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プレスター=ジョンの伝説
イエス(B.C.7/B.C.4?-A.D.28?/A.D.30?)の十二使徒の中で、最も懐疑的だったとされるトマス(?-72)は、イエス復活をなかなか信じず、イエスの脇腹の傷に自身の指を入れて、ようやくイエスが神と実感したという逸話で有名な人物である。その使徒トマスは、紀元後72年12月21日、マイラーップール(インド最南東部のタミル=ナードゥ州チェンナイ県。州都チェンナイはかつてマドラスと呼ばれた)で殉教したと言われている。これは外典(正典である新約聖書に含まれていない文書)である『トマス行伝(ぎょうでん)』で語られていることであるが、同書にはインドのとある王国のグンダファル王という国王が登場し、トマスと関わったとされる内容が存在する。
紀元後1世紀、北インドにパルティア系の国家、インド=パルティア王国(A.D.1C頃)という王国があった。インド=パルティア王国はその名の通り、パルティア(アルサケス朝。B.C.248?-A.D.226?)から独立した国家であったが、クシャーナ朝(A.D.1-3C)などに領土を奪われるなどして縮小をたどり、国力は100年ほどしか保てなかったとされている。この王国の建設者で、パルティア人だったゴンドファルネス1世(在位期間は諸説あり。B.C.20?-紀元元年?/A.D.20?-50?)が、近年の調査でグンダファル王であることがわかった。
ガリラヤ(パレスチナ)の山に登った使徒たちはイエスから「私は天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ(『マタイによる福音書・第28章』より)」との言葉を受けた。『トマス行伝』によると、使徒たちは世界各地への伝道を分担して決め、使徒トマスはインドに向かうことが決まったが、トマスはこの決定を渋った。ちょうどその頃、グンダファル王は宮殿を建設する事情があり、建設者を求めてシリアに使者を送った。イエスはインドに行こうとしないトマスを奴隷として王の使者に売り、インドへ連れて行かせた。グンダファル王はインド=パルティア王国に入ったトマスに建設資金を与えたが、トマスはその資金を貧しい人々に与えてしまった。グンダファル王は宮殿が建設されていないことに怒り、トマスを幽閉した。グンダファル王はちょうど弟に先立たれ、打ち拉がれていたときであったが、その弟が数日後に甦り、弟は天に昇った時、天上にてトマスの建設した王の宮殿を見たと言い、グンダファル王は感激し、キリスト教に改宗した、という伝説の内容であった(改宗に関しては疑問もある)。
年月が経ち12世紀の教皇権の強かった時代、時のローマ教皇カリストゥス2世(位1119-24)は、1077年に起こった「カノッサの屈辱」に始まる聖職叙任権闘争を解決に導くため、1122年にヴォルムス協約を締結してこの問題を決着に導いたが、この年、カリストゥス2世のもとへ訪れた聖職者がいた。インド大司教を司るヨハネ(12C?)と名乗る人物であった。ヨハネは当時権力の強かった教皇に自身の立場を認めてもらうべく、インドからローマへ来訪したとされるのだが、この話は伝説的要素が強く、ヨハネは聖職者ではないとする説も出ている。またカリストゥス2世の4代あとのローマ教皇エウゲニウス3世(位1145-53)の時、シリアの地中海側にあるジャブラの司教ユーグ(12C?)がエウゲニウス3世のもとへ訪れた。この頃のジャブラは十字軍国家の1つであるアンティオキア侯領(1098-1268)に組み込まれ、イスラム支配から守られていたが、ユーグ司教はエウゲニウス3世に対し、隣国で十字軍国家の1つであるエデッサ伯領(1098-1150)が1144年にザンギー朝(1127-1250)の創始者イマードゥッディーン=ザンギー(王位1127-46)に奪われたことを伝えた。これがエウゲニウス3世による第2回十字軍(1147-48)の提唱につながっていくのだが、さらにユーグ司教は、イスラム勢力に迫られていることに加え、東方からプレスター=ジョン("プレスター"は"司祭"を意味する。司祭王ジョン。ジョンはヨハネとも。プレスビュテル=ヨハンネス)と呼ばれるキリスト教の王国の王がいることをフライジング(現ドイツ南部のバイエルン州)のオットー司教(1111?/14?-58)に伝え、オットー司教はこれを1145年の記述として歴史書におさめた。ユーグ司教によると、プレスター=ジョンは神話上におけるインドの王で、ネストリウス派東方教会の司祭を司り、イスラム勢力から十字軍国家を助けようとしていた、という内容であった。
