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世界史の目

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ギャラリー

第260話


イル=ハン国・前編

 モンゴル帝国(狭義1206-71。広義1206-1388。北元が滅ぶ1634?/35?を滅亡年とする場合もある)の初代皇帝チンギス=ハン(1162-1227。太祖。帝位1206-27)の孫で、チンギスの四男トゥルイ(1192-1232)の五番目の子にあたるフラグ(フレグ。1218?-65)は、第4代モンゴル皇帝モンケ=ハン(憲宗。帝位1251-59。トゥルイの長男でフラグの長兄にあたる)の在位中、西アジア一帯の征服事業を任され(1253)、バトゥ(1207-55)の大西征(モンゴルのヨーロッパ遠征。1236-1242)に続く大規模な遠征を実行することとなった(フラグの西征。1253-60)。最大の目標は中東のアッバース朝(750-1258)の征服であった。

 モンゴル帝国は縦横無尽に拡大を続ける大帝国で、ユーラシア大陸を東西に横断する領域を誇り、最大で地球上の陸地面積の4分の1(当時)の版図を築いたとされる。しかしこれだけの大帝国であっても、遊牧国家が異なる民族や慣習、宗教、文化を包括してしっかり統治するには、帝国を中央政権から分封させ、分けられた数々のウルス(現モンゴル語では「国」を表す。歴史的に見たウルスとはモンゴル民族における氏族単位での国家的・政治的な集合体をさす)に地方統治させる必要があった。分裂したそれぞれのウルスは緩やかな連合体としてモンゴル帝国の皇帝権を守りながらも、自身は半独立的な小国家を統治していった。やがて各ウルスはハン国と称して中央から分離独立して、独自の国家を形成していくのである。代表的には中央アジアのチャガタイ=ハン国(1212-1340年代分裂)、南ロシアのキプチャク=ハン国(1243-1502)などがあり、今回のフラグの西征によって誕生するフラグ=ウルス、世に言うイル=ハン国(1256?/58?/60?-1353)もその一つであった。

 西征を開始したフラグは従軍した郭侃(かくかん。?-1277)らとともに1256年、イランのニザール派(ヨーロッパ側の異称はアサッシン派。シーア派一派のイスマーイール派から分派)を制圧してイランを支配、そしてハマダーン(イラン中西部)を通り1257年末にアッバース朝の首都バグダードに入城、翌1258年1月に包囲した(1258。バグダード包囲)。モンゴル軍はバグダッドを火の海にし、病院や図書館などを焼失させ、多くの市民を虐殺、宮殿の財宝を略奪した。ただしケレイト族の王女だったフラグの妻ドクズ=ハトゥン(?-1265。ハトゥンはハンの妻、つまり后妃を表す)が東方正教会を信仰していたため、バグダッドに住む同教徒の被害は免れたといわれる。ついに翌2月、アッバース朝第37代カリフ、ムスタシム(ムスタアスィム。カリフ位1242-58)は投降、ムスタシムと長男、次男は処刑され、アッバース朝は名実ともに滅亡した(1258アッバース朝滅亡)。なおムスタシムの叔父ムスタンシル2世(?-1262)はその後マムルーク朝(1250-1517)に保護され、国家的・政治的権力を持たない名目上のカリフとしてカリフに即位した。結局アッバース朝の流れをくむ帝位としてのカリフはアッバース朝がなくなった後もマムルーク朝に保護され、1517年にムタワッキル3世(カリフ位1508-17)がオスマン帝国(1281-1922)の第9代スルタン、セリム1世(位1512-20)にカリフ位を剥奪されるまで継承されていく。これをカイロ=アッバース朝と呼ぶことがある(しかし同王朝は1517年、マムルーク朝とともにセリム1世によって滅ぼされた)。

