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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第268話


輝く戦歴・その5
~ターニング・ポイント~

  1. その1 "誕生と成長"はこちら
  2. その2 "帝国軍躍進"はこちら
  3. その3 "大家との遭遇"はこちら
  4. その4 "同志たちの最期"はこちら

 オスマン帝国(1299-1922)では、新たに即位した第11代スルタン、セリム2世(位1556-74)の治世に移った。大宰相ソコルル=メフメト=パシャ(大宰相任1565-79)はスルタンにより帝国の指揮権を任された。実は16世紀半ば以降のヨーロッパでは新大陸の銀が西ヨーロッパに持ち込まれ、物価が高騰する現象に見舞われており(世に言う「価格革命」のこと)、商工業が発展する反面、固定された地代が依存財源であった封建領主の没落を招いた。かつてのティマール制度もスルタンに分与された土地は封土そのもので、ティマールを与えられる代わりに従軍するシパーヒー騎士層の没落はなおいっそう加速化した。一方でデヴシルメ(キリスト教徒臣民の子弟を強制徴収して、イスラム教に改宗させて徴用)で構成されたカプクル軍団の中核を為すイェニチェリが、前スルタンのスレイマン1世(大帝。帝位1520-66)の治世においてなおいっそう増強された。同時に海軍も1538年のプレヴェザ海戦でスペイン=ハプスブルク家スペイン王国(1516-1700)・ヴェネツィア共和国(697-1797)・ローマ教皇領(752-1870)の連合艦隊で勝利を手にし、地中海の制海権を得、大きく飛躍した。

 スレイマンの最晩年に大宰相(ウル=ヴェジール。宰相を意味するヴェジール(ワズィール)の筆頭格)となったソコルルは、ボスニアの正教徒信者で、デヴシルメによってムスリムとなったが、イェニチェリへは送られなかった。スレイマン1世の治世では宮中で皇帝側近の兵士として認められ、モハーチの戦い(1526)や第一次ウィーン包囲(1529.9-29.10)などに参加、また海軍総指揮のバルバロッサ(ハイレッディン=バルバロッサ。1475-1546)の後継となって制海権を掌握し、プレヴェザの海戦以来対立していたヴェネツィアと1570年一戦を交え、翌1571年ヴェネツィア領であったキプロス島を制圧した(キプロス島はワインの生産地であり、"大酒飲み"との異称を持つセリム2世がキプロス産ワインを手中に収めるのが目的だったという説がある)。

 キプロス制圧により、西欧側はローマ教皇ピウス5世(教皇位1566-72)の提唱で神聖同盟を結成、カトリック勢力の連合艦隊を再建した。参加したのは、教皇領、フェリペ2世(スペイン王位1556-98)率いるスペイン王国、ヴェネツィア共和国をはじめとして、ジェノヴァ共和国(1096-1797)、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の他、北イタリアのカトリック系諸国家(トスカーナ、サヴォイアなど)も加わった。プレヴェザ海戦以降の対オスマン報復戦の様相を呈した。ヨーロッパ連合艦隊はフェリペ2世の異母弟にあたる当時24歳のドン=フアン(1547-78)が指揮をとり、ガレー船200余隻を中心とする約300隻の艦隊、約1,800門の大砲、そして兵員はプレヴェザの60,000よりは激減したが、およそ22,000規模の戦力で対オスマンに挑んだ。
 一方のオスマン帝国海軍は、ソコルルに指揮を命じられたアリ=パシャ大提督(任1569-71。大提督は"カプダン=パシャ"と呼ばれるオスマン艦隊の最高司令官)を中心に、プレヴェザ海戦以上の315余隻の艦隊と大砲2,000門、そして兵員26,000人に増強して臨んだ。アリ=パシャは艦隊右翼側を海賊のマホメット=シロッコ(?-1571)、艦隊左翼側をアルジェのベイレルベイ(州県郡の行政区分におけるの軍政官。州は県より上)をつとめたウルチュ=アリ(クルチ=アリ=パシャ。オッキアーリ。1519-87)に命じた。

