギリスが、モルッカ諸島の1つであるアンボイナ島(アンボン島)に商館を設置し、そこに日本人傭兵を置いていた。これには1619年における英蘭同盟により共存策をとっていたのだが、イギリス商館に不審を抱いたオランダ商館長は、イギリス商館の日本人傭兵を捕らえ、そこでの自白からイギリス側のオランダ商館襲撃計画が発覚し、1623年、オランダ商館側はイギリス商館長、商館員、日本人傭兵ら21人全員を拷問のうえ虐殺した。このアンボイナ事件(アンボン事件)でイギリスの東南アジア経営は頓挫し、モルッカ諸島から撤退することになる。
アンボイナ事件後、イギリスはインド経営と新大陸経営に専念した。インド経営では、インド東南部のマドラス、西岸のボンベイ、そしてガンジス下流のカルカッタを三大拠点と定め、植民地化を促進させていった。17世紀になると、ヨーロッパでの香辛料人気も翳りが出始めたとされ、オランダが徐々に後退し、イギリスが拠点としたインドの綿織物や、コーヒーや茶に人気が移り始めたことで、今度はイギリスが有利に動き出した。
一方新大陸経営では、1607年にヴァージニアを最初に植民し、ピューリタンのピルグリム=ファーザーズが上陸後はニューイングランド(北東海岸部一帯)の入植、また英蘭戦争(イギリス-オランダ戦争。1652-74)の優勢によって、新大陸のオランダ領ニューアムステルダムを占領、同市をニューヨークと改めた(1664)。その後1681年にペンシルヴァニア(キリスト教一派のクェーカー教徒のウィリアム=ペンの建設。1664-1718)の入植、最後のジョージア植民地建設(1732)まで、実に13州の植民地が完成した。
こうした中、フランスは東インド会社を1604年に設立したものの不振で、会社としての実力を発揮できるのは60年後の1664年からであり、他に大幅の遅れをとった。この1664年が実質的なフランス東インド会社の再建となったわけだが、これを手がけたのはルイ14世(位1643-1715)時代に活躍した当時の財務総監コルベール(1619-83)だった。彼は数々の重商主義政策でフランス財政の安定に努力した人物である。
フランス東インド会社は、イギリスと同じくインドに目を向け、イギリスの三大拠点の1つ、マドラスに近いポンディシェリ、また同じくカルカッタに近いシャンデルナゴルに拠点を構え(二大拠点)、新大陸経営においてもフランス西インド会社を設立して(1664)、かねてから関心を寄せていたカナダ進出を実行、ケベック、モントリオールを建設、また1682年、ルイ14世の名に因んで、ミシシッピ流域のルイジアナを植民、領有した。またアフリカ大陸においてもセネガル、マダガスカルに進出した。
これにより英仏間に植民地獲得競争が戦争となって拡大した(英仏植民地戦争。第二次百年戦争。1689-1815)。新大陸でのウィリアム王戦争(1689-97)・アン女王戦争(1702-13)・ジョージ王戦争(1744-48)・フレンチ=インディアン戦争(1755-63)、またインドでのプラッシーの戦い(1757)、3次に渡るカーナティック戦争(カルナータカ戦争。1744-48,50-54,58-63)など、連戦続きであった。結果それぞれの戦争はほぼイギリスが勝利を収め、1763年のパリ条約で、フランス領だったカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナはイギリス領となり(ミシシッピ以西のルイジアナはスペインへ渡る)、スペイン領フロリダもイギリスに手渡った。またフランスはインドにおいてもポンディシェリとシャンデルナゴルといった若干の商業都市のみ、駐留しないこと条件に領有を認められたが、それらを除く全てのインド植民地からは撤退した。
その後英仏蘭それぞれの東インド会社は、独自の道を進めていくが、フランス東インド会社は、パリ条約による敗退後、ブルボン財政悪化と同社経営不振から早速と解散した(1769。フランス東インド会社解散)。19世紀になるとフランスは東南アジア経営を進めた。カンボジア(1863)、ヴェトナム(1884)の保護国化を経て、コーチシナ・トンキンの2大直轄領とアンナン・カンボジアの2大保護領によるフランス領インドシナ(インドシナ連邦。仏印)を1887年に成立、1893年のラオス保護国化でインドシナ半島東半は完全にフランスの植民地と化した。