 西征の大目標を達成したフラグは、イラン北西部のマラーゲ(マラーガ。現、東アゼルバイジャン州の都市)を拠点にフラグのウルスを組織した(1258。1256年説もあり)。翌1259年長兄モンケ=ハンが没し、ハン位を巡って四兄のフビライ(クビライ。1215-94)とフラグの直弟であるアリクブカ(アリクブケ。?-1266)が継承戦争を引き起こしたため、フラグは帝国のハン位を狙うことは不可能であった。結果フラグは自立して西アジアにとどまり、自身のウルスを「部族のリーダー」を意味する「イル=ハン」を国号として「イル=ハン国イルハン朝)」を建国(1258。フラグのウルスとして成立した1256年を建国年とする場合もある。他、1260年を建国年説もある)、フラグはイル=ハン国初代ハンとなった(ハン位1256?/58?/60?-65)。フラグのもとで都市マラーゲは栄え、天文台が建設されて暦学や天文学も広まった。またマラーゲ北方のタブリーズも主要都市の1つであり、マラーゲと並ぶイル=ハン国の首都として繁栄した(タブリーズを首都に定めたのは1260年、1265年、1299年など諸説あり)。都市タブリーズの商業施設は、西アジアの由緒あるバザールとして、2010年にユネスコの世界遺産に登録された。

 アッバース朝を滅ぼしたフラグの軍は、この後シリア北部を攻め、将軍キトブカ=ノヤン(?-1260)の活躍でアレッポやダマスクスを攻略し、エジプトに迫る勢いを見せた。当時のエジプトはマムルーク朝の第4代スルタン、ムザッファル=クトゥズ(スルタン位1259-60)の時代で、かつて第6回十字軍(1248-54。第7回と数える場合有り→【詳細】)を撃退し、エジプト北部のマンスーラでフランス王国(987-1792,1830-48)のカペー朝(987-1328)国王ルイ9世(位1226-70)率いる軍と一戦を交え(マンスーラの戦い。1250.2)、ルイ9世を捕らえて武勲をあげた将軍バイバルス(1223-77)の率いる強力な軍が待ち構えていた。バイバルスはマムルーク軍人(奴隷出身軍人)の出で、アイユーブ朝(大アイユーブ朝。1169/71-1250)の時代より軍隊統率力とすぐれた戦術を兼ね備えた精鋭であった。ムザッファル=クトゥズはバイバルスにシリア奪還とエジプト死守を命じた。この間モンゴルではモンケが没した時期と重なり、フラグの主力軍はシリアから撤退し、キトブカ=ノヤンの部隊のみ駐屯していた状況であった。これが命取りとなり、1260年9月、パレスチナのアイン=ジャールート(現在のジェニーン。ヨルダン西岸地区の北部)での戦役でモンゴル軍は大軍を率いたバイバルスのマムルーク朝軍に敗れ、キトブカ=ノヤンは陣没した(キトブカ=ノヤンは捕らえられて処刑の説もあり)。バイバルス軍はダマスカス、アレッポを含むシリアをイル=ハン国から奪還、エジプトを守った(この直後、バイバルスに支持が集まり、逆に支持を失ったクトゥズはクーデタにより殺され、バイバルスが第5代スルタンになる。スルタン位1260-77)。

 フラグにとって、アイン=ジャールートでの敗戦は屈辱的であった。世界が誇るモンゴル帝国軍の不敗神話が崩壊した瞬間であった。実質的にはチンギス時代の1221年に中央アジア西部のホラズム朝(ホラズム=シャー朝。1077-1231)を相手にアフガニスタン東部のパルヴァーンで一度敗れたことがあるが、結果的にはホラズム朝を征服している(1221征服完了。1231ホラズム朝滅亡)。今回は反撃なく、マムルーク朝の脅威を見せつけられたモンゴル軍であった。
 そればかりか、ジュチ家(バトゥの父であるジュチはチンギスの長男。1177?/84?-1224?/25?)とフラグのトゥルイ家の対立も起こった。ジュチ家のウルスでは、カスピ海北方のサライを都に定め、キプチャク=ハン国(ウクライナからカザフスタンにかけて、テュルク系遊牧民キプチャク人がおり、これら一帯のキプチャク草原をほぼ支配したのでこの名がある。本来はジュチ=ウルスに含まれる)として南ロシアにその勢力を轟かせた。フラグのイル=ハン国がマムルーク朝にアイン=ジャールートで敗れた1260年、ジュチ=ウルスでは、ジュチの三男およびバトゥの直弟であるベルケ(?-1266?)がジュチ=ウルスの当主であった(位1256?/57?-66。ベルケはキプチャク=ハン国の首都となるサライを建設した当主として有名)。ジュチ家はフラグの西征軍に有能な部将たちを派遣させていたが、アイン=ジャールートでの敗戦の際にその部将たちが謎の不審死を遂げたことでフラグ側の暗殺説が浮上し、両家の関係に緊張が走った。結果的にフラグのイル=ハン国は、ベルケのキプチャク=ハン国と国境を為すアゼルバイジャン方面の支配を巡って対立が起こり、1262年、フラグは長子アバカ(1234-82)とともに、ベルケ軍とカスピ海西側を流れるテレク川で争った(ベルケ=フラグ戦争)。アバカの軍は、ベルケを助けたジュチの曾孫ノガイ(?-1299)の軍と互角の争いを見せ、幾度と撃退したものの決着はつかなかった。ベルケはマムルーク朝のバイバルスとも友好関係を結んで、間に挟まれたイル=ハン国を脅した。