 1571年10月7日正午、火蓋は切って落とされた。レパントの海戦の開戦である。イオニア海のギリシアへの湾入部にあたるギリシア本土とペロポネソス半島をはさむコリント湾が海戦の舞台で、レパントは同湾北岸に位置する("レパント"の名はイタリア語やスペイン語読み。ギリシア語では"ナフパクトス")。この地域はオスマン帝国の支配域であり、陸上支援も有利な状況であった。
 熾烈な戦いとなったこの海戦はヨーロッパ連合艦隊の左翼を率いたヴェネツィアのアゴスティーノ=バルバリーゴ指揮官(1518-71)が、強勢であるシロッコの艦隊に攻撃され、右目を射貫かれて数日後に死亡し、劣勢に立たされるが、強固で用意周到な協力体制を敷いていた連合艦隊は援軍の防衛によりこの危機を切り抜け、猛反撃を開始、シロッコの船を攻撃して沈没させた。シロッコは沈没する船から飛び降りるもヴェネツィア軍に捕らわれ、その後死亡した。中央では、連合艦隊を率いるドン=フアンと、オスマン艦隊を率いるアリ=パシャが激戦を展開、結果アリ=パシャは戦死し、最高司令官を失ったオスマン側がいっきに劣勢に転じた。およそ200隻近いガレー船が拿捕、もしくは撃沈され、オスマン側だけでも5,000の戦死者を出し、多くの兵士が捕虜となってしまった。連合艦隊側も戦死者は7,000以上と多かったが、バルバリーゴ以外の高位指揮官を落命させることはなく、ガレー船を十数隻失ったのみにとどまった。結局、この海戦はオスマン帝国艦隊の敗北となった。戦勝したヨーロッパの連合艦隊に比べても、海軍組織の構造や技術などには何の遜色はなかった。しかしヨーロッパ側の用意周到な戦術に比べ、オスマン艦隊側では正面から戦うことを主張したアリ=パシャと、砲撃を受けた艦船の傷みが進行したため守りに徹するべきだと主張したウルチュ=アリとの衝突で戦士一同の団結が鈍り、結果的に敗戦を招いてしまった。ウルチュ=アリは水軍出身で豊富な経験と知識を持っていたが、総指揮を務めたアリ=パシャは過去の数ある戦争に勝ち続けたものの、海戦は経験が乏しかった。ウルチュ=アリは死傷兵の続出で戦意が喪失しかけている自軍を守ることを優先したが、ウルチュ=アリの主張を退けて正面攻撃を強硬すれば必ず勝てると過信した、アリ=パシャ総指揮の判断が勝敗を分ける結果となってしまった。オスマン艦隊の戦略失敗でアリ=パシャやシロッコらを失って大敗北を喫したのに対し、神聖同盟でもって協力体制を敷き、たとえ指揮官を失っても動揺せず守りに入ってヨーロッパ連合艦隊側が勝ちを収めたのである。

 しかしこの海戦に勝利したものの、神聖同盟の強固な協力体制が解放されてしまい、ヨーロッパ連合艦隊のキプロス奪還とはならなかった。オスマン帝国海軍はあくまでアリ=パシャの戦術面で失敗を被っただけで、強力な軍隊に変わりはなく、ソコルルはウルチュ=アリを大提督に任命して(任1571-87)、船体の修復および艦隊の再建をほぼ半年余で完了させ1572年の6月には250隻に及ぶオスマン艦隊を再度地中海に送り出し、翌1573年にはヴェネツィアとの和睦を成立させ、さらに1574年にはチュニジアのハフス朝(1229-1574)を滅ぼしてチュニジアを支配下に置くなど(オスマン領チュニジア。1574-1705)、オスマン帝国の国際的地位は揺らぐことなく、地中海域の制海権も依然として保ったのであった。

 レパントでの敗戦に動じなかったオスマン帝国であったが、セリム2世は同1574年末に没した。セリム2世は軍事と行政双方に無定見であったが、彼が統治を官人任せにしたことがかえって奏功し、ソコルル=メフメト=パシャといった有能な大宰相に恵まれ、スレイマン1世に続く盛期を維持できたと言えよう。ソコルルは国力維持を積極的につとめた名宰相であり、"赤いリンゴ"をまるまるかじり取ることはせず、国内の平和を優先的に考えていた。例えば軍事に依存して帝国の領土拡大を限界以上に企画することは避け、国内の平和的安定をはかるために紅海と地中海をつなぐ、後のスエズ運河にもつながるような大運河の開削計画も考えていたとも言われている。大宰相の名は宮廷建築家のミマール=スィナンミマーリ=シナン。1489-1588)によって、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ東部のヴィシェグラードを流れるドリナ川に架けられた橋が、"ソコルル=メフメト=パシャ橋"として後世にも残り、2007年に世界遺産として登録された。

