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トゥッティ フラテッリ
リソルジメント(イタリア語。"再興"や"復興"が原義)を叫ぶイタリア統一運動が行われていた19世紀。1858年、プロンビエールの密約でフランスと手を組んだ、イタリア統一を目指すサルディーニャ王国(1720-1861)は、オーストリア帝国(1804-67)を相手に激戦を始めた(イタリア統一戦争。1859.4-59.7)。当時のサルディーニャ王国はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(サルディーニャ王位1849-61。イタリア王位1861-78)の治世、一方フランスは第二帝政(1852-70)の時代で、皇帝ナポレオン3世(帝位1852-70)が治めていた。一方のオーストリア帝国はフランツ=ヨーゼフ1世(帝位1848-1916)が皇帝として君臨していた。
1859年6月24日、サルディーニャとフランスの連合軍が、オーストリア帝国軍とイタリア北西部・ロンバルディア地方のソルフェリーノで決戦が行われた(ソルフェリーノの戦い。1859.6)。しかしナポレオン3世も敵のフランツ=ヨーゼフ1世も無策で、朝から激しい戦火が飛び交いながらも、両軍とも兵士を次々と失っていった。結果、フランス、サルディーニャの連合軍が勝利したが、両軍合わせて40,000人以上の死傷者を出し、戦場となったソルフェリーノは凄惨な状況であった。激戦が終わっても状況はなかなか収束せず、戦死者や、重傷を負った兵士が放置されたまま辺りを覆い尽くしていた。この状況を目撃したひとりの銀行家は、惨状を見過ごすわけにはいかず、救援活動を行うのである。この銀行家はジャン=アンリ=デュナン(1828.5.8-1910.10.30)といった。
デュナンは1828年5月8日、スイスのジュネーヴで生まれた。名家の生まれで、家族はカルヴァン派を信仰した。デュナンはカルヴァン高校(ジュネーヴ学校)に入学するが、成績不振により中退した。21歳の時、ポール=ルラン=エ=ソテ銀行に就職する傍ら、「木曜会」を結成して聖書を学習するなどキリスト教活動にも精力的に行った。当時はイギリス・ロンドンで福音主義に基づいた啓蒙活動や奉仕活動が盛んであったが、有名なのがジョージ=ウィリアムズ(1821-1905)が1844年に創設したキリスト教青年会(Young
Men's Christian Association。YMCA)である。やがてデュナンもこれに加わり、キリスト教に基づいた国際的活動を志し、ジュネーヴでもYMCA活動に尽力した。
1853年、デュナンは銀行の職務により、アルジェリア、チュニジア、シチリアを訪問することになった。フランス領となっていたアルジェリア北東部のセティフを視察した時、デュナンはアルジェリアに住むアラブ系やベルベル系民族が迫害を受け、貧窮している惨状を目の当たりにしたのである。またアルジェリアから帰国した際、デュナンはフランス語に翻訳された『アンクル=トムズ=キャビン(アンクル=トムの小屋。19世紀アメリカ奴隷制度下いおける黒人奴隷の悲劇)』を読み、その著者であるストウ夫人ことハリエット=ビーチャー=ストウ(1811-96)と対面の機会を得、同じカルヴァン派の立場から苦しむ人たちを手助けするという同一の価値観に共感をおぼえた。またクリミア半島を主戦場に1853年から始まったクリミア戦争(1853-56)での人道的・献身的な救援活動を行った、デュナンの8歳年上のフローレンス=ナイティンゲール(ナイチンゲール。1820-1910)にも深い共感を覚えた。