イギリスも東南アジアの植民地化を促進させた。目を向けたのはマレー半島で、中部西岸の島ペナン(1786)を占領し、中継港として利用した。1819年にはイギリスの植民地行政官・ラッフルズ(1781-1826)が、ジョホール=リアウ王国(1722-1824。マレー半島南端にあるリアウ諸島の1つ、ビンタン島を拠点としたマレー人のイスラム国家)の王からシンガポールを買収(1819)、東南アジア最大の拠点とした。そして1824年オランダ領のマラッカを占領、イギリス領とした。これらは1826年に海峡植民地とされた。
しかしイギリス東インド会社は、本国の産業革命の影響で、産業資本の拡大と共に、自由貿易の要求が高まり、結果イギリス議会は、東インド会社のインド貿易独占権を廃止案を可決(1813)、1833年には同社の商業活動を全面停止となった。これにより、インドのみならず、当時三角貿易を行っていた中国における貿易独占権は全て喪失、インド統治権のみ残された。さらにインドにおけるシパーヒーの反乱(1857)の失政責任から、翌1858年、東インド会社は解散した(イギリス東インド会社解散)。このため海峡植民地は1867年、イギリスの直轄植民地となり、1895年イギリス保護領としてマラヤ連邦(マレー連合州。マライ連邦)の設立へと向い、ゴム・プランテーション経営が促進された。また北ボルネオのブルネイも1888年イギリス領となった。またミャンマーにおいても3次に渡るミャンマー戦争(ビルマ戦争。1824-26,52-53,85-86)を繰り広げ、その最中に当時のミャンマー王朝であるコンパウン朝(アラウンパヤー朝。1752-1885)も滅ぼし、終戦直後イギリスによるビルマ併合が実現された(1886)。
そしてオランダ東インド会社はジャワ島を中心に征服活動を促進させた。1755年には内紛で滅亡したマタラム王国民を支配下に入れ、18世紀半ばまでにはジャワ全島の征服を完了した。しかし、本国オランダはフランス革命(1789-99)の影響を受けて解体(一時期オランダはバタヴィア共和国と改称。1795-1806)、さらにナポレオン(1769-1821)がオランダ本国を征服したことで、ジャワ全島の直接統治を望み、1799年、オランダ東インド会社は解散させられた(オランダ東インド会社解散)。
これを機にジャワの反蘭運動は過激さを増した。反蘭運動に乗じて一時イギリスのラッフルズによってジャワを占領したこともあったが、5年後にオランダへ返還された(1811-16)。このためジャワ島民は1825年、これまでにない大規模な反乱を起こした(ジャワ戦争。ディポネゴロ戦争。1825-30)。ジャワ戦争鎮圧後もオランダは手を緩めず、東インド総督ファン=デン=ボス(任1830-33)の指揮のもと、現地農民に対し、さとうきび・藍・コーヒーなど政府指定の輸出作物を強制的に栽培させ、これを安い価格で買い上げ、本国に輸出するという強制栽培制度を採用したが、厳しすぎるとの意見もあって1860年代から廃止の方向へと向かった。
またスマトラではアチェー王国との抗争が本格化し、反蘭運動が戦争規模と化した(アチェー戦争。1873-1912)。この戦争は多くの犠牲者を出し、1903年にアチェー王国スルタンの降伏後も断片的に継続したが、降伏した翌1904年を区切りとして、インドネシアの全群島はほぼオランダの支配下に入り、オランダ領東インド(蘭印)となった。
こうして東南アジアの諸国家は、植民地経営に巧みなヨーロッパ3国によって、次々と侵食されていき、本格的な帝国主義時代が到来した。その後も植民地獲得競争が激化、列強の膨張化が促進されていき、こうした結果はやがて第一次世界大戦(1914-1918)という痛ましい全体戦争へとつながっていく。この時代、独立を守ったのはタイ国チャクリ朝(ラタナコーシン朝。バンコク朝。1782- )だけであった。
連載第104話目は、世界史受験生があまり好まない分野であります、植民地関係をご紹介しました。ヨーロッパとアジアが混ざった歴史は意外ととけ込みにくいというのが苦手としている理由だと思います。本編は15世紀のトルデシリャス条約から1763年のパリ条約までが1つのセクションで、もう1つは東インド会社亡き後の植民地経営、つまり帝国主義時代の前半あたりが範囲となります。
本日の学習ポイントに参りましょう。植民地争いの最初の処置は教皇子午線とトルデシリャス条約です。この2つは覚えましょう。サラゴサ条約もホントは大事なのですがあまり出題されません。
ポルトガルはゴア、マラッカ、モルッカ諸島、広州、マカオ居住権、種子島あたりがキーワードでしょう。またブラジル経営は一貫してポルトガルの政策です。