1140年代、東方では耶律大石(やりつたいせき。徳宗。とくそう。位1132-43)がトルキスタンに創建した西遼(せいりょう。カラ=キタイ。1132-1218)が強力であった。サマルカンド北方のカトワーン草原で、1141年西遼軍はイスラム勢力のカラ=ハン朝(840?-1212)と組んだセルジューク朝(広義1038-1308。イラクのセルジュークは1194年滅亡)の連合軍に大勝した(カトワーンの戦い。1141)。西遼を構成する契丹族(きったん。モンゴル系)はキリスト教ではなく仏教を主に信仰していたが(ただし耶律大石はマニ教信者の説あり)、キリスト教の聖地イェルサレムを支配するセルジューク朝を、西遼軍が倒したその勇姿が十字軍経由で西方にプラス材料として伝わり、プレスター=ジョンと同等の評価を受けたのである。またオットー司教の甥にあたる、神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝フリードリヒ1世(帝位1152-90。赤髭王バルバロッサ。シュタウフェン家)は1189年第3回十字軍(1189-92)を主導し、5月にアナトリア(小アジア)のコンヤ(当時の呼称は"イコニウム")を拠点にしていたセルジューク朝の地方政権、ルーム=セルジューク朝(1077-1308)の軍に戦勝、イコニウムを占領したが、翌年6月にアナトリアのサレフ川(アナトリア東南部)にフリードリヒ赤髭王は謎の死を迎えた(溺死、暗殺など諸説あり)。突然の死であったために赤髭王の殊勲や生き様が伝説化されたが、それまでにも伯父のオットー司教によって『フリードリヒの事情』が執筆され、オットー死後の1160年に発表されているが、フリードリヒ1世の伝説が"プレスター=ジョン"伝説をかきたてる格好の材料にもなったとされる。
12世紀半ばはこうしたヨーロッパのキリスト教勢力がイスラム教勢力の威力にさらされながらも望みを捨てず、東方のプレスター=ジョン、つまりジョン(ヨハネ)という司祭王の存在を信じて、彼の力を借りイスラム勢力を挟撃したいという望みが生まれた。耶律大石やフリードリヒ1世以外にも、たとえばビザンツ帝国(395-1453)のマヌエル1世(帝位1143-80。コムネノス朝。1081-1185)の時代、東方の王国君主および"東方の三博士(『新約聖書』に登場する東方からやってきた3人のマギ。マギは"博士"。産まれたばかりのイエスに会うために、イエスの生誕地パレスチナのベツレヘムまで赴き、イエスに対面して3種の贈り物を捧げたとされる。3種とは香料の乳香、香料および薬料の没薬(もつやく)、そして黄金)"のうちの1人で、その子孫たる人物からの書簡がビザンツ帝国宮中に寄せられた。マヌエル1世に届けられた書簡の差出人が"プレスター=ジョン"であったといわれ、東方の情報が数多く書き綴られていたと言われる(諸説あり)。
この書簡は様々な言語に翻訳され、内容も粉飾が加えられながらヨーロッパ各国に広まっていったが、差出人のプレスター=ジョンが何者なのか、そもそもそういう人物が存在したのか否か、書簡の内容は本当か否か、またこの書簡の存在自体が本当なのか否か、憶測の域を得ないものの、キリスト教世界では"プレスター=ジョン"についての関心が沸き上がった。12世紀後半になると、プレスター=ジョンの存在を期待してローマ=カトリック教会の権威を図ろうとする動きも出始め、ローマ教皇アレクサンデル3世(位1159-81)がプレスター=ジョン宛てに書簡を送り、対抗するイスラム勢力に脅威を与えようとしたという逸話が残る。
しかし13世紀になるとその期待が無残に散ってしまう。モンゴル帝国(狭義1206-71。広義1206-1634)の征服活動が活発となり、中でもバトゥ(1207-55)の大西征(モンゴルのヨーロッパ遠征。1236-1242)やフラグ(フレグ。1218?-65)の西征(1253-60)など、彼らの破壊と殺戮は西方に大きな衝撃を与えた。西方(特にヨーロッパ)は東方からやってきた彼らのことを、キリスト教のプレスター=ジョンはおろか、ギリシア神話の神で"地獄"の象徴とされた"タルタロス"を語源とする"タルタル人(地獄の人たち)"と呼ぶようになった。しかし一方で、モンゴル帝国に支配されたプレスター=ジョンのキリスト教国という見解も出始め、東方への熱は再燃した。