ヨーロッパとアフリカの格差に気付いたデュナンは、カルヴァン派の立場から国際的な奉仕活動を推進して、アルジェリアの生活水準を改善させることを志し、翌1854年、ポール=ルラン=エ=ソテ銀行を退職し、実業家に転身した。アルジェリアのモン=ジェミラにて、原料となる小麦農場をつくり、製粉会社を設立する計画である。翌1855年、デュナンはパリにおいてもYMCA活動を展開して同志を集めていき、資金や備品、工場設備を調達して1858年には事業が始められる目処が立った。しかし、アルジェリア植民地を取り締まるフランス総督の非協力により、アルジェリアでの土地使用の認可が下りず、また生産に必要な水が足りなかったため、事業は早くも暗礁に乗り上げた。
デュナンはアルジェリアの窮状をうったえ、土地利用と水の確保の認可を得ようと、直接ナポレオン3世に謁見することを試みた。冒頭の通り、当時ナポレオン3世はサルディーニャと連合を組み、ロンバルディアでオーストリア帝国軍と戦っている最中であった。ナポレオン3世がソルフェリーノにいることを聞きつけたデュナンは現地に向かった。戦地ソルフェリーノでは、、戦火で焦土と化し炎を上げた戦場はその後降ってきた雨によって黒煙に変わり、戦場の人たちは血まみれになりながら情け容赦なく倒れていった。現地に至ったデュナンは、この光景を目の当たりにしたのであった。
戦場となったソルフェリーノを含むロンバルディアは、当時オーストリア帝国を構成する王国(クラウン・ランド)の1つであるロンバルド=ヴェネト王国(1815-66)に属しており、オーストリア帝国領であったが、その戦地ソルフェリーノでは死傷したオーストリア軍兵士と、敵地から来たサルディーニャ軍およびフランス軍兵士が多数横たわり、遺体は散乱、本拠オーストリアの兵士はおろか、結果的に勝利となるも負傷し倒れていたサルディーニャ=フランス兵も見捨てられたままでいた。救護するための道具、場所、医薬品、そして人手も確保されず、傷病兵は放置されたままであり、時間の経過で次々と落命していく人たちであふれかえった。デュナンは、慈善活動として参加していた地元の女性たちと共に、路傍に倒れ苦しんでいる傷病兵の救護・手当を始めた。またデュナンは、ソルフェリーノ北西に隣接するカスティリオーネ=デッレ=スティヴィエーレの教会(キエザ=マッジョーレ大教会)を野戦病院としての使用許可を受けて、負傷者をカスティリオーネ=デッレ=スティヴィエーレに搬送していった。しかし、そのカスティリオーネ=デッレ=スティヴィエーレの教会においても、治療が間に合わず死んでいく兵士が次々と散乱し、戦地から運ばれても教会に入りきらない傷病兵が教会の門前であふれた。
不眠不休の3日間、自軍敵軍の差別なく負傷兵を熱心に介抱する地元の救命団と同様、一人でも助けたいとの想いで献身的に治療を続けていたデュナンであったが、一方では戦勝したサルディーニャ=フランス連合軍より、敵軍であるオーストリア負傷兵への救急行為を批判された。デュナンは、傷ついた人を救護するのに敵か味方かの区別をする必要はなく、分け隔てなく傷病者を救護することが重要であり、痛みと苦しみは万国共通であって国家間問題に関わるものではないことを主張した。これを象徴するのが、デュナンが地元救命団とともに励まし合いながら必死に叫んだ「トゥッティ・フラテッリ(イタリア語"Tutti fratelli"。英語"All are brothers"。日本語"人類みな兄弟")」という、愛のある言葉であった。
ナポレオン3世との謁見をあきらめたデュナンは、ソルフェリーノを後にし、故郷であるジュネーヴに帰った。1862年、この経験を生涯心にとどめておくため、これを『ソルフェリーノの思い出(ソルフェリーノの記念。"Un Souvenir de Solferino")』として著し、自費で千数百部を出版した。この著書においても、敵味方如何に関わらず中立的な立場で人道的救援にあたることが必要であり、戦争時に負傷した人たちを救護するための国際的な戦時救護組織を設立させ、この組織の救護活動は戦争・平時に関わらず国際的な法律や条約によって保証されるべきであるとうったえた。