 セリム2世没後、子のムラト(1546-95)がムラト3世(位1574-95)として即位、ソコルルは引き続き大宰相として留任した。ムラト3世は父セリム2世同様無能なスルタンであり、統治はソコルル大宰相に委ねることになった。ソコルルはスレイマン1世から3代にわたって大宰相の座にとどまる事になる。しかしソコルルの不拡大および平和安定政策に嫌気が差す軍人官僚も出始めており、不拡大方針を転換しなければならなかった。結果、ソコルルは不承不承、長年の宿敵であるペルシアのサファヴィー朝(1501-1736)に侵攻を命じるが(オスマン=サファヴィー戦争。1578-90)、1579年10月、ソコルルは暗殺された(ソコルル=メフメト=パシャ暗殺。1579.10)。サファヴィー朝を支持する貧しいスーフィー修行僧("ダルヴィーシュ"と呼ばれる)が実行犯と言われるが真実は謎に包まれている。

 暗君の治世が続くオスマン帝国で、名宰相と謳われたソコルルの死により、安定した国勢に暗雲が垂れ込めてきた。事実、その後の大宰相の任期は短く、ムラト3世の治世では11回もの交代劇があったことから、これまで大宰相で成り立っていた帝国では財政が逼迫化し、軍事面でもサファヴィー朝との戦争の長期化で北コーカサスのダゲスタン(現ロシア連邦のダゲスタン共和国)方面や南コーカサス(ザカフカース)のアゼルバイジャンやグルジア(ジョージア)等を制圧して、サファヴィー朝と和約(1590)を結ぶことができたものの軍費の増大化は避けられず、講和が締結できたのも当時のサファヴィー朝の国勢もオスマン同様弱く(サファヴィー朝では当時宮廷内で対立が激化していた)、ほぼ無政府状態であったためであった。
 ところが、国勢を弱めていたサファヴィー朝では、講和を結んだアッバース1世シャー位1588-1629)の下で内政改革を行い、内部の主立った対立を鎮め、常備軍を再編制して軍を強化していくうちに徐々に国力が回復していき、オスマン帝国もその脅威にさらされ、アゼルバイジャンやイラク諸都市など、オスマン帝国がこれまでサファヴィー朝から勝ち得た東方領土を次々と奪還されていき、対サファヴィー朝との国境は17世紀初めにはスレイマン時代にサファヴィー朝との間で結ばれたアマスィヤ条約(1555)の頃にまで狭められ、東方の勢力がいっきに後退した。
 また西方でもハンガリー問題で出陣を余儀なくされ、オスマン帝国領ハンガリー(ハンガリー中央部と南部。1541-1699)とハプスブルク家領ハンガリー(王領ハンガリー。ハンガリー王はハプスブルク家から輩出。ハンガリー北部・西部。1526-1867)との国境線では領有権争いが絶えなかった。またトランシルヴァニアでもオスマン帝国に臣従的であったサポヤイ家領ハンガリー(東ハンガリー王国。1526?/1529?-70)がハプスブルク家と和解し、ハプスブルク家にハンガリー王位を譲る見返りにトランシルヴァニア公を賜り、トランシルヴァニア公国(1571-1711)と改称したことで、オスマン帝国に激震が走った。しかもトランシルヴァニア公国建国直後にサポヤイ家からバートリ家に移ると、トランシルヴァニア公国はオスマン帝国の宗主権下に置かれているにもかかわらず、時にハプスブルク家に靡く姿勢を見せるなどしたため、ハンガリーでの戦争は17世紀初頭まで続く結果となった。