1245年、ローマ教皇インノケンティウス4世(位1243-54)はモンゴル人のキリスト教改宗の目的で、フランシスコ会修道士プラノ=カルピニ(1182?-1252)を派遣、翌年カルピニは第3代モンゴル皇帝グユク=ハン(定宗。位1246-48)に謁見、1247年帰国して『モンゴル人の歴史』を著述、モンゴル帝国の内情を紹介した。グユクの時代はネストリウス派キリスト教は保護されていたという(当時の宰相がネストリウス派キリスト教徒だったため。ただしグユク=ハンが信者だったかどうかは未詳)。また十字軍は13世紀でも行われ、フランス(カペー朝。987-1328)の国王ルイ9世(聖王。王位1226-70)は2度十字軍(1248-49,1270。回数は第6・7回、あるいは第7・8回のの数え方がある。【詳細】)を率いたが、1度目は失敗、2度目はルイ9世自身が遠征途中に没したため撤退した。1度目の撤退のあと、ルイ9世はイスラム勢力に対抗するため、十字軍の支援とキリスト教布教を目的に、フランシスコ会修道士ウィリアム=ルブルック(1220?-93?)をモンゴル帝国の首都カラコルム派遣を命じた(1253)。ルブルックは第4代モンゴル皇帝モンケ=ハン(憲宗。帝位1251-59)に謁見し、『旅行記』を記してモンゴルの事情や文化を伝えた。カルピニ、そしてルブルックの記録においても、モンゴルの国情や文化の紹介のみならず、当時のモンゴル帝国に盾突いた権力者を"プレスター=ジョン"になぞらえて紹介しており、関心の高さが窺える。
やがて、第5代モンゴル皇帝(帝位1260-94)で中国・元朝(げん。1271-1368)の初代皇帝(帝位1271-94)であるフビライ(クビライ。1215-94)に謁見したヴェネツィア共和国(697-1797)の商人マルコ=ポーロ(1254-1324)は、帰国後に発表した『世界の記述(東方見聞録)』においても、プレスター=ジョンになぞらえた記述を残している。それによると、初代モンゴル皇帝チンギス=ハン(帝位1206-27)が、即位前の1203年にケレイト部(モンゴル系?トルコ系?11-13C)の君主ワン=ハン(ワン=カン。オン=カン。トグリル。ハン位?-1203)に戦勝、ケレイトを支配下に治めて、帝国の基盤を築いていったが、ケレイト部はネストリウス派キリスト教を信仰しており、チンギスと戦ったケレイト王ワン=ハンがプレスター=ジョンであると推定される(『東方見聞録』では"ユヌ=カン"と記された)。
アジアのプレスター=ジョン伝説は14世紀後半になると、元朝の衰退とともにその探索の関心が薄れていった。一方で、"第2のプレスター=ジョン"が君臨する地としてアフリカ大陸に目が向けられた。その場所とは、現在のエチオピアおよびエリトリアあたりである。伝説によるとヘブライ王国(B.C.11C創設。B.C.10C南北分裂。分裂後イスラエル王国B.C.10C-B.C.722?/B.C.721?。ユダ王国B.C.10C-B.C.586)の3代目王ソロモン(王位B.C.971-B.C.931)と、『旧約聖書』に登場するシェバ(シバ)という名の王国の女王("シバの女王"。シェバはB.C.8世紀からA.D.3世紀末まで南アラビアにあったサバァ王国と同一視される) との間に産まれたメネリク1世(B.C.10C頃)が、伝説上における最初のアビシニア王(エチオピアの古名)とされるが、以降メネリク1世に始まるに始まるソロモン王家はエチオピアを中心に君主国家を形成し、たとえばエチオピア北部(現在のティグレ州)で栄え、320年頃にキリスト教に改宗したアクスム王国(エチオピア王国。紀元前後-572?/940?/1137?)もメネリク1世の末裔として王権強化を図り、13世紀に誕生したキリスト教国であるエチオピア帝国(1270-1975)もソロモン王家が主に帝国を支配した(エチオピア帝国ソロモン朝。1270-1851,1889-1936,1941-1975)。こうした背景から、プレスター=ジョン伝説がアフリカに舞台を移して再燃し、15世紀から16世紀におけるエチオピア皇帝をプレスター=ジョンととらえる動きが出てきた。特に13世紀半ばにイベリア半島で最初にレコンキスタ(国土回復運動。718-1492)を達成したポルトガル王国(1143-1910)のアヴィス朝(1385-1580)は、かねてからのプレスター=ジョン伝説を源泉とする"未だ見ぬキリスト教世界"に憧憬を募らせ、アジアやアフリカのキリスト教国を独自探索する試みが為された。