『ソルフェリーノの思い出』は特に各ヨーロッパ諸国の王室や政界、軍の首脳部といった重要部に贈られ、多くの翻訳本も出版されて、各国で大きな反響を呼んだ。デュナンは国際的救護組織を設立するために、同志の参加を呼びかけた。またデュナンは同年暮れに、スイス国内で福祉活動を行っている「ジュネーヴ公益福祉協会」という組織に入会した。この協会は法律家で同協会会長のギュスタブ=モワニエ(1826-1910)や、同協会会員であり、かつ技術家や政治家など様々な分野で活躍する軍人アンリ=デュフール(1787-1875)らで構成されていた。デュナンは自身が主張する国際救護組織の設立を協会の名士たちにも呼びかけ、関心が大いに集まっていった。
また、同じように戦地で傷病兵の救護を行ったナイティンゲールも同志として参加するものと思われたが、組織作りにおける見識の相違から参加は実現できなかった。ナイティンゲールは国際的な救護組織は自国の負傷兵を救護する義務がある各国政府の責務であると主張し、民間人が慈善的にこうした組織を作ることに賛同が得られなかったとされている。
翌1863年2月9日ジュネーヴにおいて、五人委員会(Committee of the Five)が発足された。メンバーはデュナン、モワニエ、デュフールの他、医学者であるルイ=アッピア(1818-98)とテオドール=モノワール(1806-69)ら5人である。そもそもジュネーヴ公益福祉協会の会長であるモワニエが、協会が救護組織としても取り組めるように決めたもので、協会員であったデュフール将軍は五人委員会の委員長として、審議の中心にあたり、デュナンは事務長及び書記を務めた。そして同月17日、第1回五人委員会が開催され、同委員会を「ジュネーヴ公益福祉協会」から独立した機関とし、傷痍軍人を救護するための国際委員会として、正式に国際負傷軍人救護常置委員会(International Committee for Relief to the Wounded)と名乗ることを決めた。同時にデュフール将軍がこの委員会の会長となり、モワニエは副会長、デュナンが事務局長に就任した。この1863年2月17日こそ、現在の赤十字国際委員会(後述)の発足の日となっている。第2回委員会は1ヶ月後の3月17日に、第3回は8月にそれぞれ開催され活動を活発化、国際救護組織設立にむけた国際会議をジュネーヴで開催すべく、デュナンはヨーロッパ各国や各主要都市を奔走した。そして、委員会の呼びかけに応じて、1863年10月26日、ジュネーヴのアテネ館にてついに委員会主催の国際会議が実現した(ジュネーヴ会議)。
この会議の参加国は、まずドイツ連邦(1815-1866)から盟主オーストリア帝国(1804-67)を筆頭に、プロイセン王国(1701-1918)、バイエルン王国(1806-1918)、バーデン大公国(1806-1918)、ハノーファー王国(1814-66)、ヘッセン大公国(ヘッセン=ダルムシュタット。1806-1918)、ザクセン王国(1806-1918)、ヴュルテンベルク王国(1806-1918)の8ヶ国に加え、イギリス、フランス、ロシア、イタリア、オランダ、スウェーデン、スペインの7ヶ国、そして開催国スイス、合計16ヶ国であった。また聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の代表も出席した。開会挨拶と議事進行は会議主催者であるデュフール会長とモワニエ副会長が行った。このジュネーヴ会議において、10ヶ条に及ぶ規約が審議された結果、「赤十字規約10ヶ条」が採択された。会議は翌1864年にかけて幾度と開催され、同1864年8月22日、傷病者の保護に関する「ジュネーヴ条約(赤十字条約)」が締結され、赤十字の救護機関が誕生することになった。開催国であるスイスの国旗(【外部リンク】から)を反転させた、白地に赤色の十字をほどこした標章(【外部リンク】から)が、赤十字のシンボルとなった。これを機に、世界各国で傷病者を救護する人道支援団体、国際赤十字社が設立されていくのである。ジュネーヴ条約に成功した国際負傷軍人救護常置委員会は、のち1876年に現在の赤十字国際委員会(ICRC。International Committee of the Red Cross)の名称を採用した。