 ジュチ家に加えてイル=ハン国の動揺につけ込んだのがチャガタイ家であった。ちなみに再整理すると、チンギスの子は長男はジュチ、次男はチャガタイ(?-1242)、三男オゴタイ(オゴデイ。太宗。位1229-41)、そしてモンケ、フラグが出た四男トゥルイである。
 オゴタイ没後、モンゴル第2代皇帝オゴタイの子グユク(1206-48)に第3代皇帝を継承する際にも(定宗。帝位1246-48)、トゥルイ家のモンケが次代の継承者になることができなかったことでオゴタイ家と対立していた。またグユクが急死し、モンケが帝位に就いたことから、オゴタイ家の遺族がチャガタイ家と結んでモンケ暗殺を企てたことが露顕し、モンケはオゴタイ家とチャガタイ家に弾圧を加え、両家は勢力低下を余儀なくされた。こうした背景から、モンケが没し、その弟であるフラグのイル=ハン国がイスラム軍に敗れたことで、チャガタイ=ハン国は好機とばかりにイル=ハン国と対立を深めたのである。モンケ没後の帝位を巡り、フラグは結果的に第5代モンゴル皇帝となった兄フビライを支援し(帝位1260-94)、イルハン国と、後に誕生する大元ウルス(だいげん。朝のこと。げん。1271-1368)とはその後も良好な関係を築いた。一方、ジュチ家(キプチャク=ハン国)とチャガタイ家は、オゴタイ家から出たハイドゥカイドゥ。?-1301)と、フビライと対立したアリクブカを支援し、イル=ハン国とチャガタイ=ハン国の国境地帯であるホラーサーン地方を巡って対立を深めた。こうして、フラグのウルスは、建国早々、外交的に不安定な情勢となった。こうした中、フラグは1265年2月にマラーゲ近郊で没し(フラグ没1265)、妃のドクズ=ハトゥンも同年に没した。

 フラグの長子アバカは、父の遺志を継ぎ、イル=ハン国第2代ハンに即位した(ハン位1265-82)。アバカ=ハンの治世においても対外情勢が安定せず、東のチャガタイ=ハン国、北のキプチャク=ハン国、西のマムルーク朝は脅威であった。フラグの没によるイル=ハン国の混乱に乗じて、マムルーク朝のバイバルスはシリア北部へ軍を送り、アイン=ジャールートの戦いでフラグ軍に味方した十字軍国家の1つ、アンティオキア侯領(1098-1268)を1268年に滅ぼし、東方に隣接するイル=ハン国に迫り脅した。ジュチ家のウルスであるキプチャク=ハン国では、フラグ没後にアゼルバイジャン(南コーカサス方面。黒海とカスピ海に囲まれた地域で、現在のアゼルバイジャンはカスピ海西岸側に位置)に軍を送り、クラ川(カフカス地方最大の川。ジョージアやアゼルバイジャンを通り、カスピ海へ注ぐ)北岸でイル=ハン軍と戦うが、1267年(1266?)年にベルケが急死して一時的に停滞した。