 こうした情勢から財政逼迫が続くオスマン帝国であったが、軍隊が東西双方に忙殺されているため、アナトリアで激増していた、帝国統治に反して反乱する人たち("ジェラーリー"と呼ばれる)の鎮圧のも困難を極めた。イェニチェリはスレイマン時代より増強されていったが、それ以降になると財政難から来る経済危機や国内や属領で反乱が頻発するようになり、これまでイスタンブル周辺に駐兵させていたイェニチェリを国中に守備兵として分散せざるを得なくなった。またムラト3世の治世では、デヴシルメで採用されたキリスト教奴隷を改宗させるプロセスを経ず、採用時からムスリムであるトルコ人が入隊が可能になったり、妻帯を禁じるルールなどといった軍紀軍律が改正されたため、イェニチェリ内で子どもが後継するといった世襲が行われるなど、デヴシルメ制度が崩れる傾向が目立ち、また地方に駐留したイェニチェリはこれまでは9ヶ月の任務の後、中央に帰還するシステムであったが、そのまま根を下ろし地方豪族と化して権力をふるっていった。この形が常態化することによって、イェニチェリの数は増えるも、精鋭で有効的な軍事力は低下する一方であった。

 大宰相やイェニチェリがこうした弱体化を生んだのも、帝国に君臨するべきオスマン皇帝(スルタン)の不安定化によるものが大きい。スレイマン1世が没して以降、オスマン帝国では不幸なことに暗君が続き、安定しなかったのである。1595年にムラト3世が没し、以降メフメト3世(ムラト3世の子。位1595-1603)、アフメト1世(メフメト3世の子。位1603-17)、ムスタファ1世(アフメト1世の弟。位1617-18)、オスマン2世(アフメト1世の子。位1618-22)、ムスタファ1世(復位。位1622-23)、ムラト4世(オスマン2世の弟。位1623-40)、イブラヒム帝(ムラト4世の弟。位1640-48)、メフメト4世(イブラヒムの子。位1648-87)、スレイマン2世(メフメト4世の弟。位1687-91)、アフメト2世(スレイマン2世の弟。位1691-95)、ムスタファ2世(メフメト4世の子。位1695-1703)と、ムラト4世とメフメト4世以外は在位10年に満たない状態であった。財政難にもかかわらず奢侈と放蕩に明け暮れ国政を気にかけることなくただひたすら歳月だけが過ぎていく状態が続き、たとえ懸命に善政を敷く聡明な皇帝が現れても改革に失敗し、反対者に暗殺されるか、病気などで早世するなど悪循環が続いた。こうしてオスマン帝国は内部から衰えが進行していき、黄金の時代からはすでに遠く懸け離れてしまっていた。

 ムラト4世の治世では、1624年にサファヴィー朝・アッバース1世により奪われたバグダードを1638年で奪い返すなど奮闘するも、メフメト4世時代にはアルバニアからキョプリュリュ家がでて、大宰相職を世襲で引き継ぎ、他の官職も独占した。強固な軍事力だった帝国は、官僚中心の帝国に様変わりしたものの、行政面では彼らの尽力で安定した中興期を現出し、1656年から83年まで、キョプリュリュ時代と呼ばれた。キョプリュリュ家の政界進出は支配組織の改革が進んだ。17世紀半ばでは、これまでオスマン皇帝中心の国権機関であった"御前会議(ディヴァーヌ=ヒュマーユーン)"から、大宰相中心の"大宰相府(イキンディ=ディヴァーヌ)"に徐々に移り、支配組織は大宰相府を中心とした形態になった。内政外政の文書処理および管理を行う"書記官長(レイス=ウル=キュッタープ)"は外務大臣としての任務を行い、対外的には戦争ではなく外交を重要視した。かつて軍人教育を積んだ宮廷奴隷がオスマン皇帝に信任されて大宰相になるのが通例であったが、既に過去の話であり、18世紀になると、ラミー=メフメト=パシャ(大宰相任1703)といった、書記官長から大宰相へ駆け上がるケースもでた。一方で、デヴシルメが弱体化したことで、強力な軍団を誇っていた"カプクル"という名前は、単に軍人官僚という階層を指す言葉として使われた。