ジュネーブ条約締結の翌1865年、非キリスト教であるオスマン帝国(オスマン=トルコ。1281-1922)が条約加盟国となった。トルコではイスラム教側などから、赤十字社という標章と名称が十字架を連想させるためにこれをさけ、赤新月社(せきしんげつしゃ)として発足し、トルコの新月旗(【外部リンク】から)にある三日月(新月)を赤くした標章(【外部リンク】から)を使った(1877年4月の露土戦争時に赤新月の標章が認可される)。またシーア派国家のカージャール朝ペルシア(ガージャール朝ペルシア。1796-1925)では、第4代シャーであるナッセレディーン=シャー(位1848-96)の時代である1874年末に加盟したが、赤新月をさけて「赤獅子太陽」を採用した(【外部リンク】から。1979年のイラン革命でイラン共和国となって以降は赤新月を採用)。
日本では西南戦争(1877)の時、佐野常民(さのつねたみ。1823-1902。もと佐賀藩士。元老院議官任1875-80。元老院議長任1882-85)らによって博愛社(はくあいしゃ)が設立され、1886年に日本政府がジュネーヴ条約に調印したことで1887年に日本赤十字社となった。
『ソルフェリーノの思い出』を契機に始まった赤十字運動は、国境を越えた国際活動として実を結んだが、その発端となった五人委員会の創設メンバー内では不調和が生じていた。日本を含む42ヶ国が参加した、パリ万国博覧会(1867.4-67.11)が開催中だった1867年8月、パリで第1回赤十字国際会議が開催されたが、この時すでにデュナンはジュネーヴを離れ、赤十字の所属者ではなくなっていた。デュナンは、かねてから並行して行われてきたジュネーヴでの金融機関の理事運営失敗やアルジェリアでの事業停滞などによる債務が膨らむ一方であり、法廷で係争中の身であった。モワニエはデュナンへの不信任から、彼を赤十字から追放する決意を固めたため、デュナンは「戦争捕虜への人道支援」問題を最後に唱え、委員会を辞任して赤十字社を去った。デュナンは翌1868年8月に裁判所から破産宣告が下り、これ以後ジュネーヴで活動することはなく、人々より忘れられた存在となっていく。
デュナンはパリで極貧生活を余儀なくさせられた。こうした中でも「秩序と文明のための世界同盟(Universal Alliance for Order
and Civilization)」を組織して戦争や捕虜問題に打ち込み、立て続けに講演を行った。講演には、パリ出身の平和運動家であり、経済学者フレデリック=パシー(1822-1912)らも参加した。パシーは自由貿易による国家間の相互依存を発展させることが平和につながると主張していた人物である。デュナンはその後、普仏戦争(プロイセン・フランス戦争。1870-71)の勃発により活動拠点をイギリスのロンドンに移し、講演では捕虜問題を解決するために国際間での戦争を防止するための仲裁裁判の制度化を大いに主張した。
デュナンは1873年に再びパリに戻った。フランスはナポレオン3世がプロイセン軍に捕らえられて普仏戦争の敗戦国となり、第三共和政(1870-1940)がしかれた。デュナンはアドルフ=ティエール大統領(1797-1877。共和国大統領任1871-73)ら政府要人にも平和と人道なる支援をうったえ続けた。デュナンの極貧生活は続いていたが、ストラスブールの音楽家ジョルジュ=カストネル(1810-67)の夫人だったレオニー=カストネル(1820-88)に出会ったことがきっかけで、彼女より生活支援を受けることができた。1887年頃にはスイス北東部のアッペンツェルにあるハイデン村に移り、1892年にはこの地の病院で隠遁生活を行った。しかしかつての体力や活力は減退しつつも、平和をうったえる強い気力は失われなかった。