 またチャガタイ=ハン国の存在も大きかった。アバカは、ホラーサーンをイル=ハン国から奪い取ろうとするチャガタイ=ハン国君主のバラク(位1266-71?)と対立し、1270年7月、ホラーサーン東部のヘラート(現在のアフガニスタン北西部)近郊にあるカラ=スゥ平原で交戦した。結果、アバカ率いるイル=ハン国の軍は、バラク軍よりも明らかに戦力数が少なかったものの、団結力で勝利を収めた。チャガタイ=ハン国ではバラクが没し(ハイドゥによる暗殺説もある)、臣下が離反して低迷した。イル=ハン国のこの戦勝は大きく、これまで同族でありながら続いていた隣接するハン国との緊張が一時的ではあるが緩和され、アバカ=ハンはフビライ帝から正式にイル=ハン国君主の承認を受けた。

 アバカの晩年は、残された宿敵であるバイバルス率いるマムルーク朝軍のシリア侵攻に悩まされ続けた。バイバルスは1277年に没したが、後を継いだ第8代スルタン、カラーウーン(位1279-90)も強力で、1281年のシリア西部のホムス戦には敗れ、失意の内にアバカは没した(アバカ没。1282)。アバカはキリスト教(ネストリウス派)を信仰していた関係で東西ヨーロッパ諸国とも関係を持ち、元来父フラグに嫁ぐ予定だった東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)パラエロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)の初代皇帝ミカエル8世(ミハイル8世。位1261-82)の娘マリア(デスピナ。"モンゴルのマリア"。生没年不詳)と結婚した。イル=ハン国同様、マムルーク朝と対立する東ローマ帝国との同盟関係による婚姻とみられる。またアバカはイングランド王国(825-1707)のプランタジネット朝(1154-1399)国王エドワード1世(位1272-1307)ともつながりを持ち、1270年の第7回十字軍(第8回と数える場合有り→【詳細】)で、軍指揮のフランス王ルイ9世没後、イスラム勢力から十字軍国家を防衛する際、交渉を持ったとされる。

 アバカ没後、アバカの長男アルグン(?-1291)は次期後継者として見込まれていたが、アバカの弟(フラグの七男)であるテグテル(?-1284)が第3代イル=ハン国のハンとなった(位1282-84)。アルグンとテグテルはハン位をめぐって争っていたライバルであった。またキリスト教徒だったアバカに対し、テグテルはイスラム教徒であり、ヨーロッパ諸国と手を結びイスラム勢力を敵対したアバカの治世とは打って変わり、これまで敵対していたイスラーム王朝であるマムルーク朝との関係修復に努めた。しかしテグテルはアルグン派の反乱に巻き込まれて命を落とした(1284)。結果、アルグンが第4代ハンとなり(位1284-91)、親マムルーク政策は2年で終わった。

 ヨーロッパ方面は十字軍国家の打倒に専念していたマムルーク朝の脅威にさらされており、1289年には十字軍国家のトリポリ伯領(1102-1289)がマムルーク朝の軍に占領された。そして、最後の十字軍国家であり、第1回十字軍(1096-99)によって建設された、いわば十字軍時代の象徴とも言うべきイェルサレム王国(1099-1291)を守るべく、アルグンはネストリウス派キリスト教の僧侶ラッバーン=バール=サウマ(?-1294)をヨーロッパへ派遣し、彼を通じてローマ教皇ニコラウス4世(位1288-92)、イングランド王エドワード1世、フランス王フィリップ4世(1285-1314)らと関係を交わして、対イスラム勢力打倒に向けて、再度十字軍を結成することに協力した。しかしアルグンは病気を患い1291年に34歳で病没したため(アルグン没。1291)、十字軍結成はかなわず、同年イェルサレム王国もマムルーク朝に滅ぼされ、200年続いた十字軍時代も幕が下ろされた。

 アバカが没してからはハン位後継者をめぐり宮廷や軍の権力争いが主流となり、イル=ハン国の君主は短命政権となっていった。テグテル、アルグンの後もガイハトゥ(位1291-95。第5代。アバカの次子)、バイドゥ(位1295。第6代。フラグの孫、アルグンの従弟)と続くが短命で、国家財政も破綻危機に陥り、不安定な治世となった。この情勢に陥ったのは、西アジアの地に入った遊牧民であるモンゴル民族と、イラン系民族を主とする原住民との不調和が原因であった。モンゴル人第一主義の体制は元朝でも見られたが、高圧的なモンゴル式政策はしばしば原住民族の不満を高めた。また、軍事、官僚、文化、技術など様々な方面におけるペルシア系要人らの権力関係も入り混じり、中央と地方、あるいは部族間での対抗意識が芽生えるなど、モンゴル皇帝の血筋であっても容易に長期政権を築くことができない情勢にあったのである。イル=ハン国の情勢安定化にむけては、まず国家を構成するための税制、および地方制度などの諸改革を施す必要があったのである。イル=ハン国の本当の全盛期はまだ訪れていなかった。