 官僚国家となったオスマン帝国であったが、キョプリュリュ家の中興期を終わらせる事件も続発した。メフメト4世の即位した1648年は、ヨーロッパで三十年戦争の終結と、ウェストファリア条約締結によって、ハプスブルク家の天下が崩れた年である。そして彼らの敵であり、オスマン帝国を支持するフランス絶対王政が強勢と化す(太陽王ルイ14世の時代。位1643-1715)、新しい国際情勢となっていた。こうした中でハンガリー問題が再度こじれ、ハプスブルク家領ハンガリーで反乱が起こると(中心は1678年の反ハプスブルク主義者テケリ=イムレの蜂起テケリ=イムレ。1657-1705)、オスマン帝国は1683年、"クズル=エルマ(Kızıl Elma。"赤いリンゴ"の意味で、西欧のこと)"の獲得に再度目覚め、第一次ウィーン包囲(1529.9-29.10以来およそ150年ぶりにウィーン包囲を行った(第二次ウィーン包囲1683.7.13-9.12)。15万の戦力で挑んだものの、弱体化した軍事力、技術力、そして軍内部の不協和音状態は否めず、2ヶ月で敗退、計画は失敗に終わった。しかもハプスブルク家はキリスト教勢力を見せつけ、ヴェネツィア、ロシア、ポーランドなどと新たな神聖同盟をローマ教皇(インノケンティウス11世。位1676-89)の提唱によって結成し、大トルコ戦争(1683-99)に飛び火し、オスマン帝国軍は戦況劣勢を強いられた。またハンガリーにおいても大敵であるハプスブルク家側の貴族(ロレーヌ公シャルル5世。公位1675-90)の軍相手に、1526年以来のモハーチの戦いが再び行われるも大敗を喫した(第二次モハーチの戦い。1687.8)。そのハンガリーの一部を構成するトランシルヴァニア公国では1690年にテケリ=イムレがトランシルヴァニア公(公位1690)を賜るなどオスマン帝国側についていたが、オスマン帝国の戦局が不利になるとすぐに公位を剥奪されるなどしてハプスブルク家寄りになっていき、トランシルヴァニア公国はハプスブルク家から出たハンガリー王(当時は神聖ローマ皇帝レオポルト1世がリポート1世として君臨。ハンガリー王位1655-1705。帝位1658-1705)が直接統治することになった。

 そしてムスタファ2世の治世下、大トルコ戦争での大激戦地となった現セルビアのゼンタ(センタ)近郊のティサ川を渡河する最中にオスマン帝国軍はイタリア北西のサヴォイア公からでたプリンツ=オイゲン(1663-1736)率いる神聖同盟軍に急襲され(1697)、その結果、オスマン帝国は大敗北を喫した。そして1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国がハンガリーの中で保ってきたオスマン帝国領ハンガリーはハプスブルク家(国家としてはオーストリア。当時はオーストリア大公国。1457-1804)に明け渡し、トランシルヴァニア公国の宗主権もオスマン帝国からオーストリアに渡った。こうしてオスマン帝国はハンガリーを失った。また海の宿敵ヴェネツィアに対してはペロポネソス半島を割譲した。そして1686年から大トルコ戦争の一環として対オスマン帝国と戦ったロシア(当時ピョートル1世。ツァーリ在位1682-1725)とは1700年イスタンブル条約(コンスタンティノープル条約)を結び、ロシアのアゾフ(ドン川河口)に関する権益を承認した。大トルコ戦争によってロシアという思わぬ敵国が現れたことで、オスマン帝国は対露政策を実行せざるを得なくなった。

 こうした国際背景から、オスマン帝国内でも著しい衰微を象徴する事件が起こったのである。連戦連敗が続く軍事力の減退、領土縮小と財政難による国力の急激な低下により、オスマン帝国の社会では、過去の平和で安定していた時代への羨望が募った。またイェニチェリに所属する人々は、平時では商工業を営み、イスタンブル市民との一体化が進んでいた。こうした中でムスタファ2世は1703年にエディルネ(アドリアノープル)に移住するが、この移住はイスタンブルからエディルネへ遷都する計画であると噂された。またムスタファ2世側近のムフティー(イスタンブルのムフティーは"シェイヒュル=イスラム"といい、イスラム法学の最高権威者となっていた)がムスタファ2世の支持に取り入って一族を要職につかせており、また巨万の富を不正に貯めこんでいたとされ、イスラムの冒涜と非難されていた時期と重なってしまい、グルジア(ジョージア)遠征の際に従軍したイェニチェリに対する給与未払いの発覚を機に、イェニチェリはエディルネに逃げたムスタファ2世を行政放棄とみなし、同じくエディルネ遷都で棄てられると焦燥したイスタンブル市民と手を組み、大反乱を起こしたのである。結果、シェイヒュル=イスラムだったメフメト=フェイズッラー=エフェンディ(1639-1703)は殺害され、書記官長から昇格した大宰相ラミー=メフメト=パシャは失脚、ムスタファ2世は退位するという大事態となった。これがエディルネ事件で、オスマン帝国の衰退を知らしめた、1703年の大きな事件であった。