1895年にデュナンの健在ぶりを伝える新聞記事がヴュルテンベルク王国首都のシュトゥットガルトで広まり、デュナンの生存が確認できたことで、すでに30数カ国の参加が実現した国際赤十字社の活動、およびデュナンの功績が再認識させられた。デュナンは自身が報道されると同時に、以前の活力を取り戻したかのように、平和と人道的救援を呼びかけた。報道機関に対しては戦争非難と恒久的平和を団結してアピールするべきだとうったえ、1897年に発表した『極東の諸国民に告ぐ』においては、1895年の日清戦争(1894-95)がもたらした惨状から、戦争を回避するための国家間における紛争解決を仲裁できる機関(国際的な仲裁裁判制度の確立)を強く主張した。当時は度重なる戦争で緊迫化した欧州情勢を少しでも緩和するため、ロシア皇帝ニコライ2世(帝位1894-1917)の提唱で26ヶ国が参加する第1回万国平和会議がオランダのハーグで開催され(ハーグ国際平和会議)、戦争を平和的に解決するための国際紛争平和的処理条約が締結され、毒ガスなど使用してはならない兵器、交戦する者、戦争捕虜、傷病者の定義などが規定された、陸戦の法規慣例に関する条約と規則、いわゆるハーグ陸戦協定も定められた。またこれらに基づいて、国際仲裁裁判所の設立も決められた。
忘れ去られていた赤十字社の創設者が再び注目を浴びるようになり、極貧を強いられた時代に知り合った友人で教授のルドルフ=ミュルレル(1856-1922)の計らいで、1901年デュナンはフレデリック=パシーとともに第1回ノーベル平和賞を受賞した。デュナンは授賞式に出席せず、ハイデンの病院から外へは出なかった。そして、受賞で得た賞金も授賞式が行われるノルウェーや母国スイスの赤十字社に寄贈した。そして日露戦争(1904-5)やバルカン問題といった戦火の飛び交うという、デュナンの主張に相反する事態になりながらも、1906年にはジュネーヴ条約が初めて改正された。ジュネーヴ条約改正に続き、1907年には第2回万国平和会議が開催され、ハーグ陸戦協定の改正も行われた。
「トゥッティ フラテッリ」の言葉に始まるデュナンの残した数々の栄光と功績は、人々の心を動かし続けていき、様々な人道と平和活動が繰り広げられていく中で、デュナンは1910年10月30日、82歳でその人生を静かに終えた(1910.10.30。デュナン死去)。奇しくも、デュナンが亡くなる2ヶ月前には、 デュナン同様、人道的にまた献身的な救援活動を行ったナイティンゲールが亡くなり(ナイティンゲールの死。1910.8.13)、その8日後にデュナンと同じく赤十字の創設者の一人で、五人委員会のメンバーだったモワニエもなくなっていた(モワニエ死去。1910.8.21)。
その後世界は、国際平和と協調を叫びながらも二度の世界大戦を経験したが、赤十字活動は国際平和を常に向上させながら、傷病者を敵味方関係なく、人道的立場で救護し、人々に貢献した。これらの活動により、1917年と1944年の2度にわたり、赤十字国際委員会(ICRC)はノーベル平和賞を受賞した(1963年にも受賞)。戦後の1949年には、1864年に締結されたジュネーヴ条約から3度改正(1906,1929)が行われた諸内容を統一し、人々の人道的な保護を重要とする法的整備を行い、ジュネーヴ四条約(ジュネーヴ諸条約。1949)としてまとめられた。四条約とは、1)戦地の傷病者の改善、2)海上の傷病者の改善、3)捕虜の処遇について、4)戦時における文民保護の4つからなる。またこうした国際人道法は途中で止まることなく、人々のために日々改善・発展していくことが求められた。