スペインは中南米経営です。ポトシ銀山による銀の独占、インディオの強制労働で人口激減にともない、奴隷貿易によって黒人奴隷を連れてきます。エンコミエンダ制やラス=カサスも有名ですが、余裕があったら覚えてください。また、サラゴサ条約の例外として、フィリピン領有があります。マニラ建設は覚えましょう。
ポルトガルとスペインの時代が去って、オランダ・イギリス・フランスの東インド会社時代となります。まずオランダですが、アジア貿易ではジャワ経営が軸です。バタヴィア市建設は重要です(今のジャカルタ市です)。セイロンとマラッカも占領します。そしてアンボイナ事件でイギリス勢力を締め出してオランダ領東インドの基礎作りを行っていきます。台湾のゼーランディア城も重要ですね。新大陸ではオランダ西インド会社が経営を進めて、ニューネーデルラントを植民、ニューアムステルダムを建設します。
イギリスはアンボイナ事件後、インド経営と新大陸経営に専念します。インドの三大拠点、マドラス・ボンベイ・カルカッタは地図で確認しておきましょう。新大陸では、13植民地についてですが、13州すべて知る必要はありません。最初のヴァージニアと最後のジョージアは知っておいても良いと思います。あとニューアムステルダムからニューヨークと改称したことも知っておきましょう。
フランスですが、インドの二大拠点、ポンディシェリとシャンデルナゴルは、イギリスの三大拠点同様、地図で確認しておきましょう。新大陸ではカナダとルイジアナ領有は重要なところでしょう。
東インド会社の設立年は覚えてください。イギリスは1600年、エリザベス1世時代です。フランスは1604年のアンリ4世時代です。フランス東インド会社は設立時は経営不振で、ルイ14世時代にコルベールが再建しました。再建した1664年も覚えておきましょう。オランダは1602年です。
英仏植民地戦争はヨーロッパ・インド・新大陸で戦争が別々に展開していきました。ウィリアム王戦争(新大陸)=ファルツ継承戦争(西欧)、アン女王戦争(新大陸)=スペイン継承戦争(西欧)→ユトレヒト条約で決着、ジョージ王戦争(新大陸)=オーストリア継承戦争(西欧)→アーヘンの和約で決着、フレンチ=インディアン戦争(新大陸)=七年戦争(西欧)=プラッシーの戦い(インド)→パリ条約で決着、だいたいこれぐらいで良いかと思います。カーナティック戦争はあまり出題された印象はないのですが、活躍したフランスのインド総督デュプレクスはたまに出ることがあります。プラッシーの戦いに活躍したベンガル知事のクライヴは知っておいても良いかと思います。
あと東南アジア分割の時代では、イギリスは海峡植民地の形成は知っておきましょう。ペナン・シンガポール・マラッカ領有後に誕生しています。その後、直轄領となり、マラヤ連邦(新課程ではマレー連合州)となります。シンガポールはラッフルズがジョホール王から買収したことも知っておきましょう。オランダはオランダ領東インドが本格化されます。東インド会社解散して、ジャワ戦争後、ファン=デン=ボスの強制栽培制度が始まります。余裕があれば、アチェー戦争も知っておくと便利です。
フランスですが、東インド会社時代よりも露骨に膨張策を行います。本編ではあまり話しておりませんので、もう少しここで補足させていただきます。まず、インドシナ半島侵略ですが、仏越戦争(1858-62)でスタートします。当時ヴェトナムは大越国から越南国に替わり、王朝は阮朝(げん。グェン。1802-1945)でした。阮福映(げんふくえい)が作った王朝です。戦後すぐサイゴン条約(1862)が締結されて、コーチシナ東部割譲、サイゴン・ダナン・ハイフォン開港、キリスト教布教の自由が決まります。その後、カンボジア保護国化(1863)、全コーチシナ併合(1867)、ユエ条約(アルマン条約。1883,84)でついに越南国を保護国化します。
ヴェトナムの宗主権(そうしゅけん。他国の軍事権や外交権を行使する権利)を持つ清朝(1616-1912)は、フランスの保護国化を知って、清仏戦争(1884-85)を起こします(フランスから開戦)。結果、イギリスの調停で天津条約(1885)が結ばされ、フランスのヴェトナム保護国化が決定します。ということで、フランスは1887年、フランス領インドシナ(インドシナ連邦。仏印。1887-1945)の完成に至ります(総督府所在地はハノイ市)。またラオスも1893年保護国化して、結果東南アジアはタイのみ独立を守ります。出題傾向の高いところなので、覚えておいた方がよいと思います。