 圧倒的な軍事力と広大な領土、有能な指揮官を次々と輩出し、時代の最先端を立ち続けたオスマン帝国、次に即位したアフメト3世(ムスタファ2世の弟。位1703-30)から、本格的にロシアを一大敵国として、新たな時代を迎える。

主要参考文献

  1. 講談社現代新書『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董著
  2. 新紀元社『オスマン・トルコの軍隊 1300-1774 大帝国の滅亡』 デヴィッド・ニコル著
  3. 中経出版『オスマン帝国600年史』 設樂國廣監修 齊藤優子執筆

 この回では時代がおよそ130年動きましたが、メインの帝国の戦歴については、劣勢ばかり続きました。1571年のレパントの海戦では、敗戦したとは言え動じることはなく、ヨーロッパ側が優勢に立つことはありませんでした。スルタンであるオスマン皇帝が無能者が続き、自らは表に出ず、大宰相の力で国家を治めてきた時代です。どちらかと言えば、国内から乱れて弱体化していったような印象を受けます。ウェストファリア条約で劣勢に立たされたハプスブルク家の機会に乗じておこしたウィーン包囲を、自慢の軍で今度こそ達成させるつもりが財政難と兵力低下により失敗、また弱体していたサファヴィー朝が勢力をもちなおすなどの不運も重なるも、名君誕生はこの時代には実現しませんでした。ウィーン包囲の失敗で、近隣キリスト教諸国で組まれた反オスマンの神聖同盟と戦い劣勢を強いられる、ハンガリーでもせっかくハプスブルク家に反抗するテケリ=イムレというハンガリーの雄が登場してもうまく乗せることもできず、結局カルロヴィッツ条約でハンガリーをとられるなど、良くない事情が続きすぎました。本編にも少し登場しましたが、大トルコ戦争の一環でオスマン帝国がロシアと戦った戦争は16世紀から20世紀の間、十数次にわたり、"露土戦争"と呼ばれます。大学受験で学習する露土戦争は、1877年から78年の戦争で、俗に言う"東方問題"での重要な戦争ですが、本編では1686年から1700年まで、黒海北東のアゾフ地方やクリミア半島を舞台に戦闘が行われたもので、アゾフ権益を有利にしたロシアはこれに乗じて、黒海北岸進出を容易なものにしていくわけです。

 それでは大学受験世界史での学習ポイントです。レパントの海戦(1571)は名前、開戦年、敗者オスマン帝国、といったキーワードを覚えましょう。オスマンと戦う相手にスペインのフェリペ2世がいることや、負けてもオスマン帝国の地中海制海権が揺るがなかったことも大事です。他の豆知識として、『ドン=キホーテ』の著者セルバンテス(ミゲル=デ=セルバンテス。1547-1616)も従軍した海戦で有名です。
 それ以降は第228話「大国の斜陽」の学習ポイントでも載せましたが、第二次ウィーン包囲では、第一次と同様に失敗したこと、オスマン帝国の争う相手はハプスブルク家のオーストリアとポーランドであることを覚えておきましょう。その後大トルコ戦争(この戦争の名前が受験に出題されるのは稀です)によって結ばれた条約が1699年のカルロヴィッツ条約です。条約名、締結年、そしてオーストリア(ハプスブルク家)にハンガリーを割譲することを覚えましょう。ロシアとのイスタンブル条約は登場しませんが、アゾフを割譲するきっかけを作った条約です。アゾフ問題は1774年に決着します(次回にて詳細)。

 さて次回はいよいよ大荒れとなっていく直前におこった優雅な18世紀をご紹介します。軍隊いらずの平和な時代も現出した時代と、それがもたらした大きなツケとは?「輝く戦歴・第6話」をお楽しみに!!

【外部リンク】wikipediaより

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。
(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。