アヴィス朝初代王ジョアン1世(王位1385-1433)は子であるエンリケ航海王子(1394-1460)に命じて、マリーン朝(1196-1465。モロッコのベルベル系イスラム王朝)が支配する西北アフリカの港市セウタを1415年に攻略、これを始まりとする大航海時代(1415-17世紀)の幕が上がった。エンリケ王子はかねてから計画していたアフリカにおける金鉱の発見に加え、その鉱山を所有するアフリカのプレスター=ジョン(ポルトガルでは"プレスター=ジョアン")を確かめるため、西アフリカ沿岸の探検事業をおこし、探検家ディニス=ディアス(生没年不詳)らに命じてヴェルデ岬(アフリカ最西端。現セネガル)到達を実現させた(1445)。これがきっかけとなってポルトガルの探検事業は国家権益を求めた航路開拓へと変貌を遂げ、ジョアン2世(王位1481-95)の時代、探検家ディオゴ=カン(1452?-1486?)はコンゴ川を発見し(1482年頃)、同地にあったコンゴ王国(1395-1914)を"プレスター=ジョアン"の国であると想定し、同王国と交流と通商を実現(この通商は16世紀には奴隷貿易と発展する)、さらに航路は南下が試みられ、ディニス=ディアスの子バルトロメウ=ディアス(1450?-1500)の喜望峰到達(1488)を果たした。また旅行家ペル=ダ=コヴィリャン(1460?-1526)らは"プレスター=ジョアン"の王国を発見するためエジプト、アデン(現イエメン)、西インド等を陸路で回り、1493年にエチオピアに到達した。そして、喜望峰到達によるアフリカ南端の回航が確認できたことで、マヌエル1世(王位1495-1521)の治世、遂にはヴァスコ=ダ=ガマ(15C-1524)のインド到達(1498。インド南西部のカリカットに入港。現コーリコード)へとつながっていくのである。ペル=ダ=コヴィリャンは、1526年にエチオピアで客死したが、ポルトガルでは、コヴィリャンが滞在していた時期のエチオピア帝国を、"プレスター=ジョアン"の国として一時的に推認された状態であった。
しかし世界各地にヨーロッパ勢力が到達した17世紀半ば、大航海時代の終焉を迎えると共に、航海・探検の発達で全世界の情報が西ヨーロッパに収集しやすくなったことを受けて、プレスター=ジョンの存在を求める活動は衰退し、その後はフィクションの世界で彩られ、文字通り、"伝説"だけが後世に残された。しかしそれは理想の世界を追求する人々の心を擽らせる伝説として、現在においてもなお研究が続けられている。
今回は西ヨーロッパで12世紀から16世紀の間に流行した理想郷の伝説をご紹介しましたが、地域や年代の範囲が非常に広かったですね。宗教においてもキリスト教以外の宗教圏も登場しましたので少々まとまりにくい文面になったかもしれません。読みにくくてすみませんm(_
_)m
世界史で他に登場する理想郷は、イギリスのトマス=モア(1478-1535)が著した『ユートピア』や、本編で紹介したマルコ=ポーロの『東方見聞録』に見られる"黄金の国・ジパング(「日本」をさす)"などがあります。理想郷を求める動きは人間にとっては自然的であり、フィクションであれノンフィクションであれ、理想の世界はいつの世も語られているのですね。
さて、大学受験における世界史の学習ポイントを見て参りましょう。"プレスター=ジョン"という用語はかつては受験生用の用語集にも記載がありましたが、現在の教科書での記載が減ったこともあり、用語集には記載されなくなってきています。大学受験で出題されるケースは一般的にはありませんが、難関受験などで稀に登場する場合があります。答えさせなくても、大航海時代や東西文化交流、キリスト教関連などの分野で問題文に記述される場合もあります。特に過去の用語集では大航海時代のカテゴリーに入っていましたので、この分野を学習するには覚えておくと便利だと思います。
【外部リンク】・・・wikipediaより
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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。