 こうした中、バイドゥ没後にハン位後継者として第7代のイル=ハン国のハンに就いたのは、アルグンの長男であるガザン(1271-1304)であった(位1295-1304)。  


 前回の更新が2016年の6月ですから、なんとも久方ぶりの更新となりました。長らく待たせてしまい申し訳ございませんでした。ということで、今回は2部連続の同時更新です。
 モンゴル帝国の分身としてスタートしたイル=ハン国が、自立した西アジア国家として羽ばたいていくその歴史の前半をご紹介しました。モンゴル帝国では、領土が子孫に分与されると子孫はそれぞれの国家的機能を持った自治体(つまりウルスです)を構成し、それらはモンゴル皇帝に敬意を表す緩やかな連合として構成されます。モンゴル帝国は各ウルスによって構成された形です。モンケ=ハンが没して以降のモンゴル帝国は、フビライがモンゴル帝国の宗主として大ハーン(つまりモンゴル皇帝)となり、中国で大元ウルス(元朝)を建設、他、南ロシアにジュチ家のウルス(キプチャク=ハン国)、中央アジアにチャガタイ家のウルス(チャガタイ=ハン国)、そして西アジアには今回の主役、フラグ家のウルス(イル=ハン国)に分裂します。いちおうこれらでモンゴル帝国を構成しているわけですが、見方によっては、モンゴル帝国そのものは1271年にフビライが大元と国号を改めた時点で消滅し、地方に散らばった各ウルスは大ハーンがいる大元に敬意を表しながらも、それぞれ対等的立場になったという解釈もできます。実際は、大ハーンが戴くモンゴル皇帝の帝位は、元朝が1368に滅亡し、首都であった大都(だいと。現・北京)を離れて北元(ほくげん。狭義では、フビライ系統での北元として1368-88。広義では1635年まで存続)となっても受け継がれていきます。いちおうその間もモンゴル帝国は実体がなくも精神的な存在がありました。
 こうした中でもモンゴル帝国は縦横に争いは絶えないのですが、これらは内戦と言うべきか対外戦というべきか、たとえばフビライとアリクブケ、ハイドゥの各内乱、アイン=ジャールートでのフラグとベルケの戦争など、お互いがモンゴル帝国内のウルス同士なのか、または対等な自立国同士なのか、いつも迷います。

 さて前置きが長くなりましたが、今回はモンゴル帝国の中でも西アジアに誕生したイル=ハン国のお話です。大学受験での学習ポイントを見てまいりましょう。ここまでのお話でイル=ハン国関係で覚えることは、①フラグが1258年にアッバース朝を滅ぼしてイラン地方にイル=ハン国を作った、②マムルーク朝と争い、モンゴル軍が初めて負けた、今のところはこの2つで結構です。イル=ハン国はモンゴル帝国分裂後の、いわゆる「4ハン国」のイラン方面ですが、現在はオゴタイ=ハン国は存在しない見方が強いので(オゴタイ家のグユク没後、モンケ=ハンがオゴタイ家を解体させたため。本編参照)、3ハン国として覚えるようになってきております(かつては"キプイルオゴチャ"の覚え方があったのですが)。
 あと余裕があれば、イル=ハン国の首都はタブリーズであること(マラーゲも有名都市ですが、試験に出ることは稀)、国家誕生当初はネストリウス派キリスト教を信仰したこと、イル=ハン国を打ち負かしたマムルーク朝のスルタン、バイバルス(1世)や、第6回十字軍以降と時代が重なることも知っておくと便利です。さらに超マイナーな話題ではイル=ハン国がバイバルス率いるマムルーク朝に負けた戦地、アイン=ジャールートも頻繁に出題されるわけではないですが、問題文中に出ると、ヒントになるかもしれません。

 実はこの後のイル=ハン国も重要どころがありますので、それは後編にてご紹介します。本編最後に登場したガザンなる人物の登場で、イル=ハン国誕生以来の大改革が行われます。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。