赤十字は1965年、オーストリアのウィーンで開催された第20回赤十字国際会議において、赤十字および赤新月における基本7原則が採択された。それは、「人道」「公平」「中立」「独立」「奉仕」「単一」「世界性」の7つの原則であり、赤十字の基本的精神である「人道」を果たすため、以下の諸原則が必要不可欠であるという内容である。現在、赤十字は赤十字国際委員会、国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC。International Federation of Red Cross and Red Crescent Societies。1919年、ジュネーヴで発足)、そして190の国と地域において活動する赤十字社と赤新月社で成り立っており、世界の人々の平和的支柱となっている。
デュナンの残した言葉"トゥッティ フラテッリ"を出発点に始まった人道的活動は、こうして様々な組織によって行われ、これらは過去の戦争の悲惨さを未来永劫忘れることなく、進化を遂げながら、世界の人々を守り続けている。
主要参考文献(敬称略):『赤十字とアンリ・デュナン 戦争とヒューマニティの相剋』 吹浦忠正著 中央公論新社
赤十字の父、アンリ=デュナンの生涯をご紹介しながら、国際赤十字社の成り立ちとその活動も合わせてご紹介させていただきました。デュナンが亡くなった1910年には、同じく人道救援活動を行ったナイティンゲールやモワニエが亡くなっていると本編でもご紹介しましたが、ロシアの写実主義作家、レフ=トルストイ(1828.9.9-1910.11.20。『戦争と平和』『アンナ=カレーニナ』『復活』『イワンの馬鹿』)は生没年がデュナンと同じで、同じ時代を生きて、共に戦争の悲惨さを間近で経験し、人間の生き方や平和の意味をうったえた人物です。
さて、今回の受験世界史における学習ポイントです。19世紀の国際的な平和活動をする人たちや団体の内容のみを一括りにして、大問メインで出題される頻度は少ないです。たとえば、項目は今回の主役デュナンおよび国際赤十字社、ナイティンゲール、第1回アテネ国際オリンピック大会(1896)、万国博覧会、万国郵便連合(1875成立)、万国平和会議(ハーグ国際平和会議。1899,1907)、第一インターナショナル(1864-75)、第二インターナショナル(1899-1916)がだいたい重要な用語ですが、デュナンはイタリア統一戦争絡み、ナイティンゲールはクリミア戦争絡み、第1、第2インターナショナルは社会主義絡みで出題される方が圧倒的です。 余談ですが、1907年に開催された第2回万国平和会議では、いわゆるハーグ密使事件が勃発していることにも注目です。
赤十字関係では、本編で登場したジュネーヴ条約は、「赤十字条約」の名前で用語集に登場することがあります。また赤十字条約だけでなく、イタリア統一戦争の最大の激戦となったソルフェリーノの戦いや、ジュネーヴ出身であること、そして著書『ソルフェリーノの思い出(記念)』の用語をヒントに、デュナンの名を答えさせる問題はあると思います。
あと、ジュネーヴ会議ですが、他の時代においても多く存在し、特に大学受験で登場する"ジュネーヴ会議"および条約は、1954年のインドシナ戦争(1946-54)の解決にむけての会議(ジュネーヴ休戦協定)の方で出題されることが多く、用語集でも登場します。こちらも抑えておきましょう。ただ、ジュネーヴは国際連盟が置かれた都市であり、現在の国際連合のいろいろな機関が置かれ、世界各国の国際的な平和管理を行われているだけに、過去、ジュネーヴと名のつく国際会議や国際条約は非常に多いです。たとえば、1927年に補助艦の軍縮について話し合った日英米の軍縮会議(ジュネーヴ軍縮会議。1927)や冷戦時代の1955年7月に米英仏ソの首脳がジュネーヴに集まって行われた会談(ジュネーヴ4巨頭会談。1955)もおさえてほしいところです。
【外部リンク】・・・wikipediaより
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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。